
⛩️魂の辻斬りをする素浪人たちへ
世の中には「退魔師」という響きに心躍らせ、
法具をファンタジー映画の武器と勘違い
している方がおられるようです。
SNSを開けば、まるで異世界転生した勇者の如く、派手なエフェクトが飛んできそうな「戦果」を披露する場面に出会うことも珍しくありません。
「悪い霊をなぎ倒した」
「魔を滅した」
等と語るその姿は、一見すると頼もしく見えるかもしれません。
しかし、もしあなたがその
「カッコいい立ち回り」
に憧れを抱いているのなら、
ちょっと待ってください。
その解釈、実はツッコミどころ満載の
「ごっこ遊び」
に見えているかもしれませんよ。
己を映す鏡を、他人を突く矛にしてはいけない
仏様や神様が手にされている
「法具」の真意をご存じでしょうか。
例えば、不動明王が右手に持たれている剣。
これを「外敵をボコボコにするための武器」
だと思い込むのは、あまりにも浅はかな解釈です。
あの剣の刃先が向けられるべき対象は、
いつだって「自分自身の内側」にあります。
専門用語で言いましょう。
貪瞋痴です。
貪…ものやステータス、行き過ぎた承認欲求など
瞋…怒り、憎しみ、敵意
痴…無知や誤解、正しい理解が出来ないこと
つまり…。
自分の中のドロドロした迷いや執着、
自分を特別に見せようとする
「中二病」的な傲慢さ、
気に入らない他人を攻撃したくなるような
心の濁り……。
そうした自分をダメにする要素を
バッサリ断ち切るための
「智慧」の象徴。
それが本来の剣の姿です。
自分を律するための鏡であるはずの法具を、
他者を突き刺す矛へと勝手に
魔改造してはいけないのです。
仏像の持物は「便利グッズ」ではない
もし、あなたが法具を持つ仏像を見る機会があれば、ぜひ、その「持物」に込められている意味を
調べてみてほしいのです。
あれは、決して戦闘用のオプション装備や
便利グッズではありません。
一つ一つの形には、
私たちがこの苦しみ多い世界を
どう生き抜くべきか、
どうすれば内なる平穏を得られるかという、
深い慈愛のメッセージが込められています。
例えば金剛杵。
あれが象徴するのは、
外敵を粉砕する暴力装置などではなく、
私たちの頑固な迷いを打ち砕く
「ダイヤモンドのように硬い智慧」です。
仏様は武器を持って戦闘行為をしているのではなく、私たちの「心の間違い」を正すために、
知恵の象徴を手にされているのです。
ここからは、私がかつて密教寺院で、
師僧から実際に三鈷の柄がついた宝剣を授かった
実体験を交えてお話しします。
なぜ「瞬殺」を誇るメンタリティが、
かつての「辻斬り」と同じだと言えるのか。
エンタメとしての退魔ではなく、
自らの内なる「仏の種」を
健やかに育てるための記録。
その本質に踏み込みたい方だけ、
読み進めてください。