花と愛と風のある、わたしのプリンス・エドワード島
連休中は義実家に通い、原稿を進めた。山と田んぼと畑に囲まれた涼やかな田舎にいると、面白いくらい執筆が捗る。蝉か鳥の声しか聞こえてこない、賑やかで静かな場所。街にいるといやでも入ってくる不要で余計な情報が一切なく、そのおかげで自分の中から発想が次々に生まれてくる。
その前の休みには友人の結婚式のため、軽井沢に足を運んでいた。軽井沢は下界の暑さが嘘みたいに涼しく、空気が美味しくて雰囲気ものんびりとしていた。その日はさすがに執筆する余裕などなかったけれど、著名な作家たちが軽井沢へ移住する理由がよくわかった。ここにはアイデアの泉がある。森と風と美味しい水。たったそれだけの環境で、人はなにかを生み出す活力を得られる。
別にコンクリートジャングルで暮らしているわけではないけれど、ふだん情報過多な生活をしているとだんだん頭の中がごちゃついてきて、書くものも安定しなくなる。私の暮らす街は生活する分には便利でいい街だけれど、国道をしょっちゅう暴走族が走り回るし道路は混むし年中空気が薄汚い。心が豊かになれる環境かといわれたら、そうとは答えられない。
『赤毛のアン』は、そんな私を想像力(または創造力)の森へと誘ってくれる本だった。原作を読むのは初めてだけれど、幼いころにビデオでアニメシリーズを観たことがあり、ストーリーは自分でも驚くほど記憶に残っていた。たぶん、当時の私もアンと同じく空想好きの子供で、アンには親近感を抱いていたからだと思う。
アニメを見ても原作を読んでも、目の前に広がるプリンス・エドワード島の景色は変わらなかった。種類豊富な花々があちこちに咲き誇り、あたりは草木の匂いに包まれ、パフスリーブの服を着た少女たちが森じゅうを駆け回っている。夢みたいだ。夢みたいだけど、これはたしかに現実のプリンス・エドワード島の景色なのだと思う。
グリーンゲイブルズに孤児院から引き取られたアンは、持ち前の想像力とおしゃべりな快活さで物語をぐいぐい進めていく。最初のころの向こう見ずで失敗続きのアンも、大人へ近づき落ち着きはしたものの感じやすさは変わらず人一倍のアンも、私はどちらも好きだ。そしてアンの残す言葉には時折はっとさせられる。これらはその中でも、特に私の好きな言葉たち。
この部屋には、あんまりいろいろなものがあって、しかも、みんなあんまり素晴らしいので、想像の余地がないのね。貧しい者の幸せのひとつは――たくさん想像できるものがあるというところだわ。
そうね、あたしは自分のほか、だれにもなりたくないわ。たとえ一生、ダイヤモンドになぐさめてもらえずにすごしても。
あたしは、ちっとも変わっていないわ――ほんとに、いつも同じアンよ。ただ、刈り込みをしたり、枝をひろげたりしただけなの。ほんとうのあたしは――そのうしろにいて――同じなのよ。あたしがどこへ行こうと、外側がどんなに変わろうと、ちっともちがわないのよ。心はいつまでもマリラの小さなアンなのよ。
そうなのだ。あまりにもものが多く豊かでありすぎると、想像の余地がなくなる。だから想像する上で「ないこと」はものすごく大切なことで、「ないこと」を失ってはならないと思う。
「ないこと」は決してなにもないわけではない。むしろものはありすぎるほどある。
たとえば現代のあらゆるコンテンツはこちらが求めていなくとも勝手に与えられるものだけれど、情報の海から離れた土地では必要なものを必要なだけ手にし、好きに手放すことができる。ものを自分の手の届く範囲で扱うことができる。思考が狭まる原因は情報の主導権を他者に握られることにあり、だからこそ現代を生きる私たちはなにもしていないのに疲れてしまい、想像力も枯渇してしまうのかもしれない。
そう考えると私にとってのプリンス・エドワード島は義実家であり、軽井沢でもある。人間の暮らしがどんなに便利で豊かになったとしても、想像力の翼を広げるのにふさわしい場所はきっといつの時代も変わらない。
スマホを置いて、風と鳥の声を浴び、名前の知らない花を愛で、畑で採れたばかりの野菜を頬張る。やがて頭の中は澄みわたり、私の物語は進みだす。走りだす。
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