
子どもの頃、知っていたこと〜昔ばなしのような、五つの小さな物語〜
はじめに
子どもの頃、昔ばなしを聞くのが好きでした。
こわい話も、ふしぎな話も、少し悲しい話も、なぜか心に残っていました。
どうして、おじいさんは自分の笠を地蔵にかぶせたのだろう。
どうして、開けてはいけない箱を開けてしまったのだろう。
どうして、約束を守れなかった人の話は、あんなに寂しく残るのだろう。
その頃の私は、まだ何者でもありませんでした。
何かを成し遂げた人でもなく、誰かの役に立つ人でもなく、正しい答えを知っている人でもありませんでした。
ただ、うれしいことをうれしいと感じ、こわいことをこわいと感じ、誰かのやさしさに胸があたたかくなる子どもでした。
大人になるにつれて、私たちはいろいろなことを覚えていきます。
損をしないこと。
迷惑をかけないこと。
ちゃんと役に立つこと。
間違えないこと。
早く答えを出すこと。
そうやって生きるための知恵を身につけていく一方で、いつの間にか置いてきてしまう感覚もあるのかもしれません。
誰かが困っていると、理由もなく心が動くこと。
小さな約束が破られると、言葉にならない寂しさが残ること。
近づきすぎてはいけない場所があると、なんとなく分かっていたこと。
分からないことを、分からないまま不思議に思えたこと。
暗い道の向こうに灯が見えるだけで、ほっとしたこと。
昔ばなしは、私たちに何かを教えていたのではなく、もともと知っていたことを忘れないように、そっと残してくれていたのかもしれません。
これは、昔ばなしのような五つの小さな物語です。
大人になる途中で置いてきたものを、もう一度思い出すための物語です。
第一話 半分のおむすび
むかし、山のふもとの小さな村に、小さな子どもがいました。
その子の家は、けっして豊かではありませんでした。
朝になると、母親は小さなおむすびをひとつ握ってくれました。
「これを食べて、今日も元気でいるんだよ」
母親はそう言って、おむすびを竹の皮に包み、子どもの手に持たせました。
おむすびは、いつも小さなものでした。
けれど、子どもにとっては、その日を過ごすための大事なひとつでした。
子どもは、おむすびをふところに入れて、山へ向かいました。
山には、薪にする枝が落ちていました。
小さな実もありました。
風の通る道もありました。
子どもは毎日、山の中を歩きながら、家で使う枝を拾っていました。
その日は、朝から少し肌寒い日でした。
空はうすく曇っていて、山の木々も、いつもより静かに見えました。
子どもは、ふところのおむすびをときどき手でたしかめながら、細い山道を歩いていきました。
昼になったら、あの大きな石のところで食べよう。
そう思いながら歩いていると、道のわきの草むらから、小さな音が聞こえました。
かさり。
子どもは足を止めました。
風の音ではありませんでした。
もう一度、草むらが小さく揺れました。
子どもがそっとのぞくと、そこには小さな生きものがうずくまっていました。
子ぎつねのようにも見えました。
犬の子のようにも見えました。
けれど、はっきりとは分かりません。
その小さな生きものは、子どもを見ると逃げようとしました。
けれど、すぐに力が抜けたように、その場に座りこんでしまいました。
子どもは、ふところのおむすびを手で押さえました。
まだ昼には少し早いけれど、子どももお腹がすいていました。
朝から何も食べずに、山道を歩いてきたのです。
おむすびは、ひとつしかありません。
これを食べなければ、帰り道でお腹がすくかもしれません。
それでも子どもは、その小さな生きものから目を離すことができませんでした。
見なかったことにして、歩いていくこともできたはずでした。
けれど、一度見てしまうと、もう、いなかったことにはできませんでした。
子どもは、しばらく黙っていました。
そして、ふところから竹の皮に包まれたおむすびを取り出しました。
手のひらにのせると、やはり小さなおむすびでした。
子どもは少し迷いました。
全部あげることは、できませんでした。
けれど、何もあげないことも、できませんでした。
子どもは、おむすびをそっと半分に割りました。
けれど、その半分を、すぐに小さな生きものの前へ差し出すことはしませんでした。
近づきすぎれば、こわがらせてしまうかもしれないと思ったのです。
子どもは、あたりを見まわしました。
すると、草むらのそばに低い切り株がひとつありました。
子どもはその切り株のところまで行くと、足もとに落ちていた広い葉っぱを拾い、そっと上に敷きました。
それから、その葉っぱの上に、半分のおむすびを置きました。
白いおむすびは、みどりの葉の上で、いつもより少しだけやわらかく見えました。
子どもは、ふり返りました。
小さな生きものは、じっとこちらを見ていました。
その目には、こわさもあれば、ためらいもあるように見えました。
子どもは何も言いませんでした。
「食べな」と言えばいいのかもしれません。
けれど、言葉にすると、かえって何かを押しつけてしまうような気がしたのです。
子どもは、竹の皮に残った半分のおむすびを包みなおすと、静かに立ち上がりました。
そして、いつもより少し早く、山を下りはじめました。
うしろで、草のかすかに鳴る音がしたような気もしました。
けれど、子どもはふり向きませんでした。
山を下りる道は、いつもより長く感じました。
ふところには、半分だけになったおむすびがありました。
子どもは、何度かそれを手でたしかめました。
お腹はすいていました。
けれど、すぐに食べる気にはなりませんでした。
家に着くと、母親は少し驚いた顔をしました。
「今日は早かったね」
子どもは、うなずきました。
「枝は、あまり拾えなかったのかい」
母親がそう聞くと、子どもは背負っていた小さな束を下ろしました。
「少しだけ」
母親は、枝の束を見て、それ以上は何も聞きませんでした。
「寒かったろう。中にお入り」
子どもは、土間に腰を下ろしました。
家の中は、外よりも少しだけあたたかく感じました。
母親は、かまどのそばで何かをしていました。
子どもは、ふところから竹の皮に包まれたおむすびを取り出しました。
竹の皮を開くと、そこには半分のおむすびが残っていました。
朝、手渡されたときよりも、ずいぶん小さく見えました。
子どもは、その半分のおむすびを両手で持ちました。
そして、少しずつ食べました。
ひと口食べるたびに、山の草むらのことを思い出しました。
かさり、と揺れた草の音。
じっとこちらを見ていた、小さな目。
切り株の上に敷いた葉っぱ。
その上に置いた、もう半分のおむすび。
子どもは、母親には何も話しませんでした。
話せば、何かが少し違うものになってしまうような気がしたのです。
ほめられたいわけではありませんでした。
よいことをしたと言いたいわけでもありませんでした。
ただ、あの小さな生きものが、少しでも食べてくれていたらいいと思いました。
それだけでした。
半分のおむすびを食べ終えると、お腹はまだ少し空いていました。
けれど、不思議と、心細くはありませんでした。
子どもは、空になった竹の皮をそっとたたみました。
そのとき、自分の中のどこかに、小さな印がひとつ残ったような気がしました。
それは、誰にも見えないものでした。
母親にも、村の人にも、山の小さな生きものにも、見えないものでした。
けれど、子どもには、それがなくなっていないことだけは分かりました。
半分のおむすびは、なくなったのではなく、どこかに静かに残ったのだと思いました。
その日から、子どもは山道を歩くたびに、草むらの音に少しだけ耳をすますようになりました。
あの小さな生きものに、もう一度会うことはありませんでした。
切り株の上に置いた半分のおむすびを、食べてくれたのかどうかも分かりません。
けれど、子どもはそれを確かめに行こうとはしませんでした。
確かめてしまえば、何かが少し違うものになってしまうような気がしたのです。
あの日、子どもがしたことを知っている人は、誰もいませんでした。
母親にも話しませんでした。
村の人も知りませんでした。
小さな生きものが覚えているかどうかも、分かりませんでした。
けれど、子どもの心の中には、半分のおむすびを置いたときの静けさが残っていました。
半分のおむすびは、なくなったのではありませんでした。
誰にも見えないところに、静かに残ったのです。
第二話 青い糸の約束
むかし、川のそばの小さな村に、仕立てものが上手なおばあさんがいました。
おばあさんの家は、村のはずれにありました。
家の前には細い柳の木が一本立っていて、風が吹くと、長い枝がさらさらと揺れました。
おばあさんは、その家で、村の人たちの着物を直したり、小さな布を縫い合わせたりして暮らしていました。
おばあさんの手もとには、いろいろな色の糸がありました。
白い糸。
赤い糸。
茶色い糸。
それから、夜明け前の空のような、深い青い糸。
ある日のことです。
村に住む子どもの家で、母親の着物の袖がほころびました。
その着物は、母親がいつも大事に着ているものでした。
母親は針箱を開けましたが、ちょうどよい糸がありません。
白い糸では目立ちすぎました。
黒い糸では、少し重たく見えました。
母親は、ほころびた袖を見つめて、小さくため息をつきました。
それを見ていた子どもは言いました。
「おばあさんのところへ行って、糸を分けてもらってくる」
母親は少し迷いましたが、やがてうなずきました。
「では、少しだけお願いしておいで」
子どもは、小さなかごを持って、村はずれのおばあさんの家へ向かいました。
柳の木の下を通ると、おばあさんは縁側に座って、布をたたんでいるところでした。
「どうしたんだい」
おばあさんがたずねると、子どもは、母親の着物の袖がほころびたことを話しました。
「袖に合う糸が、家にないのです」
おばあさんは、しばらく考えてから、奥の小さな箱を開けました。
箱の中には、青い糸が巻かれた小さな糸巻きがありました。
おばあさんは、それを手に取ると、子どもに見せました。
「この糸なら、きっと合うだろう」
青い糸は、明るすぎず、暗すぎず、静かな色をしていました。
子どもは、その糸をじっと見ました。
おばあさんは、糸巻きから少しだけ糸を引き出して、切ってくれました。
それから、子どもの手に渡す前に、静かに言いました。
「これは、少し大事な糸なんだよ」
子どもは顔を上げました。
「残ったら、明日の夕方までに返しておくれ」
おばあさんは、そう言って、青い糸を小さな紙に包みました。
子どもは、その包みを両手で受け取りました。
「返します」
子どもは、はっきりとそう言いました。
おばあさんは、にこりともせず、ただ静かにうなずきました。
子どもは、青い糸の包みをかごに入れて、家へ帰りました。
その夜、母親は小さな灯のそばで、ほころびた袖を縫いました。
青い糸は、母親の着物によく合いました。
ほころびは、少しずつ目立たなくなっていきました。
子どもは、母親の手もとを見ながら、おばあさんの言葉を思い出していました。
残ったら、明日の夕方までに返しておくれ。
母親が袖を縫い終えると、青い糸は少しだけ残りました。
ほんの短い糸でした。
けれど、子どもには、それがただの残りものには見えませんでした。
次の日、朝から雨が降っていました。
細い雨ではありませんでした。
屋根を打つ音が、家の中まで響くような雨でした。
庭の土はやわらかくなり、道には小さな水たまりがいくつもできていました。
川のほうからは、いつもより大きな水の音が聞こえてきました。
子どもは、昨夜残った青い糸を見ました。
小さな紙に包むと、指先にかくれてしまうほどでした。
母親は、かまどのそばで火を見ながら言いました。
「そんなに雨が降っているんだもの。今日は行かなくてもいいんじゃないかい」
子どもは、青い糸の包みを手の中でそっと握りました。
「ほんの少しの糸だし、おばあさんも忘れているかもしれないよ」
母親は、責めるように言ったのではありませんでした。
雨に濡れる子どもを心配して、そう言ったのです。
子どもにも、それは分かっていました。
外へ出れば、着物は濡れるでしょう。
道はぬかるんで、足も汚れるでしょう。
村はずれのおばあさんの家までは、少し歩かなければなりません。
それに、返すのは、ほんの短い糸でした。
行かなくても、誰にも叱られないかもしれません。
おばあさんも、本当に忘れているかもしれません。
けれど、子どもの中には、昨日の自分の声が残っていました。
返します。
その声は、雨の音にまぎれることなく、子どもの中に細く残っていました。
子どもは、青い糸の包みを小さな布にくるみました。
それをふところに入れると、母親のほうを見ました。
「少しだけ、行ってくる」
母親は、子どもの顔をしばらく見ていました。
そして、何かを言いかけましたが、言いませんでした。
かわりに、古い手ぬぐいを一枚持ってきて、子どもの肩にかけました。
「足もとに気をつけるんだよ」
子どもはうなずいて、家を出ました。
雨は、思っていたより冷たく感じました。
村の道はぬかるんでいて、歩くたびに、草履の下で水がはねました。
子どもは、ふところの包みを何度も手でたしかめながら歩きました。
青い糸は、そこにありました。
短くても、ちゃんとありました。
川のそばを通ると、水は茶色く濁り、いつもより早く流れていました。
柳の木のある家が見えてきたころには、子どもの足もとは泥で汚れていました。
おばあさんの家の前まで来ると、縁側には誰もいませんでした。
戸は少しだけ開いていましたが、家の中は静かでした。
子どもは、戸口の前で声をかけました。
「おばあさん」
返事はありませんでした。
もう一度、少しだけ大きな声で呼びました。
「おばあさん、糸を返しに来ました」
けれど、やはり返事はありませんでした。
おばあさんは、奥で休んでいるのかもしれません。
どこかへ出かけているのかもしれません。
子どもは、しばらく戸口に立っていました。
そして、軒先に小さな竹のかごが置いてあるのに気づきました。
昨日、おばあさんが針仕事の切れ端を入れていたかごでした。
子どもは、ふところから小さな布包みを取り出しました。
布を開き、紙に包まれた青い糸を見ました。
雨に濡れないように、包みはきちんと乾いていました。
子どもは、その包みを竹のかごの中にそっと置きました。
それだけでした。
おばあさんに会うことはできませんでした。
ありがとうと言われることもありませんでした。
よく来たねと、ほめられることもありませんでした。
けれど、子どもは戸口に向かって、小さく頭を下げました。
そして、来た道を戻りはじめました。
帰り道、雨はまだ降っていました。
足もとは濡れ、手ぬぐいも重たくなっていました。
それでも、子どものふところは、来るときよりも軽くなっていました。
青い糸は、もうありません。
けれど、何もなくなったようには思いませんでした。
昨日、子どもが「返します」と言った声。
雨の中を歩いた足の重さ。
竹のかごの中に、そっと包みを置いたときの静けさ。
それらが、子どもの中で、細い一本の糸のようにつながっていました。
家に帰ると、母親は戸口で待っていました。
「濡れたね」
子どもはうなずきました。
母親は、子どもの肩から濡れた手ぬぐいを取り、乾いた布で髪をふいてくれました。
「返せたのかい」
子どもは、少し考えてから言いました。
「置いてきた」
母親は、それ以上は聞きませんでした。
ただ、静かにうなずきました。
その夜、子どもは母親の着物の袖を見ました。
青い糸で縫われたところは、灯の下でほとんど目立ちませんでした。
けれど、子どもには、そこに糸が通っていることが分かりました。
見えにくくても、ちゃんと通っている。
それは、あの約束によく似ていました。
誰も覚えていなくても。
誰にも見えなくても。
一度、自分の中に通したものは、なかったことにはならない。
青い糸は、手もとからなくなりました。
けれど、子どもの中には、細い筋のようなものが静かに残りました。
第三話 井戸をのぞかなかった子
むかし、山と川のあいだに、小さな村がありました。
その村のはずれには、古い井戸がありました。
井戸は、もう水を汲むためには使われていませんでした。
木のふたが置かれているわけでもなく、石でふさがれているわけでもありません。
けれど、村の人たちは、そこから水を汲むことはありませんでした。
それでも、井戸は荒れたままにはされていませんでした。
春になると、井戸のまわりの草が刈られました。
夏になると、つる草が石にからまないように、そっとほどかれました。
秋になると、落ち葉が静かに払われました。
冬になると、雪の重みでまわりの枝が折れないように、村の人たちが様子を見に行きました。
使わないのに、捨てられていない井戸。
閉ざされていないのに、誰も近づきすぎない井戸。
子どもは、その井戸のことが、ずっと気になっていました。
井戸の中には、何があるのだろう。
水はまだ残っているのだろうか。
それとも、もう底が見えるほど乾いているのだろうか。
どうして誰も水を汲まないのだろう。
どうして、使わない井戸を、村の人たちは大切にしているのだろう。
子どもは、何度もそう思いました。
けれど、そのたびに、村の年寄りの言葉を思い出しました。
「あの井戸は、のぞくものではないよ」
年寄りは、こわい顔で言ったわけではありませんでした。
ただ、静かにそう言ったのです。
「あれは、ただ、そこにあるものとして大事にするんだよ」
子どもには、その意味がよく分かりませんでした。
のぞいてはいけないと言われると、かえってのぞきたくなるものです。
中に何かがあるのなら、見てみたい。
何もないのなら、何もないことを確かめたい。
子どもの胸の中には、そんな気持ちが小さく動いていました。
それでも子どもは、村の人たちが井戸のそばを通るとき、少しだけ足音を静かにするのを見ていました。
草を刈るときも、石を動かすときも、誰も井戸を乱暴には扱いませんでした。
何かを拝むわけではありません。
けれど、ただの古い穴として扱っているわけでもありませんでした。
井戸のふちに手をかけるとき、村の人たちはほんの少しだけ動きをゆるめました。
落ち葉を払うときも、急ぐことはありませんでした。
子どもは、その意味を知りませんでした。
誰かに、はっきり教えられたわけでもありませんでした。
それでも、村の人たちの手つきや足どりを、いつの間にか覚えていました。
ある日のことです。
子どもは、村はずれへ届けものを頼まれました。
その道は、古い井戸のそばを通っていました。
届けものを終えて帰るころには、あたりは少し夕方に近づいていました。
村の人たちは田畑に出ていて、井戸のまわりには誰もいませんでした。
風もなく、草も揺れていませんでした。
古い井戸だけが、いつもの場所に静かにありました。
子どもは、足を止めました。
井戸は、手を伸ばせば届くところにありました。
まわりには誰もいません。
今なら、そっと近づいて、中をのぞくことができるかもしれません。
子どもは、一歩だけ井戸に近づきました。
石でできた井戸のふちは、長い年月をかけて、ところどころ丸くなっていました。
そこに、夕方の淡い光が静かにのっていました。
子どもは、ごくりと息をのみました。
中には、何があるのだろう。
水はまだあるのだろうか。
それとも、もう何もないのだろうか。
見てみたい気持ちが、胸の奥で小さくふくらみました。
そのとき、子どもはふと思い出しました。
春の日に、村の人たちが井戸のまわりの草を刈っていたこと。
夏の日に、石にからまったつる草を、乱暴に引きちぎらず、ゆっくりほどいていたこと。
秋の日に、井戸のふちにたまった落ち葉を、手のひらでそっと払っていたこと。
冬の日に、雪をのけるとき、誰も井戸の中をのぞきこまなかったこと。
村の人たちは、井戸をこわがっているようには見えませんでした。
けれど、軽く扱っているようにも見えませんでした。
子どもは、井戸のふちにかけようとしていた手を、そっと下ろしました。
そして、少し離れたところにしゃがみました。
井戸のまわりには、風で運ばれてきた枯れ葉がいくつか落ちていました。
子どもは、それを一枚ずつ拾いました。
石のすきまに小さな枝がはさまっていたので、それもそっと取りました。
井戸のそばに転がっていた小さな石を、もとの場所らしいところへ戻しました。
それだけでした。
井戸の中をのぞくことはしませんでした。
ふたをすることもしませんでした。
何かをたずねることもしませんでした。
ただ、村の人たちがいつもしていたように、井戸のまわりを少しだけ整えました。
子どもは立ち上がりました。
井戸は、さっきと同じように、そこにありました。
中に何があるのかは、分からないままでした。
けれど、不思議と、分からないままでよいような気がしました。
知らないから、粗末にしてよいものではない。
見えないから、何もないわけではない。
子どもは、そんなことを、言葉ではまだ分かりませんでした。
ただ、井戸のそばに立ったとき、胸の中が少し静かになったのです。
帰り道、子どもは何度かふり返りました。
古い井戸は、夕方の光の中で、村のはずれに静かにありました。
子どもは、井戸の底をとうとう見ませんでした。
けれど、見なかったことで、そこにあるものを前よりも大切に思えるようになりました。
その日、子どもの中には、近づきすぎなかった静けさが残りました。
第四話 小さな種を持ち帰った子
むかし、山のふもとの村に、物知りの人がいました。
その人は、村の奥にある小さな家で暮らしていました。
家の前には、畑がありました。
畑には、季節ごとにいろいろなものが育っていました。
春には青い葉が出ました。
夏には背の高い草が風に揺れました。
秋には実がなりました。
冬になると、畑は静かになりました。
けれど、その人は冬の畑の前にも、よく立っていました。
何も生えていない土を、じっと見ていることがありました。
村の人たちは、困ったことがあると、その人のところへ行きました。
畑のこと。
天気のこと。
薬草のこと。
家の直し方。
なくしものの探し方。
その人は、何でもすぐに答えるわけではありませんでした。
すぐに教えてくれることもあれば、しばらく黙っていることもありました。
それでも村の人たちは、その人のところへ行きました。
子どもは、その人のことが気になっていました。
どうして、そんなにいろいろなことを知っているのだろう。
どうして、みんなが聞きに来るのだろう。
どうして、すぐに答えないことがあるのだろう。
子どもには、それが不思議でした。
ある日のことです。
子どもは、村の奥の家へ向かいました。
聞きたいことがあったのです。
畑のそばまで行くと、その人は土の上にしゃがみこんでいました。
手には小さな鍬を持っていました。
「どうしたんだい」
その人がたずねると、子どもは少し迷ってから言いました。
「どうしたら、なんでも分かるようになるの」
その人は、手を止めました。
子どもは続けました。
「村の人は、困るとここへ来るでしょう。みんな、答えを聞きに来るでしょう」
その人は、子どもの顔を見ました。
「すぐに答えが分かるようになりたいんだ」
子どもは、そう言いました。
「分からないままなのは、なんだか落ち着かないんだ」
その人は、すぐには何も言いませんでした。
畑の向こうでは、風が草の先を小さく揺らしていました。
子どもは、答えを待っていました。
その人なら、きっと教えてくれると思ったのです。
けれど、その人は答えを言いませんでした。
かわりに、家の中へ入り、小さな包みを持って戻ってきました。
包みの中には、ひと粒の種が入っていました。
とても小さな種でした。
子どもは、それを見て首をかしげました。
「これは何の種ですか」
その人は言いました。
「それは、育ててみるまで分からないよ」
子どもは、少しがっかりしました。
知りたかったのは、種の名前ではありませんでした。
どうしたらなんでも分かるようになるのか、その答えがほしかったのです。
けれど、その人は、子どもの手のひらに小さな種をのせました。
「家へ持って帰って、土に入れてごらん」
「水をやるのですか」
「やりすぎないように」
「日に当てるのですか」
「当てすぎないように」
「いつ芽が出ますか」
その人は、少しだけ笑いました。
「それは、毎日見てごらん」
子どもは、手のひらの小さな種を見ました。
答えではなく、種でした。
子どもは、来たときよりも少し重たい気持ちで、その種を持ち帰りました。
家に帰ると、子どもは庭のすみに小さな穴を掘りました。
そこに種を入れ、土をそっとかぶせました。
水も少しだけやりました。
次の朝、子どもは庭に出ました。
土の上には、何もありませんでした。
子どもは、しゃがんで土を見ました。
昨日と同じように見えました。
その次の日も、何も出ていませんでした。
三日目も、土は静かなままでした。
子どもは思いました。
あの人は、どうして答えではなく、種をくれたのだろう。
こんな小さなものを見ていても、何も分からない。
子どもは、そう思いました。
それでも、子どもは毎朝、庭のすみへ行きました。
水が多すぎないか。
土が乾きすぎていないか。
石がのっていないか。
虫が歩いていないか。
そんなことを見るようになりました。
最初は、芽が出ているかどうかだけを見ていました。
けれど、何日も見ているうちに、子どもは、土の色が少しずつ違うことに気づきました。
雨のあとの土は、黒く見えました。
晴れた日の土は、少し明るく見えました。
朝の土は冷たく、昼の土はあたたかくなりました。
同じ場所なのに、毎日少しずつ違っていました。
子どもは、それを不思議に思いました。
けれど、その不思議を、すぐに誰かへ聞きに行こうとはしませんでした。
もう少し見てみようと思ったのです。
ある朝、子どもが庭へ行くと、土の上に小さな割れ目がありました。
子どもは、息を止めるようにして見ました。
土のあいだから、うすい緑の芽が、ほんの少しだけ顔を出していました。
それは、あまりにも小さくて、見落としてしまいそうな芽でした。
子どもは、しばらくその場にしゃがんでいました。
何の芽なのかは、まだ分かりませんでした。
花が咲くのか。
実がなるのか。
それとも、大きくならずに終わるのか。
何も分かりませんでした。
けれど、昨日まで何もないように見えていた土の中で、何かが動いていたことだけは分かりました。
子どもは、その日、村の奥の家へ行きました。
物知りの人は、畑のそばに立っていました。
子どもは言いました。
「芽が出ました」
その人は、うなずきました。
「そうか」
「でも、まだ何の芽か分かりません」
その人は、畑の土を見ながら言いました。
「そういうものもある」
子どもは、もう一度たずねました。
「これは何の種だったのですか」
その人は、子どものほうを見ました。
「それは、もう少し育ててごらん」
子どもは、少しだけ口をとがらせました。
けれど、前ほど腹は立ちませんでした。
家へ帰る道で、子どもは手のひらを見ました。
そこには、もう種はありませんでした。
種は、土の中に入っていました。
そして、小さな芽になっていました。
答えは、まだ分かりませんでした。
けれど、子どもは、すぐに分からなくても見ていられるものがあることを、少しだけ知りました。
その日から、子どもは、分からないことがあると、すぐに誰かへ聞きに行く前に、少しだけ立ち止まるようになりました。
これは何だろう。
どうしてだろう。
昨日と何が違うのだろう。
そう思いながら、しばらく見ていることが増えました。
答えは、もらえませんでした。
けれど、子どもの中には、小さな種を見つめる時間が静かに残りました。
第五話 山の上の灯
むかし、山のふもとの小さな村に、夕方になると山の上に灯をともす人がいました。
山の上には、古い道がありました。
その道は、むかし、隣の村へ行くために使われていた道でした。
けれど、川沿いに新しい道ができてからは、山道を通る人は少なくなりました。
昼間でも、そこを歩く人はまれでした。
夜になると、なおさらでした。
それでも夕方になると、その人は小さな油の入った灯を持って、山へ向かいました。
雨の日もありました。
風の日もありました。
山の木々が黒く見える日もありました。
その人は、ゆっくりと山道をのぼり、古い道の途中にある小さな石の台の上に灯を置きました。
灯は、大きなものではありませんでした。
村から見上げても、星と見まちがえるほどの小さな明かりでした。
けれど、暗くなると、その灯だけが、山の上にぽつりと浮かびました。
子どもは、夕方になると、その灯をよく見上げていました。
まだ空が青いうちは見えません。
山の端が少しずつ暗くなり、家々の明かりがつきはじめるころ、山の上に小さな光がひとつ現れるのです。
子どもは、それを見ると、今日も灯った、と思いました。
けれど、どうして毎日ともすのかは分かりませんでした。
もう、あの道を通る人はほとんどいないのです。
村の人の中には、こう言う人もいました。
「もう誰も見ていないだろうに」
「油がもったいない」
「昔の道は、もう昔の道だよ」
子どもも、そうかもしれないと思いました。
誰も通らない道なら、灯がなくても困らないのかもしれません。
誰も見ていない灯なら、消えていても同じなのかもしれません。
それでも、その人は毎晩、山の上に灯をともしました。
村の人たちは、その灯を毎日じっと見ているわけではありませんでした。
けれど、夕暮れになると山の上に小さな明かりがともることを、どこかで知っていました。
畑から帰る人が、ふと顔を上げることがありました。
川で洗いものをしていた人が、手を止めることもありました。
子どもたちが遊びをやめて、家へ走って帰ることもありました。
その灯は、毎日聞こえる遠い鐘の音のように、暮らしの中にそっと混じっていました。
ある日のことです。
夕方になっても、山の上に灯がともりませんでした。
空は、だんだん暗くなっていきました。
家々の明かりは、ひとつ、またひとつとつきはじめました。
けれど、山の上だけは暗いままでした。
子どもは、家の前に立って、山を見上げていました。
いつもなら、あのあたりに小さな光が見えるはずでした。
でも、その日は何も見えません。
子どもは、胸の中が少し落ち着かなくなりました。
今日くらい、ともらなくてもいいのかもしれない。
誰も通らない道なのだから、困る人はいないのかもしれない。
そう思おうとしました。
けれど、山の上が暗いままだと、そこにあった道まで消えてしまったように見えました。
そのとき、村のはずれから声が聞こえました。
灯をともす人が、足を痛めたのだということでした。
今日は山へ上がれないらしい。
村の人たちは、それを聞いて言いました。
「それなら仕方がない」
「一晩くらい、灯がなくても大丈夫だろう」
「明日になれば、またともせるさ」
子どもも、そうだと思いました。
一晩くらい、灯がなくても大丈夫なのかもしれません。
それでも、子どもは山を見上げました。
暗い山の中に、いつもの小さな光がありませんでした。
ただそれだけのことなのに、何かが足りないように思えました。
子どもは、しばらく黙っていました。
そして、家の中から小さな灯を持ってきました。
母親が言いました。
「どこへ行くの」
子どもは、少し迷ってから答えました。
「山の上へ」
母親は驚いた顔をしました。
「もう暗くなるよ」
子どもは、うなずきました。
「でも、今日は灯がない」
母親は、何かを言いかけました。
けれど、子どもの顔を見て、言葉をのみました。
そして、小さな布を一枚持ってきて、灯が風で消えないように包んでくれました。
「足もとに気をつけるんだよ」
子どもはうなずいて、山道へ向かいました。
山道は、昼間よりもずっと暗く見えました。
木々のあいだを風が通るたび、葉が小さく鳴りました。
手の中の灯は、頼りないほど小さなものでした。
けれど、その小さな明かりがあるだけで、足もとの石や根が少し見えました。
子どもは、ゆっくりと歩きました。
途中で何度も立ち止まりました。
本当に行かなくてもよかったのではないか。
誰も困っていないのではないか。
村の人たちは、もう家の中に入っているのではないか。
そう思いました。
それでも、子どもは山をのぼりました。
山の途中に、小さな石の台がありました。
いつも灯が置かれている場所でした。
子どもは、そこにたどり着くと、息を整えました。
石の台は、ひんやりとしていました。
その上には、消えた灯の器がありました。
子どもは、持ってきた小さな灯を、そっと石の台の上に置きました。
風が吹きました。
灯は、少し揺れました。
消えてしまうかと思いました。
けれど、小さな炎は、細くなりながらも、また静かに立ち上がりました。
子どもは、しばらくその灯を見ていました。
大きな明かりではありませんでした。
山全体を照らすこともできません。
遠くまで道を明るくすることもできません。
ただ、そこに小さくともっているだけでした。
でも、その灯があると、古い道がまだそこにあるように見えました。
子どもは、村のほうをふり返りました。
山の下には、家々の明かりが小さく見えました。
どの家の人が、この灯に気づいているのかは分かりませんでした。
誰も見上げていないかもしれません。
誰かが、今日も灯った、と思っているかもしれません。
それは分かりませんでした。
子どもは、もう一度、灯を見つめました。
灯は、誰かに向かって呼びかけているわけではありませんでした。
気づいてほしいと騒いでいるわけでもありませんでした。
ただ、暗くなった山の上で、静かにともっていました。
子どもは、少しだけ分かったような気がしました。
誰かが見ているから、ともすのではないのかもしれない。
誰かがほめてくれるから、続けるのでもないのかもしれない。
今日もそこに灯があること。
それだけで、帰る道を思い出す人がいるのかもしれない。
けれど、子どもはそのことを、うまく言葉にはできませんでした。
ただ、山の上に灯があると、胸の中が少し落ち着くことだけは分かりました。
子どもは、灯が消えないのを確かめると、ゆっくりと山を下りました。
帰り道、何度かふり返りました。
山の上には、小さな灯がともっていました。
それは、星よりも低いところにある、ひとつの明かりでした。
村に戻ると、誰かが待っていたわけではありませんでした。
ありがとうと言われることもありませんでした。
灯を見ていた人がいたのかどうかも分かりませんでした。
けれど、子どもは家の前で、もう一度山を見上げました。
小さな灯は、暗い山の中に、静かにありました。
その日から、子どもは夕方になると、前よりも少し長く山を見上げるようになりました。
灯がともる日もありました。
雨で見えにくい日もありました。
風に揺れて、小さくまたたく日もありました。
それでも、山の上に灯があると思うだけで、子どもはどこか安心しました。
誰に届いているのかは、分かりませんでした。
何の役に立っているのかも、はっきりとは分かりませんでした。
けれど、消さずにいるものがあることを、子どもは忘れませんでした。
その夜、山の上の灯は、誰にも大きく知られることなく、ともっていました。
けれど、子どもの中には、暗くなっても消えない小さな明かりが、静かに残りました。
おわりに
五つの小さな物語を書き終えて、私は思いました。
子どもの頃、私たちは、もっとたくさんのことを知っていたのかもしれません。
誰かが困っていると、見なかったことにできないこと。
小さな約束でも、自分の中に残ること。
知りたいと思っても、近づきすぎてはいけない場所があること。
すぐに答えが出なくても、毎日見つめることで少しずつ分かってくるものがあること。
誰が見ているか分からなくても、消さずにいる灯があること。
それらは、学校で習った言葉のようには覚えていません。
けれど、昔ばなしを聞いていた頃の心のどこかには、ちゃんと残っていたような気がします。
大人になると、私たちは見えるものを求めるようになります。
結果。
評価。
答え。
意味。
役に立つこと。
けれど、本当に大切なものの中には、すぐには見えないものがあります。
半分のおむすびのように、なくなったように見えて、心に残るもの。
青い糸のように、目立たなくても、ちゃんと通っているもの。
古い井戸のように、のぞかないことで守られるもの。
小さな種のように、見つめる時間の中で育っていくもの。
山の上の灯のように、誰に届いているか分からなくても、ともり続けているもの。
それらは、誰かにほめられるためのものではありません。
すぐに何かが返ってくるものでもありません。
けれど、誰にも見えないところに、静かに残っていくものなのだと思います。
もしかすると、昔ばなしは、私たちに何かを教えていたのではなく、もともと知っていたことを忘れないように、そっと残してくれていたのかもしれません。
まだ何者でもなかった頃の私たちが、すでに知っていたこと。
大人になる途中で、少しずつ奥のほうへしまってきたこと。
その小さな感覚を、もう一度思い出すために、この五つの物語を書きました。
見えないところに残るものは、なくなったわけではありません。
ただ、静かにそこにある。
そして、必要なときに、また私たちの中で灯るのだと思います。