
寄る辺なし星
「旦那が仕事で家事も育児も全然手伝ってくれないんです。もう、母子家庭も同然ですよ」
知香は一瞬遅れて、「大変ですね」と言った。
泰輝君の母親だ。夫が外資系の企業に勤めていると、誰かが噂していた。
「私が家事も子育ても頑張るしかないわよね」
彼女はかすかに笑ってそう言うと、向こうから走ってきた息子の手を引き、長くてサラサラの髪を揺らして去って行った。髪を掻き上げた指には、凝ったネイルが光っていた。
その少し先には、門にもたれて待っている彼女の夫の姿があった。泰輝くんは父親に飛びつき、抱き上げられ、そのまま肩車された。夫婦は何か言い合って笑いながら、三人で帰っていった。
知香は、彼らの後ろ姿を見えなくなるまで見送ると、学童のガラスのドアに手をかけた。ガラスに、ボサボサの髪に化粧も半分はげている自分が映る。仕事を終え、急いで息子の新を迎えにきたのだ。慌てて髪を撫で付け、ドアを開けると部屋は静まり返っていた。
先生は、顔を上げて知香を確認すると、奥に張ってある小さなテントを軽くノックして、
「新くん、お母さんが迎えにきましたよ」
と声をかけた。
知香は、嬉しそうに駆け寄ってきた新をぎゅっと抱きしめた。
「帰ろう」
新は、テントから顔を出した小さな男の子をチラリと見て、知香に耳打ちをした。
「あの子のお母さんが来るまで、いてもいい?」
久しぶりに、自分たちが最後ではなかった。
知香の戸惑いに気がつかないまま、新は続ける。
「一人で待つのは心細いと思うから」
知香が頷くのを見ると、新はテントに戻って行った。
その夜、知香はなかなか寝付けなかった。
夫がいるのに、「うちは、母子家庭のようなもの」と言った誰かの顔が次々に浮かんだ。
夫がいない夜と、父親のいない家は違う。
前者には不満の矛先があり、子どものそばに母親が残る。
後者には、待つ子どもだけが残る。
なぜ、そんな明らかな違いが分からないのだろう。
どうしたら、誰かにわかってもらえるのか。
でも、どうして分かってもらわなければならないのか。
答えのない問いは、形を変えて何度でも戻ってきた。
明日も仕事なのに。
薄明かりの中で、時計が二時を指していた。隣に眠る新に布団をかけ直した。
「ペーデロポデロ」
自分が眠りに落ちるまで、そう唱えながら新の腹を撫でた。
夕食を作る間、新はソファーにもたれてぼんやりする。
最初は、「お父さんがいたら遊んでくれたのにね」というセリフを封印した。
それから暫くして、「構って」というのもやめた。
構ってもらうと、お腹がすく。
ご飯を食べたいなら、構ってもらえない。
どこまで行っても、どちらか一択。
空想の世界で、誰かと遊ぶ。
知香が台所から声をかけた。
「今日の学校はどうだった?」
新の返答は聞く前から分かっていた。
「楽しかったよ!」
声だけが明るい。
「本当に?」そう言いかけて、知香は言葉を飲み込んだ。
代わりに別のことを聞いた。
「よかった。今日は誰と遊んだの?」
「うん。髪の毛が茶色っぽい男の子」
「...…名前は?」
「名前は忘れちゃった」
そういうと、新は向こうに顔を向けて、また元の世界へ戻って行った。
毎週金曜日だけ、少し早く仕事を切り上げることができた。
学童のドア付近で、数人の母親たちが丸く輪を作って立ち話をしていた。
「週末旦那さんが子供達を見てくれるの?いいわね」
「うちなんて、もう母子家庭同然だわ」
「ちゃんと旦那さん教育しなきゃダメよ」
「そうね」
含み笑いが重なった。
足を早めたその時、声がかかった。
「あら、新くんのお母さん、お久しぶり」
振り向くと、知っている顔が幾つかあった。
「どうも」
軽く会釈をする。
「この連休は、夫の趣味の海釣りに一緒に行くのよ。ボートを貸切で。楽しみだわ」
休みの話が耳に入り、そのまま素通りしようとすると、誰かが知香に話を振った。
「いいわね。うちの夫はアウトドア派じゃないから。でも、野球を見に連れて行ってくれるって。新くんのところは?」
「特に予定はないけど」
みんながどこかへ出かけるなら、新もどこかに連れて行かなければと思った。連休に何をしたか、クラスで話す時間があるかもしれない。でも本当は、どこかに出かけるより、ゆっくり休みたかった。
クラスが同じ母親が、ようやく思い出したような顔をして、慌てて他の母親たちに目配せをした。
「男の人がいると行ける場所も増えるわよ」
海釣りの話をしていた母親は、何の疑いもない顔でそう言って、気の毒そうな目を知香に向けた。
「それにやっぱり、お父さんって必要よ。両親揃ってないとね。誰か探せばいいのに」
と別の母親が言った。
「そうですね、私も探してはいるんですけど、なかなかいい人見つからなくて」
知香はそう言うと、急いでその場を離れた。
背中の後ろで、ひそひそと声がした。
「愛想がない人ね。新しい人を見つけるのは無理でしょうね」
母も独りぼっち、子どもも独りぼっち。
「寄る辺なし母子。アローン・トゥゲザー、か。」
知香は小さく言って、自分で少し笑った。
新を寝かしつけて、居間にあるテレビをそっとつけた。それから、スーパーで見つけた半額のマニキュアをテーブルの上に置いた。短く切った爪に、ほんのりピンク色のそれを塗ってみた。カサカサの浅黒い手には、全然馴染まなかった。新に、お菓子を買えば良かったと一瞬頭をよぎった。
向き合える時間が少ない。愛情を糸のように細く注ぎ合って、なんとか繋いできた。それが知香の知る母子家庭だった。同じ「母子家庭」という言葉でも、知香がそれを口にすると、愚痴ではなく、欠けているものの名前になる。誰かがその言葉を軽く使うたびに、新の待つ時間の切羽詰まった寂しさまで、薄められていく気がした。
知香は心の中に育っていく棘のことを、誰にも言い出せなかった。
「そんな相手を選んだのは、あなたでしょう」
勝ち誇ったような顔で、何度かそう言われて、
「彼が死んでしまうことなんて想像していなかった」
その言い訳を飲み込み続けた。
夫は新が生まれてすぐ病死した。
新以外は何も残さなかった。
ある日、テレビから流れてきた特集に釘付けになった。癌で助かりそうにない夫を妻の献身的な看病が救った話だった。妻は賞賛されていた。二人の間に生まれた赤ちゃんは、愛情を一身に受け、幸せそうに見えた。
知香だって、同じように看病した。赤ちゃんを背負って病院へ通った。でも、助からなかった。助からなければ、何をしても足りなかったことになる。案の定、彼の両親や親戚は私に冷たい目を向けた。あなたのせいで死んだのよ。
突然、知香も新も、その罪を背負わされた。
知香が贄になるだけでは、まだ足りないみたいだった。
学校へ入る門の前に、泰輝くんの母親が立っていた。路肩に止めた車の中で泰輝君が待っているのが見えた。彼女は、遠慮もなく知香を上から下まで品定めでもするように見てから口を開いた。
「旦那と離婚したいんだけど、生活するのって大変?」
何度か聞いたことのある言葉だった。
本気で困っているようでいて、結局は何も決めない人の声だ。知香の生活を覗き込み、自分にもできるかどうかを測るだけ測って帰っていく。
彼女が知香を値踏みしたように、知香も相手に視線を這わせた。
「それは、人によると思いますよ」
それだけ言って、先を急いだ。
学童では、新が知香を待っていた。
いつも一緒に最後まで残る、ひとつ下の小さな男の子が、テントの中でぐずり出した。
「ママはいつ迎えに来るの?」
新は答える代わりに、男の子を抱きしめた。
「大丈夫。ほら、僕がママだよ」
男の子はぐずるのをやめ、新を抱きしめ返した。
それから、新は男の子を膝にのせて、
「ペーデロポデロ」
とお腹を撫でた。
「あっという間に、お母さんがくるおまじないだよ」
男の子は小さな声で新の声を追った。
「ペーデロポデロ」
「僕たちの秘密だからね」
そういって新は小指を差し出した。
男の子は、泣きそうな顔のまま小指を絡めた。
先生が振り返ったときには、新はその子の手を引いて玄関へ向かっていた。
迎えに来たその子の母親にその手を渡した。母親は、「ありがとう」と言うと、その子を抱き上げ、踵を返して歩き出した。その子は、母親の肩に手をまわし、顔を乗せると、にっこりして新に手を振った。
新は、何事もなかったように部屋へ戻った。
「お母さんは六時半までには来るから」
何かを言いかけた先生を遮り、乾いた声でそう言うと、テントの中に戻った。
静まりかえる部屋に、テントの上の時計の秒針がやけに響いていた。
しばらくして、先生がそっとテントに近づいた。
中から、小さな笑い声が漏れてきた。
中を覗こうとしたとき、学童のガラスのドアが開いた。
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