【戦国IF】美濃の国盗り(上)――国を欲する男
この物語について
史実の伊勢新九郎盛時は、のちに北条早雲と呼ばれる戦国武将その人です。
本作では、その新九郎が「戦国時代の激動期に生まれていたら」という設定で物語が進みます。
舞台は弘治二年(1556年)。
斎藤道三が長良川の戦いに敗れ、織田信長が尾張で勢力を伸ばしつつあった時代です。
史実上の人物や出来事をもとにしていますが、年齢、年代、人間関係、出来事などには創作・改変があります。
主な登場人物
伊勢新九郎盛時
本作の主人公。二十代の終わり。兵も城も持たぬ浪人ながら、美濃一国を手に入れようとする。
斎藤道三
「美濃の蝮」と呼ばれた戦国大名。1556年、長良川の戦いで実子・義龍に敗れる。
安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全
のちに「西美濃三人衆」と呼ばれる武将たち。本作では、新九郎が美濃を奪うための重要人物となる。
竹中半兵衛
美濃の武将。本作では十二歳ほどの少年として、新九郎の野心と策をいち早く見抜く。
第一章 国は城から崩れるのではない
弘治二年――西暦一五五六年。
「斎藤道三、長良川に散る」
美濃の蝮と恐れられた斎藤道三が、実子・義龍との戦いに敗れた。その報せを、近江の宿坊で一人の男が聞いていた。
伊勢新九郎盛時。年は二十代の終わり。
濃紺の直垂を無造作に着崩し、襟と袖には朱と古金をあしらっている。浪人には不釣り合いな装いだが、新九郎にとってそれは、人の記憶に己を刻むための鎧だった。
新九郎は窓辺に立ち、山の向こうの美濃を見た。
「父を殺して、子が国を継いだか」
「義龍は道三方を討ち、国人衆にも服従を誓わせたそうです」
家臣の言葉に、新九郎は薄く笑った。
「刀を首に当てれば、誰でも頭は下げる。だが、心までは下がらぬ」
道三と義龍の争いで田畑は荒れ、村々から兵糧が奪われた。街道には主を失った雑兵や野盗があふれている。
父が勝とうと、子が勝とうと、民の暮らしは変わらない。
「国が乱れるとは、城が落ちることではない」
新九郎は美濃絵図の村々を指した。
「民が、誰に従っても同じだと思い始めることだ」
彼らにとって重要なのは、支配者の家紋ではない。昨日と同じように田を耕せるか。収穫した米を家族に残せるか。それこそが国だった。
「城を奪っても、国は手に入らぬ。前の主よりましだと、民に思わせる。そうして初めて、国は古い主を捨てる」
領民の支持は、千の兵に勝る。
村が兵糧を渡さず、商人が物資を運ばず、寺社が旧主の非を説けば、守護の権威は戦う前に崩れていく。
「美濃へ行く」
新九郎は絵図を巻いた。
「兵も城もない我らが、どのように一国を奪うのです」
「兵がいないからこそ、できる戦がある」
新九郎の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「国のほうから、今の主を捨てる戦だ」

第二章 物売りたちの国盗り
新九郎は兵を集めず、二十人ほどの者を美濃へ送り込んだ。
ある者は薬売り、ある者は鋳掛屋、またある者は修験者となり、村々を巡った。
彼らが調べたのは、城の高さだけではない。
どの村が重税に苦しんでいるか。誰が斎藤家を恨んでいるか。どの川が氾濫し、どの街道を商人が使うか。
数か月後、戻った者たちの報告を、新九郎は絵図へ書き込んだ。
赤は斎藤家に恨みを持つ者。黒は重税に苦しむ村。青は商人の裏街道。金の丸は、新たな政を歓迎する寺や有力者。
それは地形ではなく、人々の不満を描いた地図だった。

「これほど恨みがあれば、兵を挙げるだけで民は斎藤家に背くのでは?」
家臣の問いに、新九郎は首を振った。
「不満だけでは、人は動かぬ。大義が要る」
私欲による反乱は、ただの謀反となる。だが同じ戦でも、人々が世直しと呼べば、新たな支配の始まりになる。
「我らは斎藤家を憎んで立つのではない。父子の争いで美濃を荒らし、民から米を奪う者どもを正すために立つ」
寺には戦を終わらせるための挙兵と説かせる。商人には街道を守るためと伝える。国人衆には、斎藤家では織田信長から美濃を守れぬと説く。
「そして百姓には、前の主より暮らしがよくなると約束する」
新九郎は一枚の文書を示した。
四公六民。
収穫の四割を納め、六割を耕作者に残す。戦で荒れた村はさらに免除し、兵による略奪を禁じる。逃げた百姓が戻るなら、過去の未納も問わない。
城を奪った日のうちに、村々の辻、寺の門前、市場の札場へ掲げるのだ。
「新しい主も同じだと思われる前に、違いを人々の腹へ理解させる」
前主の悪政を否定し、自らは領民の暮らしへ降りていく。新九郎はそれを「身下し」と呼んだ。
それは慈悲であると同時に、旧体制を解体する刃でもあった。
故郷の年貢が軽くなると知れば、斎藤家の足軽は命を懸けて戦わない。領民が新政を歓迎すれば、国人衆も旧主のために兵を挙げにくくなる。
「民を使って、敵の兵を縛るのですか」
「違う」
新九郎は絵図を見つめた。
「敵の兵もまた、美濃の民だ」
彼は人々を救おうとしていた。
同時に、その喜びと怒りを、守護勢力を崩す力に変えようとしていた。
新九郎の中で、その二つは矛盾していなかった。
民を救うことが最も強い攻撃になるなら、ためらう理由はない。
第三章 水を治める旅人
新九郎はわずかな供だけを連れ、美濃へ入った。
最初に向かったのは、西美濃の小さな村だった。川が増水するたびに堤が崩れ、田畑が泥に埋まる。それでも領主は、人夫を出せと命じるばかりだった。
新九郎は旅の算術師を名乗り、三日かけて川を歩いた。
そして村人たちが堤を高くしようとするのを止め、別の場所へ細い水路を掘らせた。
「水を止めようとするな。逃げ道を与えよ」

やがて大雨が降った。
川は激しく増水したが、余分な水は新しい水路へ流れ、田畑の被害は例年よりはるかに少なかった。
村人たちは米や酒を差し出した。
新九郎は酒だけを受け取り、米は返した。
「その米は冬のために取っておけ」
「せめて、お名前を」
「伊勢新九郎」
「このご恩は忘れませぬ」
「私への恩だと思うな。本来ならば、国を治める者がするべきことだ」
その言葉は、村人たちの胸に残った。
斎藤家が放置した川を、伊勢という旅人が治めた。礼の米を受け取らず、国を治める者の務めを語った。
噂は街道を伝い、形を変えながら広がっていった。
新九郎はそれを否定しなかった。誰かに命じられた言葉より、民が自ら語り始めた物語のほうが強い。
やがて噂を聞いた北方城主・安藤守就が、新九郎を館へ招いた。
それこそが、新九郎の狙いだった。
第四章 安藤守就への甘き毒
「伊勢殿。おぬしは何者だ」
守就は酒にも手をつけず、正面の男を見据えた。
「ただの旅人にございます」
「ただの旅人が川を治め、兵法を語り、美濃の国人の名まで知っているものか」
新九郎は懐から絵図を取り出した。
そこには街道、河川、村の収穫高、諸城の兵力、国人たちの縁戚関係まで記されていた。安藤領の年貢も例外ではない。
「美濃を盗むつもりか」
守就の手が刀へ伸びる。
「盗む価値のある国ならば」
新九郎は平然と答えた。
「ここで斬られるとは思わぬのか」
「斬っても、美濃の病は治りませぬ」
新九郎は絵図の南を指した。
「尾張を呑みつつある織田信長は、いずれ必ず美濃へ来る。あれは家柄ではなく才を買い、寺社や商人、銭までも兵として使う。従来の大名と同じ相手だと思えば、美濃は負けます」
「ならば、斎藤家を支えるのが我らの務めだ」
「支えられる主ならば」
守就の顔に怒気が浮かぶ。
「そなたが美濃を奪えば、何が変わる」
新九郎は四公六民を記した文書を差し出した。
「年貢を改め、徴発と略奪を禁じる。逃げた百姓を戻し、街道の関を整理する」
「そのようなことをすれば、国人衆の取り分が減る」
「初めは。だが百姓が戻り、田がよみがえれば収穫は増える。商人が往来すれば、市から銭が入る。奪う以外に国を富ませる方法を覚えていただく」
「従わぬ者は?」
「美濃の民に選ばせる」
重税を守る領主と、村を再建する新たな主。
領民が新政を選べば、斎藤方の城主は兵も兵糧も集められない。抵抗すれば、自らが悪政を守る者となる。
守就は、新九郎の策を理解した。
「民を救うと言いながら、その心までも戦に使うか」
「民の心を無視して戦う者よりは、ましでしょう」
「答えになっておらぬ」
新九郎は酒杯を置いた。
「ならば、こう申し上げる。私は美濃が欲しい」
部屋の空気が張り詰めた。
「民のためだけに働く聖人ではない。国を得て、己の法で治めてみたい。何者にもならぬまま死ぬことを恐れてもいる」
「それが本心か」
「本心の一つです。もう一つは、美濃を斎藤家の内紛と信長の餌にしたくない」
新九郎は立ち上がった。
「野心を持つ者が、必ず国を滅ぼすとは限りませぬ。問題は、その野心が国を食うのか、国を富ませるのかです」
その夜から、守就の胸には一つの疑念が根を張った。
斎藤家に従うことと、美濃を守ることは、本当に同じなのか――と。
第五章 三人の美濃侍
新九郎は稲葉一鉄と氏家卜全にも近づいた。
だが、三人へ同じ言葉は使わなかった。
筋を重んじる一鉄には、己の欲を隠さなかった。
「民を救うなど、美しい言葉を並べる。欲しいのは美濃という獲物であろう」
「そのとおり」
新九郎は認め、二人の間へ短刀を置いた。
「私は美濃を得たい。ゆえに豊かにしたい。約束を破り、国を食い潰す主となったなら、この短刀で私を斬ればよい」
「おぬしを主とは認めぬ」
「今は、それで結構」
新九郎は短刀を残して去った。
一方、損得に敏い氏家卜全には、米の値、街道の関銭、織田家と戦った場合の損害を数字で示した。
「龍興様より、そなたにつくほうが得だと言いたいのか」
「今のところ、どちらについても損です」
卜全は笑った。
「ならば、なぜ会いに来た」
「勝つ側が決まったとき、誰よりも早く気づいていただくために」
「そなたが勝つと?」
「いいえ。あなたが私を選んだとき、私が勝つのです」
卜全は笑みを消した。
安藤は新九郎の理想を知った。
稲葉は覚悟を試そうとした。
氏家は勝算を測り始めた。
三人は、まだ味方ではない。
しかし、新九郎という存在は、消せない染みのように彼らの心へ入り込んでいた。
第六章 白い石
新九郎が竹中半兵衛と出会ったのは、安藤守就の館だった。
庭の片隅に、白と黒の小石が並べられている。稲葉山城の攻防を模したものだ。
石を並べていたのは、まだ十二ほどの少年だった。白い肌と細い顎を持ち、女性と見紛うほど端整だが、伏せられた目には冷たい光があった。
「面白い陣だ」
新九郎が声をかけた。
「どこが面白いのでしょう」
「これでは城が落ちぬところがだ」
若者の指が止まる。
「西を空け、逃げ道を与えています」
「城兵は逃げる。だが援軍も入る。稲葉一鉄はまだ動かぬ」
新九郎は山上の白石を取り、西へ置いた。
「私なら、城は落とさぬ」
「何ですって」
「城とは門や塀ではない。中にいる者が城だ。龍興に、逃げれば助かると思わせる」
「城主が逃げても、斎藤家に従う国人が残ります」
「残らぬ。城を奪った日のうちに、新しい年貢を掲げる」
「どのような年貢を?」
「四公六民だ」
新九郎は、四つの黒石と六つの白石を分けて置いた。
「収穫の四割を納め、六割を耕す者の手元へ残す。戦で田畑を荒らされた村には、さらに免除を与える。徴発と略奪を禁じ、逃げた百姓が戻るなら、過去の未納も問わぬ」
半兵衛の視線が、分けられた石へ落ちた。
「ずいぶんと民に甘い政です」
「甘いのではない。国を富ませるのだ」
新九郎は黒石を一つずつ白石から離した。
「百姓が戻れば、荒れた田がよみがえる。収穫が増えれば、四割でも国に入る米は増える。何より領民が新政を望めば、抵抗する者は斎藤家への忠臣ではなく、悪政を守る者になる」
新九郎の指が、孤立した黒石を弾いた。
「城を包囲するのは兵ではない。美濃そのものだ」
若者は黒白の布陣を見つめた。
「見事な大義です」
その口元に浮かんだのは、感心ではなく警戒の笑みだった。
「民は新しい主を歓迎し、斎藤家の兵は刀を置く。国人衆も領民に逆らえない。ほとんど血を流さず、美濃を得られるでしょう」
「何が気に入らぬ」
「民を救う話と、民を兵として使う話が、あまりに滑らかにつながりすぎています」
新九郎の供が刀へ手をかけた。
新九郎は片手で止めた。
「お前が、竹中半兵衛か」
「だとしたら、どうされます」

「美濃で最も危険な男に、ようやく会えたと思う」
「危険なのは、あなたでしょう」
半兵衛は新九郎を見据えた。
「近江から間者を放ち、村々の不満を集め、三人衆へ別々の言葉で近づいた男」
「それで、私を斎藤家へ売るか」
「まだ決めておりません。ただ、確かめたいことがあります」
半兵衛は白石を弾いた。
石は新九郎の前で止まった。
「あなたは善政によって民を救いたいのですか。それとも、善政こそが一国を盗む最も効率のよい兵法なのですか」
庭から鳥の声が消えた。
「大義によって守護の権威を壊し、自らを救い主として迎えさせる。あなたが欲しいのは、民の安寧ではない」
新九郎の目が細くなる。
「何だと言う」
「民が自ら差し出す国です」
三人衆さえ見抜けなかったものを、この若者は一度の会話で見抜いた。
民を救う理想。
守護を解体する策略。
その二つを結ぶ、新九郎自身の飢えを。
「伊勢殿」
半兵衛がさらに踏み込んだ。
「民を救うという大義で、ご自分の野心を飾っているだけではありませんか」
新九郎は答えず、白石を拾い上げた。
「竹中半兵衛。お前の問いに答える前に、私からも問おう」
新九郎の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「民を救うことと、国を奪うこと。その二つが同時に成せるなら――なぜ、どちらか一つを選ばねばならぬ?」
半兵衛の表情から、初めて余裕が消えた。
国を欲する男と、その野心を見抜いた若き軍師。
二人の間にあるのは、忠義でも信頼でもない。互いの正体を暴こうとする、静かな戦だった。
新九郎の答えを聞いたとき、半兵衛は国盗りに加わるのか。
それとも、この企みを斎藤家へ知らせるのか。
美濃の行方を決める最初の戦は、城でも野でもなく、安藤守就の館の小さな庭で始まろうとしていた。
――中巻「軍師は主君を信じない」へ続く。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
実は今回、初めて小説を書いてみました。
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