メインコンテンツへスキップ

幼少期に起こしたかわいい(?)問題の数々(自分史)

    どうも!こんにちは!
    井ノ上雅之です。

    私は子供の頃に問題ばかり起こしていたのですが、
    なかなかどうして、ネタになると思いましたので、
    私が起こした問題の中から、子供の頃の、かわいい?物を書いていこうと思います。
    大きくなってからは、書けない事も多くなるので、簡略化します。




    ・赤子の頃、母乳が全く飲めず、全部吐いていた。

    ・赤子の頃、目を離した隙に階段から転落して血塗れになる

    ・赤子の頃、目を離した隙に風呂で溺れて腹がパンパンで浮いていた。

    ・保育園の時、保育園に行きたくなさ過ぎて電柱にしがみつき、しがみつく力が強過ぎて電柱から引き剥がせず、休む事が多くなったので、保育園中退。この時2歳。

    ・幼稚園に年中から編入。
    幼稚園に行きたくなさ過ぎて、幼稚園バスが来た時に、自宅マンションのどこかに隠れる。近所の人達で探すも見つからず、バスが去ったのを見計らって出てくる。
    近所の人に将来科学者になると言われる。

    ・幼稚園の時、母と一緒に行ったスーパーで欲しいおもちゃがあったが買ってもらえなかった為、お使いに行くと言って買う物を書いた紙とお金をもらい、おもちゃだけ買ってきてシバかれる。

    ・小2の時の中国旅行中、父の顧客に何度も殴りかかって、本気でキレられる。

    ・小3の時、クラスで全員の前で宝くじ3億円当たったと言って、全員信じさせた。
    後日参観日に、母は保護者達から宝くじ当たったらしいねと聞かれるが、当たってないよと言う。
    その後、クラス全員の前で実は当たってないとネタばらし。
    どんな反応だったかは、何故か微塵も覚えていない。

    ・小3の時、野球部で1才歳上の先輩達全員に何故か目の敵にされていたが、ある日たまたま学校で仲が良かった6年生の先輩を、野球部の中で呼び捨てにしたら、1番私を目の敵にしていた先輩の兄で、地獄を見た。

    ・小3の時、ちびっこのど自慢の予選大会で、観衆の前で歌う前にマイクに向かって
    「拍手されると歌いにくいので拍手しないでください」と言う。予選敗退。

    ・小5の時、剣道部で、練習所で全く練習せず友達を巻き込んで走り回って遊んでいて怒鳴られる

    ・小5、6の時、市民ミュージカルで全く練習せず友達を巻き込んで走り回って遊んでいて怒鳴られる

    ・小5、6の時、岐阜市科学館でロボカップジュニア大会に向けた講座に参加するも、
    他の子供達が毎週土日、自作のプログラムを試行錯誤している中、
    私は最初に貰った最低限の動きだけのサンプルプログラムをインストールしてからは、土日に時々科学館に行っては、タッグを組んでいた相方を巻き込んで科学館のpcで延々とゲームをやっていた。
    ゲームは「クターのアスレチックワールド」。やり過ぎて全てのゲームのハイスコアを更新。
    どれだけ怒られても、延々とゲームをしていて、相方とスコアを競っていた。
    ちなみに、そのサンプルプログラムで参加したロボカップジュニア県大会。
    3位入賞しました。
    その科学館から唯一の入賞、東海大会進出で、新聞に載りました。。

    ・小5、6の時、ドリームシアター岐阜でちびっこ寄席に参加しました。
    参加者各々が芸名やネタを考え、最終日にはテレビ収録でネタを披露します。
    私のネタは、当時流行っていた面白フラッシュの「あたかも〜を使って短文を作りなさい」シリーズを丸パクリ。
    ・・・私の芸名が、放送禁止用語の羅列だったため、収録後、後日撮り直しになりました。。

    ・小5の時、参加した2泊3日のキャンプで、自己紹介の際に「趣味はキタキタ踊りです」と言ってから、そのキャラクター(キタキタおやじ)の漫画内での行動と同じように、延々と歌いながら踊り続けた。
    食事の時も、各々色々な体験をする時も、山歩きする時も、風呂に入る時も、とにかく寝る時以外は延々と歌いながら踊り続けた。
    最初は多くの子供が私を基地外だと思い嫌遠したが、2泊3日徹底して踊り続けていたら、最終日には私につられて踊り始める子供や大人のスタッフが出てきた。
    ちなみに、竹?から箸を作る体験の時だけは、踊りを辞めて物作りに集中したが、クオリティにこだわり過ぎて時間内に一本しか作れなかった。(しかし惚れ惚れする傑作であった)
    このキャンプでの2つの行動特性は、成人した後に行った自己分析の良い判断材料の1つとなった。

    ・小6の時、参加した2泊3日のキャンプで、着替え中の大人のスタッフの股間にコールドスプレーをかけて、悶絶させた。

    ・小6の時、参加した1泊2日のキャンプで、部下を作り忠誠心を競わせた。




    ・中1の時、嫌われている担任の先生の不名誉なあだ名を作り、クラスに広めた。
    今思うと、嫌われてるなりに一生懸命やってたんだろうな〜と思い、申し訳なかったです。

    ・主要5科目以外は遊び科目にしていたので、それらの教師からは良く目の敵にされていました。

    ・中でも家庭科はかなり遊んでて、パンケーキ作るのに唐辛子大量にぶち込んでとんでもない物を作ったり、テストでは笑いを取るために珍回答をよく書いていました。
    家庭科の先生には嫌われていましたが、テストの珍回答にはツッコミを入れてくれたりしてました。

    ・美術では、題材が決まっているテストで題材に似たウンコを描いたり、授業で制作した粘土作品を、友人の制作した物と合体させようとして別室に呼ばれて怒鳴られたり。

    ・理科の実験でも、アルコールランプで遊んでて、別室に呼ばれて怒鳴られる。

    ・基本的に宿題はやらない、終わらない。提出物は出さない。
    毎日必ず教科書か給食袋か筆箱かノートのどれかを忘れる。
    授業中は他の科目の教科書を読んだり、筆記用具で遊んだり、友達と喋ったり遊んだりしていた。
    朝は毎日遅刻か良くてギリギリ。
    入り口が閉まっている事が多く、よく職員室のドアから校内に入っていた。

    ・字が汚過ぎて国語教師に宇宙人の字と言われる。

    ・勉強はできた。

    ・夏休みの宿題のノート1冊は、夏休みが終わってしばらくしてから、
    1ページにアメーバ等の微生物を1匹、てきとうに大きく絵を描いて埋める。

    ・部活は吹奏楽で、バリトンサックスでした。
    放課後の練習は自由参加だったので、1度たりとも参加しませんでした。
    土日の練習でも、個人練習の時はずっと喋ってるかふざけてるかで、まともに練習しないので幽霊部員と言われていました。

    ・中1の時、かなりヤバい問題を起こして、私1人が別室に呼ばれた後、入れ替わり立ち替わり5〜6人の先生が怒鳴りに来てました。
    全く関係ない他のクラスの担任や、他学年の学年主任とかも怒鳴りに来てました。

    ・中3の時、クラスの担任が私に物凄いキレ方をして、とてつもない怒号と打撃音がしたので、教室の前に大量の野次馬が集まり、3列ぐらいできてました。
    確か、志望高校の紙を期限超えても未提出だったせいかと。
    まあ、家庭訪問の際母に、私を殴って良いかと冗談抜きで聞いたらしいので、相当私に鬱憤が溜まっていたのかもしれない。

    ・進路相談の3者面談では、高校に行かず寺に行けと本気で言われたらしい。
    実は、何を言われたか全く記憶に無い。

    ・参観日でもないのに、私の母だけ呼ばれ、後ろで母が1人授業風景を見ていたことがあった。

    ・塾は、4回ぐらい変わりました。

    ・ある塾では、連日授業中に他の生徒を巻き込んで、授業している塾長を散々コケにしていたら、塾長に嫌われすぎて、授業中に私だけ机と椅子を外に出され、授業を聞けなくなった。
    挙句、母を呼ばれ、辞めてくれと懇願され、辞める事に。

    ・ある塾では、宿題もやってこずに、1番前の席で、講師の発言にボケたりつっこんだりして、他の受講生達を大爆笑させて授業を頻繁に停滞させていたので、何度別室に呼ばれ怒鳴られた事か。

    ・中1から始めたジュニアリーダー。
    最初の頃は、大学生のシニアリーダーに暴言を吐く事も多かったため、管理している普段温厚な偉い人に怒鳴られた事がある。

    ・髄膜炎で入院し、卒業式と公立高校受験ができず。
    一応、公立受験は病院から外出許可をもらいロキソニン片手に保健室受験するも、結果はお察し。
    滑り止めで受けた私立高校に入学
    髄膜炎は、12歳、15歳、18歳の時に3回入院した。







    ・高校入学後、すぐできた友達に「ニートみたい」と言われたのをきっかけに、その日から廊下で「ニートはぁ!ニートはぁ!おーれーだー!!」と連日叫びながら踊るようになる。
    入学後すぐにニートダンスで学年で有名になり、高校3年間、あだ名はニートになった。
    それと同時に、自分のクラスや他のクラスでx japanのRusty Nail等をアカペラで全力で絶唱していた。
    最初は私を気持ち悪がる人も多かったが、喋りが面白く、誰とでも直ぐに友達になれて、歌が上手かったので、すぐにクラス全員と友達になり、さらに、他のクラスの人にも、学年で1番面白い奴として4月中に広まった。
    高校在学中は、教師、同級生含め、「ニート」の概念を変えてしまっていた。

    ・高校に入ってからは、勉強を一切やらなくなった。
    だからテストの点は酷い有様だった。ただ、受験時の成績はクラス1位で学年9位でした。

    ・高校2年生からは、喋りの面白さに陰りが見えてきて、スベる事も多くなってくる。
    しかしこの頃から、高1から始めたドラムの技術が伸びてきて、ドラムも上手い奴として知られるようになる。
    同級生に歌やドラムを教えるようになり、高2からは、そこそこ面白くて歌が上手くてドラムが上手い奴というキャラクターに落ち着く。
    この頃になるとニートダンスは殆どやらなくなった。

    ・高校3年生からは、殆ど学校に来ないか、出席日数確保の為6限だけ出席して、ドラムの練習やバンド活動、タレント養成所に通ったり、ジュニアリーダーの活動等に傾倒していった。この頃は高校生活に興味が失せていて、行事やイベントにことごとく不参加だった。

    ・宿題は友達の友達とかにやってもらっていた。

    ・性格のキツい教師の担当科目の、夏休み明けの膨大な量の宿題プリント提出の際は、友人が提出し戻ってきたプリントを見て、教師の確認済みサインが無い事を知り、友人の提出済みプリントを、名前を書き換えて提出し、無事クリアした。
    別の友人は、コーヒーをこぼして名前を書き換えた痕跡を消していたが、私はそれは丁寧に消しゴムで前の名前を消した。

    ・ロン毛を隠す為に、カツラを被って学校に通っていた時期があったが、5000円ぐらいのテカテカした安物のカツラだったので、前年度の担任だった教師に、髪質が違うと言われ、バレて髪を切るハメになった。

    ・口にピアスを開けていて、バレないようにマスクをして高校に通っていた時期があったが、なんと最後までバレなかった。

    ・高校時代は全く勉強をしなくなっていたので、卒業寸前にはほぼ全ての科目で追試を行う事になり、合格出来なければ留年という事で、カンニングペーパーを大量に作り、机の中に潜ませて無事クリア。

    ・高校生時代は、高校と、バンド界隈と、ジュニアリーダーの、3つのコミュニティで頭角を現していて、それなりに有名だったが、それぞれのコミュニティで微妙に違うキャラクターを演じ分けていた。
    特に、バンド界隈とジュニアリーダーのコミュニティでは、高校で「ニート」と呼ばれている事やニートダンスの事を絶対に知られないように徹底していた。
     高校ではピエロ。
     バンド界隈ではクレイジーなミュージシャン。
     ジュニアリーダーでは声のデカいヒエラルキーの頂点。

    ・10代後半〜20歳ぐらいにかけて、調子に乗りすぎて、行動がエスカレートしていき、noteに書けない事が多くなる。この頃は自分を神だと思っていた。
    今のところ1番モテた時期。

    ・問題を起こしまくる。

    ・最終的に、ジュニアリーダーは出入り禁止を宣告され、
    バンドのコミュニティでは20歳の誕生日に運命的に事件を起こし、コミュニティを去る事になる。

     ここから人生観が90度変わった。
      全ての友人との関わりを断ち、
        自己破壊、自己分析、自己変容、そして自己成長へと舵を切る事になる。




    ・20歳から今に至るまで実に10年以上、私は長い冬を過ごす事になる。
    20代は地獄という言葉すら生ぬるい生き地獄であった。
    計らずも、ある意味では「寺に行け」と中学の担任に言われた通りの、人生修行になった。

       今も地獄の人生修行は続いている。。。





    ◇20歳以降の事も一応、noteに書いた別の記事をコピペして書きます。






    20歳、ホームレスを経験

    ホームレス解消後、ドラムをやめて色々な仕事をするも、死ぬ程我慢しても殆ど1週間続かず、勤め人適性が0.1%たりとも無い事を悟る。
    20歳で横浜に上京、その後沖縄で2ヶ月暮らし、22歳でまた横浜に上京。
    2度目の上京も頓挫。
    自分を見つめ直すために、自己分析と自己開発を始める。


    22歳、ドラムの研究を始める(noteの記事:ドラムの研究)


    23歳、とある国会議員の選挙を手伝い、マイクパフォーマンスが認められ、連日任される


    24歳、家業のツテで、中国北京市の芸能事務所に所属する


    25歳、日本に帰国し、父方の一族と絶縁。
    (尚、両親は純血の日本人です。)
    この時期から私の自我が明確になり、感情が生まれ、主観が芽生える。
    人生観が90度変わった。


    27歳、ドラムの長年の研究課題が解決したので、芸名として井ノ上を名乗り、バンド活動を再開。
    いくつかバンドを掛け持ちし、ビッグバンドにも所属した。


    28歳、市民ラジオに参加し、考古学者の先生の聞き手役を以後4年間務める。
    その傍ら、雑務から収録技術、子供達の番組の企画補助、プロデューサーも担当。


    30歳、家業の国際結婚相談所で、入籍時の書類作成とビザ申請補助業務を始める。
    (ビザ申請代行は資格がいる為、あくまでも「補助」業務です。)
    父は現地仕事、母は在日仕事で完全に仕事が別れていたので、父と縁を切っていても母の手伝いでその仕事をすることは出来た。


    31歳、青髪で羽島市議会議員選挙に出馬。落選
    (noteの記事:青髪で選挙に出た時の話)


    32歳、ドラムの技術が良い感じになってきていたので、世に出る為に練習場所を探す。
    郡上市の山小屋をお借りする事になり、そこで最後の技術的追い込みを始める。


    34歳 今! youtubeで「井ノ上雅之ch」始動







    う〜ん。

    子供の頃の俺は、大人が嫌いだったのかねえ。そんな記憶は無いが。
    しかし、子供の頃の深層心理は往々にして自覚できない物ですからね。
    そして、原因は見当がついております。皆まで言わないですが。
    まあ、読んでて分かる人には分かると思います(苦笑)

    そして、書いてて気付いたのは、私はどうも根本的に、教育機関と相性が悪かったのでしょう。
    あと私は勤め人適性が皆無なのですが、過去を振り返ると、そりゃそうだろうって思いますね。

    ちなみに、10代後半から20代前半までのあれこれは、社会のコンプライアンスが緩くなる事があれば、自伝でも書くかもしれません。





    最後に。

    私は、人が産まれ持った、ルールや常識への捉え方には3種類あると思っています。



    ①ルールや常識の壁の内側で、慎ましく秩序を重んじて真面目に生きようとする人たち。

    →善良な人々。大半。この人達がいるから社会が回る。
     この人達のリーダーシップは推薦的である事が比較的多い?と思われる。


    ②ルールや常識の壁を破壊し、その外側で新たな秩序を築き上げようとする新進気鋭で勇敢な人たち。

    →イノベーター。起業家、野心家気質。
     自主的にリーダーシップを取る人たち。


    ③ルールや常識の壁が認識できない人たち。

    →社会不適合者。大半は社会をドロップアウトすると思われ。
     ただし、自分の道を見つけられると、大化けする可能性がある。

    あなたへのおすすめ