
瓦職人の記録|第17話(最終話) 「また」
何度かスーツ姿の人たちを連れた、真一社長の姿を目にすることがあった。
工場の中を歩き、建物を見て回り、時には書類を広げて何かを話している。
「あの人たち何の人ですか?」
私の問いに、三木さんは手を動かしたまま言った。
「銀行の人や。」
「…銀行?」
三木さんはそれ以上何も言わなかった。
三月三十一日。
その日は、春とは思えないほど空が高くて、雲ひとつない抜けるような青だった。
外ではフォークリフトがゆっくりと動き、どこかで金属のぶつかる乾いた音が響いていた。
いつもと変わらない昼下がり。
その何気ない景色が、あとから思えば最後の日常だった。
昼休憩が終わり、持ち場へ戻ろうとした時だった。
「ちょっと、みんな資料室に集まって。」
真一社長に呼ばれ、屋根屋以外の全員が資料室へ集まった。
蛍光灯の白い光の下。
誰も話さない。
誰も笑わない。
空気がぴんと張っていて、息をするのもどこか遠慮するような感じがあった。
真一社長は私たちを見渡し、静かに口を開いた。
「五月三十一日をもって、皆さん解雇という形になります。」
あと二か月だった。
部屋の温度が一段下がったような気がした。
誰かが小さく息を呑む音だけが聞こえた。
最初に口を開いたのは恵理子さんだった。
「そんなん、この歳で解雇されても仕事ないわ。」
米山さんも、小さくつぶやいた。
「何とかならんのかい」
真一社長は、一人ひとりの顔を見ながら話を続けた。
仕事が取れなくなっていたこと。
住宅街の中で工場を続けることが難しくなっていたこと。
移転先も探したこと。
新しく工場を建てる力も残っていなかったこと。
静かな口調だった。
誰も反論しなかった。
毎日この工場で働いていた私たちには、その話が現実だと分かっていた。
五月三十一日。
多くの仲間が工場を去っていった。
春樹さんは翌日から屋根屋へ移ることが決まっていた。
飾り瓦を担当していた三木さん、米山さん、鬼瓦を担当していた戸田さん、そして私は、残っていた仕事を終わらせるため、そのまま工場へ残ることになった。
人が少なくなった工場は、不思議なくらい静かだった。
広さは何も変わっていない。
それなのに天井が高くなったように感じる。
自分の足音だけが、やけに響いた。
しばらくすると、今度は測量の人たちが敷地へ入るようになった。
地面に印を付け、巻尺を伸ばし、何かを書き込んでいる。
工場の外では何かが少しずつ動き始めているようだった。
私たちは、その横で仕事を黙々と続けていた。
残っていた仕事を終えると、今度は道具を片付ける毎日が始まった。
木型についた土を落とす。
ヘラを一本ずつ布で磨く。
使えるものと、そうでないものを分けていく。
長年使ってきた道具は、手に取るだけで指が自然と決まった場所へ収まる。
一つずつ汚れを落とし、丁寧に箱へしまっていく。
それらは近所の瓦屋さんへ譲られることになっていた。
その作業をしていた時だった。
三木さんが何気なく言った。
「ヒロ、トラック乗っとるねん。」
「会社立ち上げる資金貯めるんやて。毎日朝早よから出ていきよるわ。」
三木さんは、息子の話をする父親の顔で笑った。
香港で聞いた話を思い出した。
もっと先の未来の話をしているのだと思っていた。
あの時の話をヒロさんは一つずつ実現していた。
すごいなぁ、ヒロさん。
「ういくん、どうすんの?」
三木さんに聞かれた。
「…僕は、まだ。」
次の言葉が出なかった。
喉の奥が少し詰まり、何か答えようとするほど頭の中から言葉が消えた。
真一社長は、戸田さんと私に声を掛けた。
「鬼師、続ける気あるか?道具を譲る瓦屋に話してみようか。」
戸田さんは笑って言った。
「もう歳やし、瓦屋はええわ。」
私は最後まで迷った。
鬼瓦を作る仕事は好きだった。
けれど、この仕事を続けている自分を、どうしても思い描くことができなかった。
「ありがとうございます。他の仕事を探してみます。」
七月三十一日。
外へ出ると、朝から蝉が鳴いていた。
工場の中よりも、外の方がずっと賑やかだった。
照り返しで熱を持ったアスファルト。
戸田さん、三木さん、米山さん、真一社長。
事務所の前で少し話をした。
特別なことは何も言わない。
「お疲れさん。」
「ほな。」
「また。」
いつもと同じ挨拶だった。
これで最後だという実感は、不思議なくらいなかった。
明日も朝になれば、またここへ来るような気がしていた。
工場を出て、いつもの住宅街を歩く。
歩いて十分。
何度も通った道だった。
蝉だけが、何事もなかったように鳴き続けていた。
あの日交わした「また」は、一度も来なかった。
工場は取り壊され、その広い敷地にはマンションが建った。
蝉の声を聞くと、ふとあの日の帰り道が頭をよぎることがある。
瓦職人としての八年間は、自分で選んで始めた道だった。
けれど、その終わり方だけは、自分で選べなかった。
あの日、道具を箱にしまいながら見えていなかった自分の姿は、それから何年もかけて、少しずつ形になっていった。
今こうして文章を書いているのも、あの時「何も思い描けなかった」自分への、遅れてきた返事なのかもしれない。
おわりに
ここまで17話、お付き合いいただき、本当にありがとうございました。
瓦職人として過ごした8年間は、私にとって大切な時間でした。
このシリーズを通して、その景色を皆さんと一緒に振り返ることができて、楽しかったです。
ありがとうございました。
森村 初