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最期の天誅組①

    最期の天誅組【連載開始】

    天誅組と「謎の男」西田仁兵衛

    天誅組は、文久三年(一八六三年)、大和で挙兵しました。
    天皇親征と即時攘夷を求める長州藩らが企画した大和行幸。土佐や久留米の脱藩浪士、草莽の志士たち約四十人は、大和行幸に呼応し、五條代官所を襲撃したのです。
    いちはやく討幕を試みたとして、世に「維新の魁(さきがけ)」と呼ばれています。
    しかしながら、蹶起の翌日、京で八月十八日の政変が起こり、長州藩や即時攘夷派公卿は京を追われます。
    天誅組は朝廷や幕府から叛乱軍とみなされ、約四十日間の戦闘を経て討伐されます。
    挙兵した浪士たちの多くは戦死し、捕縛されたものたちは処刑されました。
    明治維新の五年前のことです。

    本稿は天誅組の「謎の男」西田仁兵衛にかかわる調査結果を基にしています。
    西田については長らく調査をしてきましたが、今回、明治二十年代の西田について新たな発見がありました。

    【小説】『最期(さいご)の天誅組』は新たな調査結果を基に、フィクションを交えて書いた小説です。

    また、調査の結果の詳細と小説のフィクション部分の背景などを、『小説と史実の間』として、説明しようと考えております。

    天誅組は、真摯に日本の改革を夢見た若者たちが起こした大規模な反乱でした。
    しかし、あまり世に知られていません。
    天誅組の志士たちの精神や行動は、大きな時代の変化に直面しているにもかかわらず、閉塞感がただよう現代の日本において、あらためて見直されるべきものと私は考えています。
    本書が少しでも天誅組を知ってもらえる、きっかけとなればと考えます。

    プロローグ 

    天誅組 西田仁兵衛稲夫は「謎の男」と呼ばれている。
    天誅組最後の激戦地の奈良県東吉野村鷲家口(わしかぐち)。
    西田の戦死の地碑と墓標がある。
    文久三年九月、西田はそこで戦死したことになっている。
    一方で、明治二十八年、天誅組三十三回忌。
    祀られた祭文に野村稲夫という男が生存者として紹介されている。
    そして、この男が、明治後も生存していた西田であるともいわれている。
    すなわち、西田は天誅組で死んだのか、逃げ延びたのか、謎があるのだ。
    そして、天誅組に入る前、および、その後の西田の素性はほとんど分かっていない。
    ただ、西田は江戸生まれであったという。
    西田にとって、わかっているのは「江戸から来た男」ということだけなのだ。

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    東吉野村明治谷墓地

    天誅組の西田仁兵衛を追いかけて、おおよそ八年が経過した。
    私は東京都在住の会社員だが、趣味で天誅組を研究している。
    きっかけは天誅組を紹介した一般書などで、西田が「謎の男」であるとされていたことだ。もともと歴史が好きだったこともあり、であれば調べてみようと思ったのだ。
    以降、天誅組の実録『大和日記(やまとにっき)』の各異本を分析したり、国会図書館や各地の資料を調べたりなどして西田を追いかけてきた。
    ちょうど、国会図書館などの公的なデータベースがデジタル化されるタイミングであったためか、いくつかの新たな西田仁兵衛の足跡を見つけることが出来た。

    ①明治四年、反政府活動に関わったとして大阪で捕縛された熊屋潤次郎(くまやじゅんじろう)。この男が、天誅組の西田仁兵衛であると、北畠治房(きたばたけはるふさ)が証言した記事が見つかった。
    すなわち、西田は明治後も生き残っていたことが明らかとなった。
    (『土居通夫君伝』半井桃水 編 野中昌雄出版 大正十三年)

    ②明治七年、北畠治房から五代友厚(ごだいともあつ)への手紙に野村潤二郎が登場する。
    北畠と五代が西国に二人の密偵を送る。野村は密偵に金を渡したり報告を受けたりする役割をもっていたらしい。野村潤二郎は西田仁兵衛と同一人物と思われる。当時、大阪の五代友厚の近辺にいたようだ。
    (『五代友厚伝記資料 第一巻 (伝記・書翰)』日本経営史研究所 編 東洋経済新報社 一九七一年)

    北畠治房は、天誅組参加者の平岡鳩平(ひらおかきゅうへい)である。明治後、大隈重信の知遇を得て、司法関連の重職を歴任した。明治初年には政府の密偵組織「監部(かんぶ)」の元締め役をしていたことがわかっている。
    西田もまた、北畠のもとで密偵のような仕事をしていたことが推察される。
    なお、西田仁兵衛は明治後、熊屋潤次郎および野村潤次郎(あるいは野村潤二郎)を名乗っていた。


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    五代友厚像


    その後、明治十年代の西田の記録として、以下の二つを見つけることが出来た。

    ③明治十四年、野村潤次郎は東京株式取引所の株主として株主総会にあらわれる。以降、明治十六年頃まで、総会に出席している。
    (『渋沢栄一伝記資料 第十三巻 』竜門社 編 渋沢栄一伝記資料刊行会 一九五七年)

    ④明治十五年、野村潤次郎は壬午(じんご)銀行の関係者として、東京銀行集会に出席。 東京銀行集会の議長は渋沢栄一。出席者としての野村の発言も記録されている。
    (『渋沢栄一伝記資料 第二六巻』竜門社 編 渋沢栄一伝記資料刊行会 一九五九年)

    西田は、密偵から華麗な転進を果たし、実業界に登場する。おそらくこの役割についても、北畠治房ないしは大隈重信の関係者であることから回ってきたものであるものと推察される。

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    渋沢栄一

    壬午銀行は大隈重信の立憲改進党の資金確保のため設立されたといわれている。
    西田は、政治や経済の表舞台にはほとんど立つことはなかったが、ある種の役割を得て、明治を生きていた。
    なお、天誅組に入る前の西田の履歴についても、次の通り、ある程度判明した。また、西田の自筆書面も発見することが出来た。

    ⑤江戸生まれの西田仁兵衛は、高野山に近い紀州富貴(ふき)村の庄屋名迫(なさこ)次郎衛門(河野伝右衛門)行仲が秘書として江戸から連れてきたものである。天誅組の首謀者の一人乾十郎に誘われて天誅組に参加した。(『いはゆる天誅組義挙の研究』(久保田辰彦 大阪毎日新聞社 昭和六年)
    ⑥名迫家に伝わる名迫家文書には西田仁兵衛が署名した資料が多数残されている。西田は名迫行仲を補佐し、幕府に紫園(しおん)鉱山開発を申請していた。
    (『高野町史 近世古文書目録』高野町 二〇〇九年、『(銅山開発と寺領大庄屋ー富貴村名迫家の行動の軌跡ー』(藤田貞一郎 紀州史研究5 高野山特集 平成二年)

    西田が秘書役をつとめていた名迫家の、現在のご当主とも面談させていただいた。その内容も踏まえ、これまでの発見の成果や資料を一冊の本(『明治天誅組』)にまとめた。
    が、西田についてはなおも謎がある。
    天誅組を逃れてから明治四年(大阪で捕縛)まで、どのようにしていたのか。
    東証株主や壬午銀行関係者として現れた明治十年代から、天誅組三十三回忌の明治二十八年まで、何をしていたのか。
    また、なぜ、生きているにもかかわらず奈良県東吉野郡鷲家口に墓標などがあるのか。
    一息ついて、あらためて大隈重信の関連資料を眺めたりしていた。おそらく、大隈や立憲改進党に近い場所、鉱山開発などの実業界で活躍している野村が発見できるのではないか。そういう期待があった。

    令和7年(2025年)10月、東京都文書館の所蔵文書などを捜索中に、新たな資料に遭遇した。それは、西田の履歴の空白部分を埋める重要な内容だった。

    ⑦明治二年、熊屋潤次郎は大阪商人六人と連名で「長明社」を組織し、茶の仕入れ代金を大阪出納寮から借り受けた。結果としてそれは返済できず、明治九年、裁判所から身代限り(破産)の認定を受けた。
    (『五代友厚関係文書』(大阪商工会議所所蔵)R33ー29 1427 中嶋定次郎買入茶品引請の儀に付申上 長明社長紀伊国屋正三郎外より出納方役所宛(明治二年十二月))

    ⑧明治二十一年、大阪府から東京府へ所在調査依頼が行われた結果、野村潤次郎は東京深川で発見され、明治二年の借金の返済を迫られる。返済嘆願書を提出したところ、翌年、三十銭を返済し、「残金は身代持直し次第」とすることが認められた。
    (東京都文書館 雑種貸 290番 野村潤次郎、野村潤次郎返納残金証書領収の件 本所区長)

    資料⑧における野村の最終の消息は明治二十七年である。
    天誅組 三十三回忌の前年ということになる。
    再度、行方をくらましていた野村潤次郎は、東京府本所区で東京府の役人に発見された。
    調書にはこうある。

    掛合事代人及代書ノ如キ日雇稼ニ而単身無資力者に有之候条此段及御報候也
    (もめごとの代理人や代書のような日雇い仕事をしており独身で無資産の者です。この旨ご報告いたします)

    この結果は、私にとっては少し衝撃的なものだった。
    長らく追いかけてきた西田仁兵衛。
    ようやく見つけた明治二十年代の西田の消息。
    資料には西田の居所として深川区、本所区の三つの住所も記載されていた。
    私はその場所を訪れてみた。当然のことながら西田をしのぶ何物もそこには残されていない。が、墨田川や永代河岸など当時と変わらぬ、西田も見たであろうランドマークを眺めて感慨深いものがあった。

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    深川永代河岸付近


    しかし、明治二十年代の西田。額面通りに解釈すると、それは、絵にかいたように凋落(ちょうらく)した境遇のようであった。
    それは、ある意味、明治維新における落伍者の悲哀を象徴していると考えることもできる。
    そう理解するべきなのかのかも知れない。
    が、子細に資料を調べている中に、やや不審な点も見いだされた。
    例えば、大阪府が東京府に調査を依頼した文書の末尾に以下のような記述がある。

    追て其筋へ被告之都合有之候条、至急御分之候由致相成度申添候也
    (追って、その筋へ報告すべき都合もありますので、至急、お調べくだされたく申し添えます)

    報告すべき「その筋」とは、いったい何なのだろう。
    また、そもそも大阪府が、概ね二十年も前に発生した貸付金の返済を、どのような理由でこの時期に持ち出してきたのだろう。
    明治二十一年。この年の二月に大隈重信が外務大臣となり、政府に復帰している。
    大隈重信は明治十四年、政変により政府を追われ野に下っていた。大隈は政府に復帰するに際し、前島密など側近を政府の要職に就けることを条件とした。
    復帰した則近の一人に、元天誅組の北畠治房がいる。それも、東京控訴院検事長という政府法曹部門のトップだ。

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    大隈重信

    このような資料の細部や時間的な経緯を考えたとき、ある種の仮説に思い至った。
    それがただの妄想であるのか、少しでも真実に近づけるものであるのかどうかは、今のところ私にもわからない。

    【小説】『最期(さいご)の天誅組』は私の頭の中の仮説や妄想を小説にしたものだ。内容には相当のフィクションが混じっていることをご理解いただきたい。
    読者に楽しんでいただけるものになっていれば幸いだ。

    なお、今回の新発見の詳細や、小説の仮説あるいはフィクション部分の背景については、『小説と史実の間』として、小説の後で連載したいと考えている。
    本稿が、あまり世の中に知られていない天誅組を知ってもらえる、きっかけとなればと思っている。

    (「【小説】最期の天誅組」に続く)


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