「放浪の天才数学者」エルデシュが遺した謎——AIが解いたのは本当に未解決問題だったのか

2025年10月、数学界とAI業界を震撼させる出来事が起こりました。オープンAIの幹部が「GPT-5が未解決の数学問題10問を解いた」とSNSで発表したのです。しかし、この発表はわずか数時間で削除されました。グーグル・ディープマインドのCEO、デミス・ハサビスが「これは恥ずかしい」と厳しく批判したからです。

この騒動の中心にいたのは、20世紀最大の天才数学者の一人、ポール・エルデシュが遺した「エルデシュ問題」でした。今回は、エルデシュという驚異的な数学者の業績と、彼が遺した数学の謎についてお話しします。
史上最も多作な数学者、エルデシュ
ポール・エルデシュ(1913-1996)は、ハンガリー・ブダペスト出身のユダヤ系数学者です。彼の業績は、数字で見るだけでも圧倒的です。
生涯に発表した論文数:約1500本
共同研究者の数:500人以上
研究分野:数論、組合せ論、グラフ理論、確率論など
この論文数は、古今東西の数学者の中でも群を抜いています。しかも、その論文のほとんどが数学を前進させる重要なものだったというから驚きです。
世界を放浪した数学の伝道師
エルデシュの最大の特徴は、そのユニークな生き方にありました。
彼は生涯、定職に就かず、自宅を持たず、スーツケース一つで世界中を旅して回りました。訪れた先の大学で数学者たちと出会い、その場で共同研究を始めるのが彼のスタイルでした。
一日に17時間を数学に捧げ、「神は数学者に『天上の書』を持っていて、そこには最も美しい証明が書かれている」と語っていました。金銭には無頓着で、賞金として受け取った5万ドルのうち、ほとんどを若手研究者のための奨学基金に寄付してしまったというエピソードも残っています。

「エルデシュ数」という遺産
エルデシュの共同研究のスタイルは、数学界にユニークな概念を生み出しました。それが「エルデシュ数」です。
エルデシュ本人と直接共著論文を書いた数学者は「エルデシュ数1」、エルデシュ数1の人物と共著論文がある数学者は「エルデシュ数2」という具合に、数学者同士のつながりを数値化したものです。
2007年の時点で、エルデシュ数1の数学者は511人。そして約20万人の数学者にエルデシュ数が割り当てられています。これは、エルデシュが数学界のネットワークの中心にいたことを示す証拠です。
ちなみに、女優のナタリー・ポートマンは「エルデシュ数5」を持っています。ハーバード大学で心理学を学んでいた彼女が、数学者との共著論文を持っているからです。

エルデシュが遺した数学の謎
1996年に83歳で亡くなったエルデシュは、数百もの数学パズルを未解決のまま残しました。これが「エルデシュ問題」と呼ばれるものです。
イギリスのマンチェスター大学の数学者トーマス・ブルームは、これらの問題を追跡するためのウェブサイト「erdosproblems.com」を立ち上げ、1100以上の問題をリストアップしています。そのうち約430問に解答があることが記されていますが、多くは今なお数学者たちの挑戦を待っています。
エルデシュの問題の特徴は、「一見シンプルだが、解くのは非常に難しい」という点にあります。組合せ論や数論の分野で、基本的な概念から出発しながらも、誰も答えを見つけられていない問題が数多く含まれています。

GPT-5は何を「解いた」のか
そして2025年10月の騒動に話が戻ります。
オープンAIの研究科学者セバスチャン・ブベックは、GPT-5が10個のエルデシュ問題を解いたと発表しました。しかし、すぐにブルーム氏が反論します。「これは劇的な誤解です」と。
実は、GPT-5は新しい解答を「発見」したのではなく、既存の解答をインターネットから「探し出していた」だけだったのです。
ブルーム氏のウェブサイトに解答が載っていないからといって、その問題が必ずしも未解決というわけではありません。世の中には何百万もの数学論文があり、それらすべてを一人の人間が読むことは不可能です。しかしGPT-5は膨大な文献を学習しているため、ブルーム氏が知らなかった既存の解答を見つけることができたのです。

AIは数学者になれるのか
この事件は、AIの能力と限界を明確に示しています。
AIが得意なのは、膨大な既存の研究論文から情報を探し出すことです。これ自体は非常に価値のある能力で、数学者たちは「膨大な数の既存の結果を探索するために大規模言語モデルを使用することに非常に興味を持っている」と語っています。
しかし、真に新しい数学的発見をすること、創造的な問題解決をすること、人間が一度も考えたことのない解法を生み出すこと——これらはまだAIの領域ではありません。
エルデシュのような天才が直感的に見出した美しい問題を、AIが真に「解く」日は来るのでしょうか。

エルデシュの遺産が教えてくれること
興味深いことに、この騒動の数ヶ月後、AIスタートアップのアクシオム社が、実際に2つのエルデシュ問題(#124と#481)を解いたと発表しました。また、大学レベルの難関数学チャレンジであるパトナム競技会の12問中9問を解いたとも報告しています。
これらの成果に対しても、専門家からは慎重な評価が寄せられています。競技会での勝利は単なる出発点であり、AIが実際にどのように問題を解いているのか、本当に創造的な思考をしているのかを深く検証する必要があると指摘されています。

数学の美しさは計算だけでは測れない
エルデシュは「神の書には最も美しい証明が書かれている」と語っていました。彼にとって数学は、単に問題を解くことではなく、最も美しい解法を見つけ出すことでした。
一日17時間を数学に捧げ、83歳で数学の国際会議に出席中に亡くなったエルデシュ。彼の情熱と、500人以上の数学者との交流が生み出した1500本の論文。そして今なお数学者たちを魅了し続ける数百の未解決問題。
AIは膨大なデータを処理し、既存の知識を効率的に検索することができます。しかし、エルデシュが体現した「数学の美しさ」や「問題を生み出す創造性」は、まだ人間だけが持つ特別な能力なのかもしれません。
エルデシュが遺した数学の謎は、これからも多くの数学者たちの挑戦を待っています。AIがそれを「解く」のか、それとも人間の数学者が「解く」のか。あるいは、人間とAIが協力して「解く」のか。その答えは、まだ誰にもわかりません。

参考記事
〇ポール・エルデシュ - Wikipedia
〇放浪の天才数学者エルデシュ | Naito Lab(2000年8月22日)
〇[073]エルデシュ数~数学者ネットワークの中心にいた天才 - note(2025年9月24日)
〇GPT-5が「未解決問題解いた」 恥ずかしい勘違い、なぜ?(2025年12月29日)
〇「GPT-5が未解決の数学問題を解決した」とOpenAIの研究者が投稿も実際は既に解決済みの問題だったことが明らかに(2025年10月20日)
〇This Nomadic Eccentric Was the Most Prolific Mathematician in History - Scientific American(2024年1月24日)
