メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo byimage_maker

なぜ今、日本では「ストイックな習慣」が流行っているのか? ― AI時代の米テック業界で学んだ、正解のない時代の「静かな生存戦略」

    最近、日本のビジネスパーソンの間で「ストイックな習慣化」がブームになっているように感じます。毎朝4時前に起床してランニングで汗を流し、出社前に勉強をこなす。そんな「目に見える苦行を完遂すること」がストイックで偉い、という風潮です。

    もちろん、そうした習慣をうまく続けている人の多くは、気合や根性ではなく「仕組み化」によって無理なくこなしているのでしょう。でも、それを見ている側は、つい「超人的な努力を継続できる強者のメソッド」として受け取ってしまいがちです。その結果、強者に憧れる人(ワナビー)が真似をして疲弊したり、ストイックであること自体が一種のステータスやマウンティングの道具として消費されたりしていることに、私はどこか違和感を覚えずにはいられません。

    なぜ今、日本でこのようなストイックな習慣化がもてはやされるのでしょうか。その背景には、AIの台頭や世界情勢の混乱など、「正解のない時代への不安」があるのだと思います。もちろん、これだけ不確実な世の中ですから、「せめて自分の中でコントロールできる確固たる習慣を持っていたい」と願う気持ちはとてもよく分かります。それは非常に納得のいく、健全な欲求です。

    しかし、これまで長らく「組織や社会に協調すること」が生存戦略だった私たち日本人は、急に「個人で立て」と突き放され、大きな不安に直面しているのだと思います。どうすればいいのか分からないからこそ、分かりやすい「強そうな人の真似」にすがり、ストイックな習慣を取り入れることで不安から逃れようとしているのではないでしょうか。

    私はいま、アメリカでエンジニアとして働きながら、大学院に通い、子どもを育てています。日本から少し離れた場所で働くなかで見えてきた、「正解のない時代の生き方・働き方」について、ここから少しお話しさせてください。

    「ストイック」という言葉の、本当の意味

    そもそも、「ストイック」という言葉の語源である「ストア哲学(ストイシズム)」は、他者を圧倒するための強者のメソッドではありません。

    ストア哲学が生まれたのは、紀元前3世紀の激動の時代です。創始者のゼノンは、貿易船の難破で全財産を失ったことをきっかけに、この哲学を始めたと言われています。つまり、最初から「想定外の最悪」を抱えた人の哲学だったのです。奴隷出身の哲学者エピクテトスが説いたように、それは「どうにもならない、ままならない世界の中で、自分がコントロールできる内面(理性)に集中し、正気を保つための知恵」でした。エリートの苦行などではなく、「無力な個人が静かな安寧を得るための生存戦略」だったのです。

    といっても、私はこの生き方を、最初から哲学から学んで身につけたわけではありません。たしかに学生のころ、哲学を少しかじったことはあります。でも当時はあくまで「学問」として頭に入れただけで、自分の生き方や日々の実践とは、まるで結びついていませんでした。

    順番はむしろ逆だったように思います。自分自身がこれまで「変えられないものは受け入れて、変えられるものにだけ集中する」というやり方でなんとか生き延びてきて、しかもそれは、私がいま働いているアメリカのテック業界では、ことさら気負わなくても当たり前とされている振る舞いでもありました。そうした日々の感覚をあるとき振り返ってみて、「ああ、学生時代に学問として読んだ"ストア哲学"は、こういうことを言っていたのか」と、後になってようやく腑に落ちた――そういう感覚に近いのです。

    その「当たり前」が具体的にどういうものなのか、もう少しお話しさせてください。

    アメリカのテックワーカーが実践する、静かな生存戦略

    もちろん、アメリカのテック業界にも「強者のパフォーマンス」としてのストイックさが全くないわけではありません。一部の起業家やエリートたちの間では、極端なトレーニングやハッキングで自らの限界に挑むような「マッチョな自己最適化」のカルチャーも存在します。

    でも、一般の人々が目指すべきは、そうしたごく一部の強者が行う過酷なゲームではないはずです。私が注目したいのは、レイオフの不安やAIの波に直面している「ごく普通のアメリカのテックワーカーたち」が実践している、もっと静かな生存戦略のほうです。

    アメリカでは、レイオフが日常茶飯事です。自分のパフォーマンスがどれだけ高くても、会社の大きな判断によって組織ごとなくなってしまうことがよくあります。自分一人の力ではどうしようもない、まさに「ままならない世界」です。だからこそ、彼らは「自分ができることをするしかない」と、淡々と割り切っています。

    たとえば、常にレジュメをアップデートして、いつでも転職できる準備をしておく。大学院に通ってリスキリングする。会社だけに頼らず、社外のネットワーキングを積極的に行い、何かあっても次の仕事が見つかるように動いておく。彼らはこうした「自分でコントロールできること」を、ハッスルして特別に頑張るのではなく、ごく普通のルーティンとして静かにこなしています。自分の人生の舵は自分で握る、というドライで合理的なスタンスが、当たり前のカルチャーとして根付いているのです。

    私自身が「ままならなさ」を思い知った瞬間

    とはいえ、こうしたスタンスを、私も最初から持っていたわけではありません。むしろ、思い通りにならない出来事に何度もぶつかるなかで、少しずつ身につけていったものでした。

    私は東京大学を卒業し、外資系の戦略コンサルを経て、アメリカのBig Techへ渡ってきました。もちろん、その時々で長期的な計画を立て、自分なりに道を選びとってきたつもりです。でも、振り返ってみると、いつだって自分の力ではどうにもならない制約や巡り合わせが、どこかについて回っていたのです。

    たとえば、妊娠中のつわりのピークと、キャリアを左右するビッグテックでの社内異動の面接が重なったことがあります。体調が最悪で、準備など何ひとつできませんでした。また、転職したばかりで覚えることが山積みの時期に、子どもが手足口病にかかって、1週間まるごと看病にあてざるをえなかったこともあります。

    環境という大きな力も、肌で感じました。シアトルからカリフォルニアへ引っ越したとき――一年の半分が雨か曇りの土地から、毎日が晴れの土地へ移ったとき――人間のやる気や生命力が、いかに気候という外部要因に左右される「生き物」のものであるかを痛感したのです。やる気とは、意志の問題である以前に、案外、日照量の問題だったりするのかもしれません。

    こうした出来事を前に、私はずいぶん長いあいだ、「自分の努力が足りないせいだ」と自分を責めていました。でも、ある時から考え方が変わりました。これらは「自分の努力が足りないから」起きたことではなく、そもそも自分の力では動かせない、外側の出来事だったのだと。

    あとから知ったのですが、ストア哲学にはこれをぴたりと言い当てる言葉があります。エピクテトスの「我々次第であるもの/我々次第でないもの」を分けて考える、という教えです。自分の判断や行動は「我々次第」、他人の評価や天気や子どもの体調は「我々次第ではない」。この二つを混同せず、前者にだけエネルギーを注ぐ。私が現場で手探りでやっていたことは、結局これだったのだと思います。

    「傲慢な自責」と「謙虚な自責」

    ここで、ひとつ言葉を分けてみたいと思います。「自責」には、二つの種類があるのではないでしょうか。

    ひとつは「傲慢な自責」です。「結果が出ないのは、お前の努力が足りないからだ」――つまり「すべては自分でコントロールできるはずだ」という、万能感を前提にした考え方です。一見すると謙虚で前向きに見えますが、実はとても傲慢で、コントロールできないことまで全部抱え込もうとするので、最後には人を燃え尽きさせてしまうように思います。

    もうひとつは「謙虚な自責」です。「世の中のほとんどは、自分にはコントロールできない」という事実をまず受け入れたうえで、残されたわずかな「自分にできること」にだけ、静かに集中する。私が、つわりの中の面接や、看病で停滞した仕事、シアトルの長い冬をなんとかやり過ごしてこられたのは、知らず知らずのうちに、後者のスタンスに切り替えていたからなのだと思います。

    では、この「謙虚な自責」を、忙しい毎日にどう取り入れていけばいいのでしょうか。ここからは、私自身が試してきた、二つの工夫を書いてみます。もし何か参考になればうれしいです。

    工夫その1:「結果」だけではなく「行動」を見る

    真面目な人ほど、目標を立てすぎて、その締め付けに苦しくなってしまうことがあると思います。良かれと思って立てた計画に、自分で窒息してしまう。これは、コントロールできない「結果」のほうを指標にしているから起きてしまうのではないでしょうか。

    そこで私は、自分が100%コントロールできる「行動量」だけを指標にするようにしています。私はこれを「インプット・メトリクス」と呼んでいます。

    たとえば「昇進する」というのは、上司の評価やタイミング、ポストの空き次第で、どんなに頑張っても自分だけでは決められない「結果」です。これを「毎週、自分が出した成果をひとつ、上司やチームに見える形で共有する」というような「行動」に翻訳する。そして、その行動を「今週、自分が確実に差し出せるリアルな時間」という枠の中に、パズルのようにそっとはめ込んでいくのです。

    私なりの手順

    1. 達成したい「結果」を、ひとつ書き出す(例:昇進する、希望の部署に異動する、転職で年収を上げる)

    2. それを「自分が100%コントロールできる行動」に翻訳する(例:昇進する→毎週、成果をひとつ上司に見える形で報告する)

    3. 確保できそうな時間を、できるだけ正直に見積もる

    4. その枠を超えてしまう計画は、思い切って削る。「行動できたか」を指標として追う

    そのうえで、限られた時間のなかで行動量を増やすために私がやっているのが、「自分にしかできないコアな部分以外を、できるだけAIに任せる」ことです。

    私はサイドワークとしてキャリア系のポッドキャストを毎週配信しているのですが、自分が一番エネルギーを注ぎたいのは、番組のコアとなる「エピソードの企画」を練る過程です。逆に、それ以外の事務的な作業は、なるべく手放したい。そこで最近は、複数の作業を一気通貫で実行する自分専用のAIエージェントを組んで、収録した音声の文字起こし、配信用の概要欄づくり、カット編集、さらにショート動画づくりまで任せられるようにしました。以前は手作業だった工程が、今では「収録」さえ済ませれば、あとは自動で流れていきます。自分が本当に注ぎたいところにエネルギーを残すために、それ以外をテクノロジーに預ける、という感覚です。

    もうひとつ、「やりたいことが多すぎて破綻してしまう」のを防ぐために、アイデアを「大きさ」で分けて扱うようにしています。

    1〜2時間で試せる小さなアイデアは、予定を少し調整してでも「今すぐやっていい」と自分に許可を出してしまいます。気になることが頭の片隅に居座っている時間のほうが、かえってもったいないからです。一方で、数日から数ヶ月かかる大きなアイデアは、日常のToDoリストには入れません。リストに入れてしまうと、「今日も手をつけられなかった」というお荷物になって、じわじわ自分を締め付け始めるからです。

    そういう大きなアイデアは、私の場合、自分の「AI秘書エージェント」に「ウィッシュリスト」として預けています。思いついた瞬間の熱量のまま放り込んで、いったん自分の視界から消して、寝かせる。時間を置いて見返すと、熱が冷めているものと、それでもやりたい「本物」とが、自然と選り分けられています。アイデアの「熱量」と「実行する価値」を、いったん切り離してあげる、という感じでしょうか。

    工夫その2:毎日同じ調子で走れる、という前提を手放す

    もうひとつ、私がだんだん大事だと思うようになったことがあります。それは、自分の調子には波がある、毎日同じだけの力を出せるわけではない、という当たり前の事実を、計画の「前提」に組み込むことです。

    世の中の時間術や習慣術の多くは、どこかで「人は24時間365日、いつでも100%の力を出せる」という前提を置いているように思います。でも、それはたぶん、自分の時間を自分の裁量でコントロールできる人を基準にした、ひとつの理想像にすぎないのではないでしょうか。

    現実の私たちには、子どもの発熱があり、ホルモンの波があり、天気による気分の浮き沈みがあります。これは怠けではなくて、人間という「生き物」のもともとの仕様です。だとしたら、それと戦って打ち負かそうとするより、最初からその仕様に合わせて計画を組んだほうが、ずっと無理がないように思うのです。私はこれを、「守りの時間術」と呼んでいます。ポイントは、二つあります。

    ひとつは、「1日単位ではなく、1週間単位で考える」こと。「毎日必ずこれをやる」と決めても、子どもの体調や自分のコンディション次第で、計画はすぐ崩れます。だから「1日できなくても落ち込まない。1週間を1単位として、そのどこかで終わっていればOK」というゆるい設計にしておく。このバッファが、何か想定外のことが起きたときの、いちばんの防御になってくれます。

    もうひとつは、「出力 × 時間 = 面積」で考えること。縦軸を「そのときの自分の出力」、横軸を「時間」とすると、ゴールは“面積”として捉えられます。看病中や体調が悪い時期は、どうしても出力が下がります。でも、出力が低くても、やめずに時間を延ばしていけば、面積は少しずつでも確実に積み上がっていきます。

    私なりの手順

    1. やることを「毎日」ではなく「今週中のどこか」で設計する

    2. 不調の日は、出力(質)を意図的に下げてもいい、と自分に許す

    3. ただし、完全にゼロにはしない。低い出力でも「続けること」だけは手放さない

    4. その日の達成度ではなく、積み上がった「面積」で自分を見てあげる

    実際、今年の前半は、シアトルからカリフォルニアへの引っ越しと大学院の試験が重なって、とても毎週ポッドキャストを作れる状況ではありませんでした。そこで私は、引っ越し前の1月に、9話分を一気に作り溜めしました。正直、普段なら100点を目指すところを、70点や80点で出した回もあります。それでも「クオリティが低くても、中断するよりはマシだ」と思って、出力を下げてでもゼロにしないことを優先しました。結果として、今もこうして一度も休まずに配信を続けられています。

    この「省エネモードを自分に許可する」というのが、真面目な人ほど、案外むずかしいのかもしれません。でも、変化の多い環境のなかで「やらないことを決める」「優先順位を下げる」という引き算ができるからこそ、本当に大切なものを手放さずに済むのだと思います。スパッと諦めることは、決して敗北ではなくて、むしろしなやかなで合理的な設計のひとつなのではないでしょうか。

    おわりに ― 強者の真似ではなく、自分の舵を

    激動の時代において、私たちが本当に必要としているのは、早起きをして他人と差をつけるような「エリートの苦行」ではないように思います。

    すべてをコントロールできるという万能感を、いったん手放してみる。まずは世の中の「大きな波」を受け入れる。そのうえで、残されたわずかな「自分にコントロールできること」にだけ、淡々と集中していく。「傲慢な自責」から「謙虚な自責」へ。それは諦めでも、ゆるさの言い訳でもなく、ままならない世界を生き延びるための、いちばん合理的なスタンスなのではないかと思っています。

    もし今、目標の締め付けに少し疲れているなら、ひとつだけ自分に問いかけてみてください。

    「今週、誰にも邪魔されず確保できる時間は、超リアルに見積もって何時間ですか?」

    その限られたリアルな枠の中に、自分で100%コントロールできる行動だけを、パズルのようにそっとはめ込んでいく。コアは自分が握って、残りはAIにそっと預ける。人間という生き物の仕様を、敵ではなく前提として、計画に織り込む。

    ままならない波は、それ自体は選べません。でも、その乗り方は、自分で選べるのだと思います。肩の力を抜きつつ、自分がコントロールできることに淡々と集中する。普通の私たちが目指すべきは、そんなナチュラルで合理的な「静かな生存戦略」のほうではないでしょうか。


    #創作大賞2026 #ビジネス部門


    この記事は、私が配信しているポッドキャスト「Design As You May ― アメリカで働くワーママエンジニアのキャリア戦略」で話してきたテーマを、一本の文章として書き直したものです。アメリカでエンジニア・大学院生・母として、『キャリアを自由にデザインするヒント』をお届けしています。

    — May Matsubara

    ▽ Spotify

    ▽ YouTube


     
     
    Engineer in the U.S. | ex-Big Tech | mom | grad student | Host of Design As You May 🎙️ hello@designasyoumay.com

    あなたへのおすすめ