一日の中心は瞑想。先生に報告しながら過ごしたタイの7泊8日
タイのダンマモーリー瞑想センターで、僕は七泊八日を過ごした。
きっかけは、バンコクで出会った先生に、短期間でもお坊さんになれる場所はないかと相談したことだった。紹介されたアユタヤの場所へ行ったが、いきなり短期で出家するのは難しく、まずはもう少し長く瞑想をした方がいいという話になった。そこで教えてもらったのが、このセンターだった。
本格的に修行している人たちと一緒に、毎日瞑想をしてみたかった。街では仕事や連絡の合間に瞑想する。センターでは逆だった。瞑想が一日の中心にあり、食事と休憩がその間に入る。
朝四時台から始まる一日
起床時刻の細部は記憶が曖昧だが、四時か四時半ごろには起きていた。早朝の実践、朝食、読経、その後も自主瞑想が続く。
夜には法話もあった。ただ、僕はタイ語が分からず、その時間にも自分で瞑想を続けることがあった。日程や運営は変わる可能性があるため、参加を考える場合は最新の公式案内を確認してほしい。
刺激が減れば、心が自動的に静まるわけではない
生活は、起きる、瞑想する、食べる、休むという形に単純になった。
しかし外の刺激が減ったぶん、退屈、眠気、焦り、痛み、過去の記憶が目立つこともあった。それらを抱えたまま、また歩き、また座った。
「痛かった」で終わらない報告
一日に一度、先生へ体験を報告した。最初の数日は僧侶から、その後は英語で細かく話せる尼僧から指導を受けた。
たとえば僕は、座る瞑想で痛みがひどく、途中で立ってしまうことを相談していた。先生からは、痛みがどういうものなのかをきちんと見るように、という趣旨の助言を受けていた。
正直、僕は疑っていた。痛いものは痛い。観察したところで、なくなるわけがないだろう、と。
それでも、次に見ることは具体的になった。「痛かった」で終わらせず、どこが、いつから、どう変わったかを見る。痛みが出たと報告すれば、避けたのか、観察したのかを尋ねられる。集中できなかったと言えば、そのことに気づいていたかが問われる。
何分できたかという結果だけでは、報告にならない。その時間に何が起きたかを振り返り、助言を受けて、もう一度試す。瞑想は、僕にとってそういうトレーニングになった。
今でも先生へ実践を報告するのは、「できた・できなかった」という自分の評価から、具体的な一回へ戻るためでもある。
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本でじっくり読みたい方へ
タイで過ごした時間が、どんな実践につながったのか。歩く瞑想の方法と僕の体験は、Kindle『座れなくても、瞑想はできる。』にもまとめています。
『座れなくても、瞑想はできる。』
タイの寺で学んだ――座る瞑想に挫折した人へ
著者:MCケロリン
