社会を変えたい、なんて
社会を変えたい。
できることなら、そんなことは考えずに生きていたかった。
本当に暮らしやすい社会なら、「社会を変えたい」なんて、わざわざ思わないはずだから。
毎日明日を不安に思わなくて、働くことができて、困ったときには助けてもらえて、自分のままで生きていける。
そんな社会に生きていたら、「この社会を変えなければ」なんて考えるだろうか。
たぶん、考えない。
社会に、変えなければならないものがあるから、その言葉が生まれている。
合わせるのは個人か環境か
私たちは、あまりにも「自分が合わせる」ことに慣れすぎている。
学校に合わなければ、自分が頑張って合わせる。
会社に合わなければ、自分が努力して合わせる。
人間関係がうまくいかなければ、自分のコミュニケーション能力を見直す。
生活が苦しければ、もっと働く。
子育てが大変なら、もっと工夫する。
心身が限界でも、休むことに罪悪感を持つ。
何かがうまくいかないとき、どうしたら自分が適応できるかを考える。
でも、そもそも、なぜこちら側だけが適応し続けなければならないんだろう?とは、なかなか考えない。
もちろん、社会にはルールが必要だ。
誰もが好き勝手に生きていいわけではない。
でも、「みんながルールを守ること」と「みんなが同じように生きること」は違う。
朝から働ける人を基準にした働き方。
家族がいることを前提にした制度。
健康であることを前提にした生活。
お金があることを前提にした選択肢。
コミュニケーションが得意であることを前提にした人間関係。
そういう「当たり前」の中で生きるのが難しい人は必ず存在する。
そして、そのたびに「あなたが工夫してください」と言われる。
もちろん、工夫できることもあるし、自分にできる対策を考えることも大切だ。
でも、全部を個人の努力で解決しようとすると、社会の側にある問題が見えなくなる。
どこから見るか
たとえば、毎日会社に通うことが難しい人に、
「もっと体力をつけよう」
「生活リズムを整えよう」
「慣れれば大丈夫」
と言うことはできる。
でも同時に、「そもそも、仕事をするために毎日同じ場所へ行く必要があるのだろうか」と考えることもできる。
生活が苦しい人に、「もっと節約しよう」と言うこともできるが、「なぜ、普通に働いて生活しているだけで苦しくなるのだろう」と、考えることもできる。
子育てをしている人に、「もっと上手に両立しよう」と言うこともできる。
でも、
「なぜ、仕事と子育てを一人の人間が無理なく両立できる前提になっているんだろう」
と考えることもできる。
同じ問題でも、個人を変える方向から見るか、環境を変える方向から見るかで、見える景色はまったく違う。
もちろん、努力で変えられることも多くあることは分かっている
だけど、「努力すれば何とかなる」という言葉だけではどうにもならないこともあって、そのどうにもならない人にまで、「あなたの努力が足りない」と言い続ける社会は、おかしいと思う。
社会は変えていくものなのではないか
社会の当たり前や普通を疑える人が、もっと増えてほしい。
できない自分を責める前に、この仕組みが合わないだけなのかもしれない。と気付いてほしい。
「みんなそうしているから」と諦める前に、「別のやり方があってもいいんじゃない?」と言えるようになってほしい。
社会は、最初から完璧に設計されたものではない。
私たちが作ってきたものだから、私たちが変えることもできる。
だから私は、社会を変えたいと声を上げることを、特別なことだとは思わない。
そして、社会に満足している人からは、「社会を変えたい」という言葉は生まれにくい。
今の社会で困っていない人にとっては、社会を変える必要がないから。
だから、
「社会を変えたい」と言わざるを得ない人がいる。
「このままでは生きられない」と感じる人がいる。
「どうして私ばかり合わせなきゃいけないんだろう」と思う人がいる。
その人たちが声を上げなければならない。
その事実そのものが、
社会にまだ変えるべきところがある証拠なんじゃないだろうか。
でも結局私は、単純に、社会を変えたいなんて思わなくても、誰もがそれなりに生きていける社会であってほしい。
それだけなのだと思う。
追記
じゃあ、実際に私にできることは何か?を真正面から考えてみた記事も公開しています。
こちらもあわせて読んでいただけると嬉しいです。
