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海の向こうで芋぀けた居堎所 フランス、 人ずの出䌚いが人生を぀なぐ ―

    第䞀章「アラン・シャペルで孊んだこず―運呜のレストランず人生を倉えた出䌚い」


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    レストランアランシャペル

    私はフランスニヌスにお日本料理を経営しおいる女性料理人だ。過去の修行時代の話や起業の話を綎っおいる。

    歳で初めおフランスのレストランで働いた時の話だ。
    そのレストランはアラン・シャペルず蚀っお料理人なら誰しもが憧れる料理界の最高峰レストランであった。

    料理孊校では垞に䞊䜍の成瞟を取り、自信もあった私であるが、このレストランで働き始めおからずいうものそれは党お厩れおいった。
    倧男たち十数人が垞に調理堎にいるのだが、皆真剣に料理に向き合っおいる。フランス語もたたならない私は堎に完党に飲たれおいた。

    その時の自分の盎属の䞊叞ずしお知り合った男性がいる。

    圌の名前はロヌラン。
    アラン・シャペル時代私の䞊叞であり、芪でありそしお真の友達であった。

    フランスの料理孊校ではいくら厳しかったずはいえ生埒は皆日本人であったのだ。

    初めおのフランス人だけの職堎。圌がいたから倧倉な毎日を乗り越えられた気がする。
    私はロヌランず䞀緒に魚のポゞションで働いおいた。
    アランシャペルは䌝統ず栌匏のある最高峰レストラン。䜿う皿も高䟡なアンティヌクのものも倚くお皿䞀぀觊るのさえも緊匵で憚られた。
    倧きなセップ茞や癜トリュフなどの、高玚食材も沢山あっお、秋になればゞビ゚ず呌ばれる青銖鎚や、リビ゚ヌル蚀われる野うさぎ(これが半端なく臭い😩)
    キゞなどが冷蔵庫に吊るされおいた。

    レストランの仕事だけではなく、圌は私をたくさんの堎所に連れ出しおくれた。
    チヌズ工堎や星付きレストラン、ワむン醞造や鶏飌育の芋孊など。
    圌ずアラン・シャペルの仲間たちず過ごす週末は、料理ぞの愛情に溢れ、ずおも楜しいものであった。
    アラン・シャペルでロヌランず共に過ごした5ヶ月間は自分の人生にずっお出発点であり、そしお最高の思い出をもたらしおくれたのである。
    この埌たくさんの詊緎が埅ち受けおいるのだが、それを乗り越えられたのはこの出䌚いがあったから。そう今でも思っおいる。

    第二章 21歳、フランスで味わった最初の挫折ず新しい旅


    アラン・シャペルを去る日

    2001幎の1月の終わり頃。12月に誕生日を迎えお私は21歳になっおいた。
    アラン・シャペルは2月に1ヶ月の䌑業に入るずのこずで、私は別のレストランに行くこずになり、このレストランを去らなければならなかった。
    ロヌランはこの時すでに、モナコの「ルむ・キャヌンズ」ずいうアラン・デュカスのレストランぞの就職が決たっおいお、お別れをしなければならなかった。私はもちろん悲しかったけれど、自分もアラン・シャペルを“卒業”しお、たた新たな䞖界ぞ矜ばたくのだず匷く思おうずしおいた。

    マルサネ・ラ・コヌトでの孀独


    そしお私は、たった1ヶ月だけではあるが、新倩地ずしおマルサネ・ラ・コヌトずいう、ワむン畑しかないずおも田舎の村に来たのである。
    私の働くレストランは、こぢんたりずしたアットホヌムな店だった。ただ、人間関係があたりうたく築けなかった。アラン・シャペルでの思い出を胞に意気揚々ずやっお来た私は、その違いにずおも驚かされた。䜏んでいた家もレストランからずおも遠く、近くのスヌパヌたで歩いお40分もかかった。埀埩1時間半。䌑みの日は買い物だけで終わっおしたった。

    私の心は少しず぀荒んでいった。心から愛したシャペルのみんなずロヌランがいない悲しみに打ちひしがれ、鬱のような状態になっおいったのだず思う。
    ある時、2月の寒空の䞋、凍えながら40分歩いおスヌパヌに着いた。その暪にあるカフェで座っおいるず、ある男性が私の前に来お座った。

    「君、悩んでいるこずがあるの 蟛そうに芋えるよ。僕も蟛いんだ。今、僕はピストルを持っおいるんだ。よかったら僕ず䞀緒に死なない」

    そんなこずを蚀われた。
    私の性栌は“0か100”の人間だ。100の時は最高だが、0の時は自分でも怖いほど闇に萜ちおいくように感じる時がある。悪魔がおいでおいでず手招きしおいるような感芚だ。この時も、私は人生の端から転萜しかけおいたのである。

    リペンで気づいたこず


    そしお远い打ちをかける出来事が起きた。
    1ヶ月のマルサネ・ラ・コヌトでの研修を終え、私は1人でリペンの街にいた。ある女性が「アンケヌトに答えおほしい」ず尋ねおきた。私はあたり考えずに頷いた。
    圌女はいく぀か質問をしたようだが、そのフランス語がたったく理解できなかったのだ。
    1幎半の孊校を経おアラン・シャペルで働きながら、私は自分がフランス瀟䌚に溶け蟌んでいたず思っおいた。友達もたくさんいたし、仕事は倧倉でも充実しおいた。
    でもそれは、アラン・シャペルでい぀も隣にいおくれたロヌランがいたからなのだず、この時ようやく気づいた。
    私が芋おいたキラキラしたフランスは、ロヌランずいう“ファむンダヌ”を通しお芋おいただけだった。
    今たで私の前に来る冷たい颚は、ロヌランが裏でふさいでくれおいただけだったのだ。
    今の私は䜕もない。フランス語も話せない。アラン・シャペルずロヌランの思い出が、指の先からポロポロず萜ちおいくように感じた。
    1人でいるフランスが、こんなにも孀独で倧倉なものなのかず、私はリペンの倧きなベルクヌル広堎で号泣した。


    日本ぞの垰囜ず葛藀



    その埌、私は料理孊校を卒業するずずもに、䞀床日本に垰囜した。
    しかしその時すでに、もう䞀床フランスに来るためのワヌキングホリデヌビザを取埗しおいお、仕事も決たっおいた。
    日本に垰っおから、正盎ずおも悩んだ。この先フランスに行くべきか、それずも取埗したビザを捚おお日本に残るか。リペンで最埌に受けた衝撃が忘れられず、フランスで1人でやっおいけるのか、䞍安ず恐怖が぀きたずっおいた。

    ある時、家族で新幹線に乗っおどこかぞ出かけた時のこず。私はロヌランから誕生日プレれントにもらった「ロリヌタ・ランプリカ」の銙氎を倧切に持っおいた。
    なぜかホヌムで、その銙氎をプシュッず抌しおしたった。するず近くにいたサラリヌマンが「臭ぇっ!!」ず蚀ったのだ。
    その頃の私はずおもセンシティブで、ロヌランずの思い出を吊定されたように感じ、涙が止たらなかった。

    母の手玙ず再出発



    フランスに再出発する私の背䞭を抌しおくれたのは母芪だった。今でも倧切に持っおいる手玙には、こう曞いおあった。
    「ゆかちゃん。倧切なゆかちゃんを、本圓は私もそばに眮いおおきたいけれど、貎方をここで止めたらダメだず思う。貎方はフランスに行かないず、䞀生埌悔するよ。行きなさい。」
    そしお私は、この時、二週間埌に日本ぞ垰囜できる埀埩切笊を手に、もう䞀床フランスぞ旅立った。ダメならすぐに垰ろう、そう思っおいた。

    第䞉章 南仏での修行ず成長――ロアゞスで孊んだ料理ず人生


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    南仏・ラ・ナプルに到着

    フランスに到着しお降り立った駅は、ラ・ナプルLa Napoule。南仏カンヌの隣、2぀目の駅だ。季節は4月。駅を降りるず海はずおも近く、青い海、青い空、そこらじゅうに咲く色ずりどりの花たち、光り茝く倪陜。目の前にコヌト・ダゞュヌルの景色が広がった。
    研修先の郚屋に着くず、マむテずいう女性が迎えおくれた。ずおも玠敵で優しい人だった。マむテが連れおきたグルヌプのメンバヌも皆優しく、着いたその日に私は母に電話した。
    「私、倧䞈倫だよここならやっおいける」
    前回、倧倉な時期にいた2月のマルサネ・ラ・コヌトや、寒空が続くリペンずは芋るものすべおが違いすぎお感動した。来た季節が良かったのも倧きかったのだろう。

    海のそばの暮らし

    アパヌトから少し歩いただけのずころに海があった。明らかに静岡の駿河湟の海の色ずは違う。飛んでいる鳥も砂浜も、䜕もかもが日本ず違った。ブヌゲンビリアが至る所に咲き、濃いピンクず葉の匷い緑のコントラストが矎しい。どこを芋回しおも絵画のようであった。

    ロアゞスでの仕事開始

    すぐに仕事が始たった。シャペルに匕き続き、たたも魚のポゞションだった。調理堎には垞時12、3人はいたず思う。皆男だった。魚のポゞションのシェフにクリストフ・デュクロ、その䞋にマチュヌ・モレロ埌にカンヌ・マルチネスホテル二぀星レストラン、パルムドヌルのスヌシェフ、ホテルの゚グれクティブスヌシェフずなる凄い男がいた。このクリストフこそ、私がこの先1幎぀いおいったシェフであった。

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    私が働き始めた4月から9月くらいたでがコヌト・ダゞュヌルのシヌズンだった。倏の忙しい時は昌150人、倜150人なんお時もあったように思う。本圓に忙しかった。

    修行の日々

    朝、シェフが垂堎で買っおくる魚が届く。党お鱗を萜ずしお内臓を取り、掗わなければいけない。小さなピンク色の rouget ずいう魚から、鯛、スズキ、的鯛、賄いのサヌモンたで、倚皮倚圩であった。
    魚のオヌブン焌きがスペシャリテで、い぀もこの魚にかけるレモンずオレンゞの粉を皮から䜜らなければいけなかったのだが、皮を粉末にする䜜業が本圓に倧倉だった。䜿う量が倚いので、いくら䜜っおも足りない、そんな毎日だった。

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    魚の呚りに添える野菜の䞋凊理も私の仕事だった。
    たた、掗い堎からお皿を取っおくる、鍋を取っおくるのも重芁な仕事だった。どの星付きレストランでも、たず掗い堎ず仲良くなっお皿や鍋を優先しお回しおもらう。これこそが、いちばん䞋っ端の最重芁任務であった。
    䞀床、冷蔵庫の奥にある鍋を取ろうずしお䞭身を党郚こがしおしたったこずがある。それはスヌプ・ド・ポワ゜ンだった。倚皮倚様な魚から長時間煮お䜜る魚のスヌプだ。私も郚門シェフも青ざめた。今からでは時間がない。倜のサヌビスに間に合わない  。どうやっお乗り切ったか芚えおいないが、ずにかく調理堎は戊堎であった。

    倩才で陜気なシェフ、クリストフ

    この時の郚門シェフ、クリストフ・デュクロは宇宙人みたいな人だった。料理の仕方、盛り方が倩才的で、そしおコメディアンみたいに面癜かった。仕事はスマヌトにこなすけれど、「陜気に笑いがなければダメ」ずいう兞型的な南仏人。圌ずの仕事は本圓に面癜かった。
    毎日朝から晩たでの仕事。ピリピリしおばかりでは䜓も持たない。ロアゞスでの毎日は䜓力的にはき぀かったけれど、皆「陜気に乗り切ろう」ずいう粟神だったように思う。キッチンのすぐ暪に倧きなドアがあり、南仏の颚を感じられたのも救いだった。
    それでも倜23時頃、アパヌトたでの垰り道をひずりで歩き、泣いお垰るこずも床々あった。

    運呜の地コヌトダゞュヌル

    このロアゞスで働いたのは5ヶ月間の出来事だったのだがこの先自分がこのコヌトダゞュヌルにもう䞀床来お幎以䞊䜏むこずになろうずはこの時は想像もしおいなかったのである。
    人生ずは面癜いものである。
    働く先を特に南仏に絞っおいたのではない。
    たたたた自分の料理孊校の先生が玹介しおくれたからなのだ。

    運呜の再䌚


    この埌10幎が過ぎお私がニヌスにレストランをオヌプンしたその幎、母芪ずこのロアゞスで食事をしおいた時のこず。
    今日はゆかちゃんが2番目に仕事をした堎所が芋れおよかった。でも1番目のアラン・シャペルずロヌランに䌚っおみたいな。
    そう話しおいた。
    私はロヌランずは8幎ほど連絡をずっおいなかった。
    その日はレストランでの食事を終えおバンスに行こうず思っおいた。
    でも道を間違えおサンポヌルドバンスに着いおしたい、
    ここも玠敵な街なのでカフェをしようず街を散策するこずに決めた。
    するず前からコックコヌトを着た男性が1人で歩いおきた。
    ロヌラン❓ 
    ゆか

    お互いそう蚀い合った。あの時は本圓に運呜だず思った。


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    8幎ぶりに連絡を取り合い私のレストランに食べにきおくれたロヌラン。
    圌がこう蚀った。
    あの時泣いおばかりいた君が、ニヌスでレストランを開くなんお。
    凄い、䜕が君を倉えたの

    そう聞かれおロヌランだよ。ロヌランに出䌚っお頑匵ろうっお必死に頑匵ったんだよ。
    そう蚀ったこず。圌にたた出䌚えおそう䌝えられたこず、䞀生懞呜に䜕かを頑匵っおいれば報われる。そう実感した出来事だった。


     

     
     
    18歳で枡仏。 フレンチ料理人を目指しお様々なレストランで修行を終え自身のレストランを南仏ニヌスでオヌプン。 経営15幎目にしお本垰囜を決意。フランス倧奜き、今たでの人生ストヌリヌやビザのこず、起業ぞの道など発信しおいきたいず思いたす。

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