
【哲学】大正生まれの曽祖母が女性活躍について語る?
どうも、まさたかです。
今回は、私が新卒(2014年)の頃から社会に広がりはじめ、ずーっと疑問に思っていた“女性活躍”という言葉についての話です。
ちょっと思想強めなので、抵抗ある方や血圧高めの方はブラウザバックでお願いします!
ある程度筆者の意図を読み込める読解力ある方には、私が幼少から女性に対して抱く尊敬の念と、真の活躍のプロセスが伝わりますのでぜひお立ち寄りくださいな。
昨今、性のあり方は様々認められてきていますが、今回は敢えて曽祖母の話しをもとに、“男女”という区分を前提に論じます。
ではでは、はじめませう。
私の曽祖母(ひいおばあさん)は大正生まれでは珍しく、ミルという可愛らしい名前でした。
この話をすると、たいていまず名前に驚かれますが、本当に驚かれるのはその中身です。
曽祖母は運動神経が抜群で、足も速ければピアノも弾けて三味線もこなし、鉄棒の逆上がりまでできました。
私がそれらを曽祖母から教わったと話すと皆さんたいてい疑いますが、本当だと知ると本気で驚きます。
大正生まれの女性に逆上がりを教わった人などそう多くはないでしょうからね。
でも、私にとっての曽祖母はずっとそういう人でした。
活発で明るくて気丈で、しかもめちゃくちゃ愛嬌があるのです。
歳を重ねてもいつも若々しくパワフルでした。
戦前も戦後も生き抜き、一人娘である私の祖母を育て、さらにその祖母の娘たち三姉妹の世代まで支え続けた人です。
その道のりは決して平坦ではありませんでした。
私の祖母(おばあさん)の夫は物流会社の社長だったのですが、 母がまだ幼い頃に事故で亡くなっています。
今のように何でも制度やサービスで支えられる時代ではありません。
そんな中で夫を失った娘を支え、孫を守り一族を絶やさずに繋いでいく曽祖母の抱える重荷は 今の感覚で軽く想像できるものではないと思います。
私はその血筋の中で唯一の男だったこともあり、本当に可愛がってもらいました。
一方で厳しさもありましたが その奥には深い期待があった気がします。
そんな曽祖母が いつも口にしていたことがあります。
「男には敵わない。」
子どもの頃の私は、その言葉をそのまま受け取っており、やはり男のほうが強いのだろうくらいにしか思っていなかったのです。
けれど、大人になって思い返すとあの言葉にはまったく別の重みがありました。
なぜならその言葉を口にしていた本人が 誰よりも強く 誰よりも現実を見ていた女性だったからです。
三味線ひとつで生計を立て、多くの人に慕われ家族を支え苦しい時代をくぐり抜けてきた人です。
その人が男には敵わないと口にする。
それは負け惜しみでも敗北宣言でもなく、男という生き物を知り尽くした人の静かな見立てだったのだと思います。
そして、曽祖母が九十九歳で亡くなる少し前、私が十四歳のときに忘れられないことを教えてくれました。
曽祖母は最期まで驚くほど頭がしっかりしていて、会話も意識も明瞭でした。
その晩年に 私へ向けてこのように話し始めたのです。
「まぁちゃん、女性の有り難みをよく知りなさい。家庭では女性が経営者で、男は雇わている用心棒や漁師のようなもの。もともと女性が管理する側で、繊細でか弱い男を理解して支えるから家というものは回るのよ」と言いました。
「だからまあちゃんは常に支えられていることを自覚しなさい。体は男のほうが強いのだから、自分にできないことを支えてくれる相手と出逢って、いずれあなたは家庭を守るために命懸けで働きなさい。」
そういう意味のことを まっすぐに伝えてくれました。
当時の私は そこまで理解できませんし、今これを言語化すると“古い価値観”や“女性蔑視”と騒ぐ人もいるかもしれませんね。
けれど、私も年齢を重ねて経営に関わり、人や組織を見ていく中で、あの言葉の意味が骨身に染みてわかるようになるのです。
私は今でも “女性活躍”という言葉に強い違和感があります。
女性が社会で正しく評価されることは当然ですし、むしろもっとあるべき理想すら掲げています。
前に出ることにも、経済的に自立することにも異論はありません。
女性が家庭に入ることだけを良しとするつもりもありませんし、女性の生き方を誰かが決めるべきだとも思っていません。
まずそこははっきりさせておきたいです。
私が引っかかっているのは その言葉の前提です。
まるで女性がこれまで十分に力を発揮してこなかったかのような響きがある。
そこに私はどうしても違和感を覚えます。
そんなはずがありません。
女性は ずっと活躍してきました。
しかも 家庭という最小にして最重要の組織で、すでに代表者の仕事をしてきました。
家計を回す。
予定を整える。
子どもの変化に気づく。
繊細で自分勝手な夫の調子や限界を察する。
家族全体の空気を育む。
これは雑務ではありません。
経営そのものです。
経営者とは 派手に指示を出す人ではありません。
ややこしい現実と向き合い、人を活かし、限られた資源を配分し、組織が壊れないように責任を負う人です。
家庭で多くの女性が担ってきたことはまさにそれです。
こんなこと言ったら叩かれるのかしら?でもこれは生半可な男性が生物的にとても苦手とする分野なのです。
もちろん、家庭に収まれということではありません。
女性は、明らかにあらゆる点で男性より秀でていることが多いのです。
男性はその自身の欠落を補うために、脳みそまで筋肉に染め上げるしかなかったと言わざるをえません。
曽祖母は そこを見ていたのかもしれません。
「男性を立てることこそが、家計における最大の利益であることを薩摩の女性は知っている」
この一文だけ切り取ると 不快に感じる人もいると思います。
女性に我慢しろと言っているように聞こえるかもしれません。
男を甘やかせという話に見えるかもしれません。
けれど、私がここで言いたいのは そういうことではありません。
ここでいう、「男性を立てる」とは 男にへつらうことではありません。
男の未熟さを放置することでもありません。
相手の自尊心を適切に扱いながら、役割を果たさせ、家全体の利益につなげることです。
これはまるで、女性による男性へのマネジメントであり コーチングであり、カウンセリングであり、コンサルティングです。
しかも、家庭という逃げ場のない現場で 毎日それをやるわけです。
まるで賢く偉大な社長そのものです。
外で評価される社長には拍手があります。
肩書もあります。
けれど 家庭を守る社長には それがほとんどありません。
成果が数字になりにくく、誰かに見せる資料にもならず 当たり前のこととして消費されてきました。
それでも女性たちは家を回し、人を育て、ときに男の弱さすら理解しながらも組織を生かし守ってきました。
私は、ここに今の女性活躍論の大きなねじれがあると思っています。
本来なら、女性がもともと持っているこの力を起点に、社会の仕組みを組み直すべきでした。
ところが実際には、一部の賢い男性たちが、その在り方を都合よく歪めてしまったように思えてなりません。
家庭で力を発揮してきた女性を、不遇な存在だと一括りにして、そこから救い出してやるという構図にすり替えたようにみえるのです。
そして気がつけば、女性活躍という看板の上に立って利益や主導権を握るのは結局は一部の男たちではありませんか。
結局は男性社長の雇用に身を置かれ与えられた役職が活躍の証明でしょうか?
私はそこに、かなり強い白々しさを感じます。
ただ、ここも誤解されたくないのですが、私は女性差別がなかったなどと言いたいわけではありません。
むしろ逆です。
歴史の中で、愚かな男たちによって女性が不当に機会を奪われたり、法や慣習によって選択肢を狭められてきたことは確かにあったのでしょう。
だからこそ、今の社会で女性の権利や機会を広げること自体は絶対に必要です。
では、何に違和感があるのか?
それは、家庭で発揮されてきた女性の高度な力を正当に評価しないまま、外に出てきた女性だけを活躍として数え始めることです。
さらに言えば、仕事の世界そのものが長いこと男性社会だった以上、その構造自体が男性の身体感覚や人生設計を基準にして作られてきたという事実です。
長時間労働を前提にし、生活の裏側は誰かが支えているものとして回り、体力や働き方や評価の設計まで、男性の標準に寄ってきた面があります。
そんな構造の中に、ある日突然、女性活躍という美辞麗句を貼りつけて、役職を与え、登用比率を上げて、これで前進だと言われてもそんなもので本質的に回るはずがありません。
女性には女性のコンディションがあります。
身体の周期もあれば 出産や育児だけではない繊細な負荷もあります。
そして同時に、男性にはない圧倒的な強みがあります。
全体を見る力、継続して回す力、変化への感受性、危機の予兆を察する力、感情と現実を同時に扱う力です。
もちろん、ここも丁寧に言わなければなりません。
すべての女性が同じ特性を持つわけではありませんし、すべての男性が同じ構造に当てはまるわけでもありません。
個人差は当然あります。
けれど 社会の設計や文化の積み重ねとして見たときに 男女で引き受けてきた役割の偏りがあり、その中で女性側に培われてきた力があるのは事実だと私は思っています。
ところが今の構造は、そうした女性の本領を活かすために作られているとは思えません。
男性の社会構造の上に、無理やり女性に役割や役職だけ与えて参加できたのだからもういいでしょう?と言わんばかりの仕組みになっているように感じます。
私は、これこそ最も姑息なやり方だと思っています。
なぜなら、それは女性を尊重しているようでいて、実際には女性の強みを起点に制度を組み替える気がないからです。
既存の男性的ルールを温存したまま、その中で勝てる女性だけを拾い上げ、それをもって進歩だとする。
これでは、一部の女性が男性仕様の舞台で結果を出すことはあっても、女性の力そのものが社会の土台に反映されたとは言えません。
私は、いわゆるフェミニズムの中にも本来ここを本気で問うべき流れがあると思っています。
つまり、女性を男性と同じように扱えという話だけではなく、そもそも誰が基準を作ってきたのか、どの働きが過小評価されてきたのかを問い直す視点です。
私はその問題意識自体にはむしろ近いところがあります。
違うのは、その結論を出す場所です。
私は、男性の作った構造に女性をうまく適応させるだけでは明らかに足りないと思っているのです。
女性を本当に活かしたいのなら、男性が作った枠組みへの途中参画で終わらせてはいけないはずです。
そこに少し混ぜて均等になった気になるのではなく、そもそもの思想から問い直さなければなりません。
評価制度も、働き方も、リーダー像も、組織運営も、意思決定も、すべてゼロから見直す必要があります。
私は、真の女性の強さはまだまだそこしれない可能性を秘めていることを知っています。
家庭の中でそれを見てきましたし、仕事の現場でもそれを感じてきました。
だからこそ確信しています。
必要なのは、男性構造への途中参画ではなく、女性主体をゼロから立ち上げる“創生”です。
既存の男性的な仕組みに女性を無理に適応させるのではなく、女性の本領が最初から生きる構造を新しく再生することです。
ここでも、念のため補っておきたいのは、女性主体を立ち上げると言っても男性を排除したいわけでも敵に回したいわけでもなく、女性の力学や現実や本領を最初から前提にした設計を持つべきだということです。
その設計の中で、男性もまた役割を持ち、支え合えばいいのです。
むしろ、曽祖母に教わったのはそういうことでした。
男は支えられていることを自覚し、その支えを前提に責任を引き受けろということです。
そうなれば、家庭も、会社も、地域も、もっとしなやかで強くて持続的になるはずです。
見えない調整力や継続力や危機管理能力や感情の統率まで含めて、それが正しく価値になる社会にしたほうがいいと本気でそう思っています。
だから私は女性が外で働くことには大賛成ですし、前に出ることにも経済的に自立することにも異論はありません。
ましてや、日本も史上初の女性総理が国を建て直そうと勤しんでおられるのは多くの希望と可能性が開かれる気がしてやみません。
なので、“女性活躍”という言葉を掲げるなら、まずは女性がすでに長いあいだ担ってきた活躍の重みから認めるべきです。
さらに言えば、仕事の世界そのものが男性仕様でできてきた事実から目をそらしてはいけません。
そこを見ないままの議論は、どうしても薄く浅くなります。
女性活躍とは、女性に新しい権限を与える話ではないのだと思います。
もともと女性が持っていた力を誰が見えなくしてきたのか。
なぜその力が社会の中心設計に反映されてこなかったのか。
その問いから始めるべきなのだと思います。
曽祖母は、時代の流行語など知らなかったはずですが、それでも本質が見えていたように思います。
男の強さも弱さも、女性の凄みも、家を回すことの重さもすべて知っていたのだと思います。
私が今さらながら女性活躍という言葉が軽く見えるのは女性が活躍していなかったからではなく、女性があまりにも昔から本質的な場で活躍してきたのに 、その価値を見えなくしてきた人たちがいるからです。
そして、もし本当に社会を良くしたいなら、安直な“女性活躍”のような男性主体の言葉で飾るのではなく、女性の本領が正しく活かせるように0ベースから社会の側をつくり出すべきです。
大正生まれの曽祖母の言葉は、今の立派な政策用語より ずっと先にそこへ届いていたように思います。
私はそのことを年齢を重ねるほどに思い知っています。
必要なのは、付け足しではなく評価軸の創生であり、既存の構造への途中参加ではなく再設計です。
そんな考え方もあってはよいのではないかという共有でした。
まさたかでした。