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喪の膳 第二十三話 最終話

    「いや。なんでもない」
     女は匙で蟹の身をほぐした茶碗蒸しを静かに掬い、亮介の口元へ再び運ぶ。亮介は反射的に口を開いた。胃の奥の深い空洞が口を開き、身体中の血が次の一口を求め始める。女はその様子を見届けるように頷いた。
    「真壁さんが、もう決めてくれたから」
     亮介は目を上げた。
    「……真壁?」
    「うん」
     女は当然のことのように答えた。
    「真壁さんが、この人がいいって」
     女は写真を亮介に見せた。彼の胸の奥で何かが軋んだ。
    「私が連れて帰る人だよ」
     亮介は息を止めた。
    「……連れて帰る?」
    「うん」
     女は少し首を傾げた。
    「お父さんの次になる人」
     女は茶碗蒸しを再び一匙掬いながら続けた。
    「お父さんも真壁さんが見つけたの」
     亮介は目の前の女を凝視した。頬の丸み。目元。唇。笑う時の癖。すべて真由里だった。しかしながら、目の前にいるのは真由里ではない。母と違わぬ顔をした娘。どれほどの時間が過ぎたのか。何度、意識を失ったのか。何年、食べ続けてきたのか。数えようとしても、亮介の記憶は途中から白く霞み、その先は何も残っていなかった。
    「お父さん、私がいなくなったら寂しい?」
     亮介は答えられなかったが、寂しいかもしれない、と彼は思った。
    「大丈夫。お母さんがいるし、女たちもいるし、ご飯も毎日食べれるよ。おばあさまも時々は見に来ると思う。お父さんは、ちゃんと食べていればいいの」
     女は写真を再び亮介に見せた。
    「この人が来たら、その時はお父さんの番が終わるんだって」
     亮介は自分の腹を見た。大きく膨らんでいるそれは、いずれ空洞になるのだろう。
    「お父さん」
     女は彼の顔を近くから覗き込んだ。その瞳には涙も迷いもない。
    「怖い?」
     亮介は何が怖いのか、もう分からなかった。死が怖いのか、生き続けることが怖いのか、わからない。女は答えを待たず、彼の額に手を置いた。冷たい手だった。
    「でも安心して」
     女はそう言って、ほんの少しだけ考えるように目を伏せた。真由里と同じ顔だった。美しい顔。
    「ずっとは続かないから」
     襖の向こうでは女たちが片づけをしていた。椀を重ねる音、布巾を絞る音、飯櫃の蓋を閉める音。それらが急に遠く聞こえた。
    「私」
     女は言った。
    「私が外へ出て、男と結婚して、娘を産んで、また島に戻ってきた時」
     柔らかく微笑んだ。
    「お父さんを殺してあげるね」
     亮介は首を動かすことができず、目だけを女に向けた。真由里と同じ顔、亮介の前に現れた時と同じ、静かで美しい顔。
     亮介は、真由里もこの部屋で、この畳の上で、宗一郎に「行ってきます」と告げて島を出ていったのだろう。
    「お時間です」
     襖の向こうから、聞き覚えのある男の声がした。その声は何一つ変わっていない気がした。
     凪は嬉しそうに「はい」と返事をすると、亮介の方へ向き直り、ほんの少しだけ微笑んだ。
    「行ってきます。お父さん」と穏やかに言い残して襖の向こうへ消えた。
     亮介は自分が眠るのがわかった。次に気がついた時には、自分が食べられているのかもしれない。そうであっても、そうでなくても、もうどうでもよくなった。

    #創作大賞2026 #ホラー小説部門

     
     
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