
アニマ・スキン:第30話
第六章 北千住へ
第三話 二人の約束
数日後の夕方、私は東京藝術工科大学の7階にある「ソーシャル・ロボティクス研究室」のデスクにいた。
実験室特有の、シリコンや電子基盤の少し金属質な匂いが鼻を突く。
夕方の研究室は、壁際に並んだ大型モニターの排熱で、わずかに汗ばむような熱気が籠もっていた。
窓の外は、燃えるような茜色の夕日に染まりつつある。
私は白衣の袖を少し捲り上げ、スマートe-スキンの新しいエッジAIアルゴリズムの検証に没頭していた。
カタカタカタ、とキーボードを叩く乾いた音だけが、静かな部屋に響き渡る。
少し離れたデスクでは、神楽くんがいつものようにゾーンに入り、画面に向かって凄まじい速度でコードを打ち込んでいた。
その真剣な横顔に、私は心からの尊敬の念を抱く。
彼の技術は、多くの女性を救う鍵になる。
彼がキーボードを叩くリズムは、まるで心地よい音楽のようだった。
その時、研究室の厚いドアが静かに開いた。
ペタ、ペタ、と規則正しく刻まれる軽いスニーカーの足音が近付いてくる。
「神楽先輩、お疲れ様です。
……まだ、解析が終わらないんですか?」
パーテーションの隙間から、サクラピンクのアンサンブルニットをふんわりと揺らして、如月詩織さんが顔を覗かせた。
彼女が動くたび、甘い女の子らしいフローラルな香りが、実験室の無機質な匂いを一瞬だけ覆い隠す。
私は作業の手を止めず、キーボードを叩くふりをしながら、二人のやり取りをそっと見守る形になった。
胸の奥に、ざらりとした小さな違和感が走るのを無視しながら。
「ああ、如月さん。
お疲れ様。
いま、マルチモーダルセンサが捉えた、微細な発汗データのノイズ除去フィルターを調整しているんだ。
実時間での解読精度をあともう数パーセント上げたくて」
神楽くんは視線を画面に固定したまま、淡々と答えた。
眼鏡の奥の瞳は、完全にコードの海に入り込んでいる。
彼の世界には、今、その数字しかないようだった。
「相変わらず研究熱心ですね。
でも、あんまり詰め込みすぎると、キャパオーバーしちゃいますよ?」
如月さんは、手にした資料を神楽くんのデスクの脇に置くと、少し背伸びをして画面を覗き込んできた。
その距離が、いつもよりほんの少しだけ近い。
見ていて、私の胸の奥が少しだけチクリとした。
彼女の若さと、自然な距離の詰め方に、私は自分がひどく年上であることを突きつけられるような気がした。
「ところで、神楽先輩。
最近、なんだかすごく楽しそうですよね」
「……楽しそう?
僕が?」
キーボードを叩く手を一度止め、神楽くんが如月さんを振り返った。
「はい。
前よりも、なんていうか……
研究の話をしている時の目が、生き生きしているっていうか。
すずさんが来てから、ラボの雰囲気も変わりましたし」
如月さんは、そう言って少しだけ視線を落とした。
フレアスカートの裾が、彼女の落ち着かない心情を表すように小さく揺れる。
彼女が神楽くんに抱く特別な感情に、私は気付いていた。
それは、かつて私が氷室に抱いていたものと同じ、切ない憧れの光だった。
「そうかな?」
神楽くんの口から出た私の名前に、私の心臓がドクンと跳ねた。
「すずさんの、プロダクトに対する情熱や、女性の課題に真摯向き合う姿勢には、毎日強い刺激を受けています。
僕の理論だけでは見えてこなかった『生きたデータ』を、社会的なジェンダーギャップの解消という目的のために、彼女は常に提示してくれる。
パートナーとして、これ以上ないほど尊敬できる存在です」
神楽くんは、感じたままの事実を論理的に説明した。
私に対する、真っ直ぐな評価。
それを本人のいない(と思っている)場所で堂々と口にする彼に、私は嬉しさと恥ずかしさで胸がいっぱいになる。
彼にとって、私は意味のある存在になれているのだという安堵が広がる。
「……パートナー、ですか」
如月さんは、神楽くんの言葉を小さく繰り返した。
彼女のロングヘアが、夕方の西日に照らされて、少し寂しげな陰影を作っている。
「神楽先輩にとっては、やっぱり研究や仕事のパートナーが、一番特別な存在なんですね」
「ええ。
プロジェクトの成功には、互いのリスペクトと強固な協力体制が不可欠ですから」
神楽くんのあまりにも合理的な返答に、如月さんは小さくため息をついた。
それは、複雑なアルゴリズムのエラーに直面した時の、解決策が見つからない技術者のため息に似ていた。
だが、彼女はすぐに、パッと明るい、いつも通りのフェミニンな笑顔を作って神楽くんを見つめた。
その強さが、少し眩しかった。
「あの、神楽先輩!
もしよかったら、今度の日曜日、2人でどこか遊びに行きませんか?
気晴らししましょうよ!」
如月さんは、神楽くんの白衣の袖を、ほんの少しだけ指先で掴むようにして誘った。
彼女の瞳が、期待と少しの緊張で揺れているのが、遠目からでもはっきりと視認できた。
私は息を詰めて、神楽くんの反応を待った。
キーボードを叩く手が、完全に止まっていた。
「すみません、如月さん」
神楽くんは静かに、けれど明確に言葉を返した。
「今は『アニマ・スキン』の事業立ち上げが本格化したばかりで、検証しなければならないデータが山積しています。
研究と開発でスケジュールが完全に埋まっていて、プライベートな時間を取るのがなかなか難しい状態です。
……だから、またいつか、機会があったらということで」
「……そうです、よね。
新規事業、始まって一番大変な時期ですもんね」
如月さんは、掴んでいた白衣の袖をそっと離した。
その笑顔は、どこか無理をして張り付けたように見えたけれど、彼女はすぐに一歩後ろに下がった。
「いいんです!
突然変なこと言ってごめんなさい。
研究、応援してますから!
頑張ってくださいね、先輩」
「ありがとう。
このフィルターのバグが取れたら、如月さんの実験データも確認するよ」
「はい、お願いします!」
如月さんはふんわりとスカートを翻し、小走りで研究室を出て行った。
バタン、とドアが閉まる音が、静まり返った部屋に小さく残る。
私は、自分のデスクで深く息を吐き出した。
神楽くんの仕事への誠実さと、私へのリスペクト。
そのふたつの重みが、私の胸の奥に、心地よい温もりとなって残り続けた。
彼は、私との仕事を最優先にしてくれている。
その事実が、私の臆病な心を少しだけ強くしてくれた。
引っ越し作業が一段落した翌週の土曜日、私は北千住の街を歩いていた。
渋谷の張り詰めた空気とは違う、どこか懐かしく、お醤油や出汁の匂いがふわりと漂う宿場町通りの商店街。
老舗の団子屋、レトロな喫茶店、軒先に並ぶ色鮮やかな惣菜。
五感を心地よく刺激する下町の賑わいをすり抜け、気がつけば、私は荒川の土手へと足を向けていた。
カサ、カサ、と乾いた草を踏みしめる靴音が耳に届く。
土手の上へ登ると、目の前には視界を遮るもののない、大きな空と雄大な川の流れが広がっていた。
ザザザー、と川の流れる音が、心地よいリズムを刻んで私の耳を撫でる。
9月の少し汗ばむような風が、ライトブラウンのポニーテールを揺らし、薄手のニットを通り抜けて肌を優しく冷ましていった。
「本当に、北千住に来ちゃったんだなあ……」
川面に反射するきらきらとした太陽の光を見つめながら、私はぽつりと呟いた。
ここ数ヶ月の出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
氷室への何年にもわたる片想いと、告げることもできずに終わったあの大失恋。
あの時の私は、自分の女性としての幸せも、仕事への情熱も、すべてが凍りついてしまったように感じていた。
働くことの楽しささえ、見失いかけていた。
けれど、その凍りついた心を論理的で、不器用で、誰よりも優しい熱量で溶かしてくれたのは、9歳年下の理系研究男子、神楽くんだった。
彼と共に研究する喜びが、私をもう一度立ち上がらせてくれた。
「……すずさん?」
ふいに、少し低くて落ち着いた、聞き慣れた声が風に乗って聞こえてきた。
ハッとして顔を上げると、少し離れた歩道の向こうから、何か考え事をするように下を向いて歩いてくる人影があった。
洗いざらしのネイビーのTシャツにチノパン、そして少しヨレた白衣をラフに羽織った、いつもの研究室スタイルの彼――神楽くんだ。
手元のタブレットを見つめながらブツブツと呟いていた彼は、私の気配に気づいて足を止め、眼鏡の奥の瞳を大きく見開いた。
「神楽くん!
偶然ね、どうしたの?」
「すずさん……。
いえ、新しいアルゴリズムの自己組織化について考えていたら、いつの間にかラボを出て、ここまで歩いてきてしまいました」
「ははは……」
私は思わず笑ってしまった。
それを受けて、神楽くんは少し決まり悪そうに、人差し指で眼鏡の位置を直した。
大学のからかなり離れたこの土手まで、完全に「ゾーン」に入ったまま歩いてきてしまったらしい。
プライベートな空間での、まさかの完全な偶然の遭遇。
一瞬、お互いに次にどんな言葉をかければいいのか分からず、ザザザーという川の音だけが2人の間に流れた。
前回のスペインバルでの、エレオノーラの「付き合ってみたいとか思わないわけ?」という爆弾質問が頭をよぎり、私の頬が急激に熱くなる。
「あ、あのね!
神楽くん!」
気まずい沈黙を破るように、私は慌てて仕事用のトーンで声を張り上げた。
「は、はい!
何でしょうか」
神楽くんも少し肩を揺らして、背筋をピシッと伸ばす。
「これまでの女性モニターさんたちのレポートをね、ちょうど今朝、正式にまとめていたのよ」
私は自分のバッグをぎゅっと握りしめながら、彼に向かって一歩歩み寄った。
「スマートe-スキンのプロトタイプを試してもらった彼女たち、みんな本当に感動しているわ。
PMSのイライラや、更年期の急な体温変化を事前にエッジAIが予測して寄り添してくれる。
それだけで、どれほど救われたか分からないって。
みんな、神楽くんの開発したプロダクトに、心から感謝しているのよ」
私は神楽くんの真っ直ぐな瞳を見つめ、声を少し和らげた。
「私たちが挑んでいるジェンダーギャップや女性の心身の問題は、単なる労働損失や経済損失という数字ではなく、その向こうにいる、血の通った女性たちのリアルな人生そのものよ。
彼女たちがキャリアやプライベートを諦めなくていい世界を、あなたの技術が作り出そうとしているの」
熱を込めて語る私を、神楽くんは静かに見つめていた。
「そしてね……私も、一人の女性として、あなたに感謝しているの。
本当にありがとう、神楽くん」
私の言葉を聞いていた神楽くんは、一瞬、驚いたようにパチパチと瞬きをした。
それから、白衣のポケットに両手を突っ込み、耳の端を真っ赤に染めながら、ふっと、本当に素朴に、はにかむように微笑んだ。
「……すずさんにそう言って頂けると、研究者冥利に尽きます。
僕の技術が、少しでも、あなたの……
いえ、世の中の女性たちの役に立てるなら、これ以上の喜びはありません」
彼のその、嘘偽りのない純粋な笑顔と、一瞬言い延ばした「あなた」という言葉に、私の胸の奥がキュンと、切ないくらいに締め付けられる。
世間の肩書きや年齢なんて全く気にせず、ただ私の内面と仕事への情熱を、こんなにも全肯定してくれるのだから。
彼に対する尊敬の念が、いつの間にか違う色を帯びていくのを自覚せざるを得ない。
(私は、神楽くんが好きなんだ…‥‥)
神楽くんはまた少し視線を落とし、何かを深く計算するように沈黙した。
そして、意を決したように顔を上げると、眼鏡の奥の瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
「すずさん」
「え? 何?」
「あの……もし、よろしければ。
また今度、女子プロレスの観戦に、僕と一緒に行っていただけませんか?」
「え……?」
意外すぎる誘いに、私は思わず目を見開いた。
「ほら、前回とても刺激的で面白かったですし、とても楽しかったので。
女子サッカーでも良いです。
……僕は、すずさんの好きな世界を、もっと、一緒に共有してみたいんです」
そう言って、少し照れくさそうに頭をかく神楽くん。
テックオタクで合理主義な彼が、データや研究のコスト計算ではなく、ただ「私と同じ時間を共有したい」という、極めてパーナルでピュアな好意を伝えてくれている。
私は嬉しすぎで少し涙目になってしまった。
失恋の痛みに泣いていた夜は、もう遠い過去のことのようだった。
私の新しい人生は、この北千住の街で、もうしっかりと芽吹いている。
「――ええ、是非!
喜んで!」
私は満面の笑みを浮かべ、彼に向かって大きく頷いた。
「約束よ、神楽くん。
私のイチオシの選手、教えてあげるんだから」
「はい。
楽しみにしています、すずさん」
荒川の広い土手の上、キラキラと輝く水面を背景に、私たちはどちらからともなく、優しく微笑み合った。


