Lotus pink┊︎蓮、咲いているのに、どこか遠い。
雪が舞っていた。
映画『国宝』のラスト。
主人公・喜久雄がずっと探しつづけ、やっと見つけた景色は、これでもかと降り注ぐ白い雪。
「これだ」と、彼は舞台の上でつぶやく。
父親を目の前で殺されたとき、
その血とともに降っていたのが──雪。
ただの風景ではない。
憎しみと喪失の記憶に、
いつのまにか美しさが混ざってしまった風景。
意味はわからないのに、心がそれを探してしまう。
ずっと胸の奥に残り続ける、因縁のような美しさ。
カンボジアの「蓮」
今年の5月、わたしはアンコールワットにいた。
その街は敬虔深い。
あちこちに、記号のように蓮が置かれている。


その色があまりにも可愛らしかったので、
ちょうど季節になる今、
〝蓮のピンク色〟をテーマに、何かを書こうと思っていた。
そんな先日、日本に一時帰国し、たまたま観た映画『国宝』。
血や因縁、死や舞台。どれも、あまりに儚い。
それらが蓮の花に重なるなんて考えたこともなかったのに、
あの映画を観てから、うっすらと、ずっとロータスピンクの気配を感じている。

── 蓮は、なんとなく他の花と違う。
咲き方も、佇まいも、この世の重力から、ひとつ浮いている気がする。
極楽浄土の花。
泥の中から、まっすぐに立ちあがり、何事もなかったかのように、清らかなピンクの花を開かせる。
パカッと。


北京の蓮
北京ではこの季節、街角に蓮売りが現れる。
食用にもされるので、野菜市場には蓮の実や、つぼみも並ぶ。


──そんな北京の蓮事情を、以前、祖母にしたことがある。
「ハスの花、北京から手に入らないかしら」
そうつぶやいていた気がする。
なにしろ祖母は、蓮をいろいろな手芸に使いたいようだった。蓮の実を乾かして、その実の穴に、ちりめんの小さな布玉を詰めたり。布は古い着物の端切れを使っていて、まるで祖母の手からこぼれた記憶が、小さな蓮に宿っているよう。

──その祖母が、今年のはじめ、急に逝った。
戒名には「蓮」の字が入っていた。
みんなが口を揃えて言っていた。
「おばあちゃん、ハスが好きだったもんね」と。
私の中では、ただの記号だった蓮が、“彼岸の花”として浮かびあがってくる。
見慣れたその蓮台を使った古布の手芸も、急に一つ一つのカラフルさが際立って思えて、同時に、生前に一言も気の利いた褒め言葉も言えなかったなと、どの色も、儚く見えてくる。

「一蓮托生」という言葉があるけれど、蓮という花には、抗えない運命を引き受けながらも、それでも共に極楽で咲こうとする──そんな、静かで深い決意が宿っている。
綺麗なだけじゃない。
懐かしさ、威厳、そしてほんの少しのこわさまでも纏った、特別な存在。

いつか行きたい、タイ赤い睡蓮の海
去年だったか、どこかの喫茶店のトイレのカレンダーに、はっと目を奪われた。
──タイの「タレー・ブア・デーン」。
冬になると、湖が真っ赤な睡蓮に覆われるという。
まさに、この世のものじゃないような?
(蓮ではなく、こちらは睡蓮だけど)

(Canvaの写真素材よりお借りしました)
──う……行きたい。
そっと“行ってみたい場所リスト”に加える。
(※追記:2026年2月、訪れることができました)
🪷 🪷 🪷 🪷 🪷
映画『国宝』は、終始、儚さが漂っていた。
歌舞伎一家の「血」がその肉体に流れる者。
その血に恋い焦がれ、芸でその血に染まろうとする者。
いずれも、なぜかそこはかとなく、儚い。
雪。桜。
日本人の私たちは、その一瞬で消えゆく姿に、風流や雅を見いだしてきた。
けれど──
蓮の花には、また違った霊的なものが宿っている。

蓮とその周りだけ、あの世からワープしてきたような。
空の上からなにもかも悟られてる気がして、背筋を正したくなる。
映画『国宝』は〝血〟が重要なテーマになっていたけれど、
それこそアジア人としての「血」の中に、蓮の花への畏敬が、あらかじめプログラミングされているのかもしれない。

それは、まだ見ぬ極楽への憧憬なのか。
あるいは──生まれる前にいたかもしれない、なつかしい場所の遠い記憶なのか──。
蓮を見ると、『国宝』主人公・喜久雄のように、私も思ってしまう。
「この景色を、探していたんだ」と。
きっと、わたしだけじゃない。
みんな、そう思ってる。
それが蓮の持つ、美しさ、なのかな。

意味なんてなくても、なぜか胸に残ってしまう色。
わたしにとって、そのひとつが、ロータスピンク。
今年もまた、その色が、静かに咲きはじめている。
🖊️色ごとにエッセイを書いています📚
