
「たしかなもの」がない世界で生きる
われらは愛と正義を否定する。
われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
脳性麻痺者を中心に活動する「青い芝の会」の行動綱領にはこのような一文がある。圧倒的な生きづらさの中で、それでも生きるということに向き合い続けた人の言葉には、人生に対する深い洞察があるように思う。
断片的にしか描かれていない地図を手に入れるかのように、学ぶほどに分からないことが増えていく。この際限のない「分からないもの」が意味することは、少なくとも現代において、私たちが生きる世界には「たしかなもの」や「正しいもの」は存在しないということではないだろうか。これは数百年前に哲学者たちがたどり着いた答えでもある。
「たしかなもの」がない世界では、宗教や愛、正義といったものに盲目的にならねば生きづらい。それでも、盲目的に生きることを否定したい人はどのように生きるべきなのだろうか。
「自分が幸せになるように生きる」というのが私なりの答えだ。そこには高尚な幸福も低俗な幸福もない。幸福を感じる軸も多様かつ流動的であっていい。愛や正義といった「盲目的なもの」とリンクしていても構わないと思う。ただ、自分が幸せになるために、それら盲目的なものを利用しているだけであって、主導権はあくまでも自分にある。盲目的になっているということを自覚している点で、愛や正義を信奉していれば幸せになれるといった盲目的な生き方とは異なる。
以下、幸福について。
不幸な状態から考えてみる。自分の幸せが自分以外にコントロールされている状態は不幸だと思う。だから私は未来や他人に対して「期待」をしない。
人は人との関係性にしか幸せを見出せないという言説をどこかで見た。人は社会的な動物であり、物質的にも精神的にも他人と隔絶されることはない。では、自己完結に近い形で得られる幸福はあるのだろうか。
「好き」という感情には相手への期待が混ざる。そのため、バイクなどの物質に対する愛着と同様のものを人に対してももつようにしている。私が「美しい」と思うものを、ただ一方的に「愛する」。これは、青い芝の会の行動綱領が批判している普遍的な「愛」ではない。
自己効力感を通して幸福を得るというのも自己完結型に近い。知的好奇心が満たされること。能力が向上すること。ナルシズムと重なる部分もある。
そもそも論、このようなことを考えない方が幸せに生きられるとも思う。しかし、ここから目を背けることもまた盲目的であるとも思う。
人生を悲観しているわけではない。
ただ、「たしかなもの」がない世界で、幸せと向き合い続けなければならないという諦念のようなものを近頃感じる。