
「正しさ」で娘を遠ざけた私が見つけた、答えのない日々の愛し方
はじめに:喉に詰まった「正論」を吐き出す
「勉強しなさい」「スマホを置きなさい」「将来のために今やるべきことがあるでしょ」
地方で思春期の娘二人(高1・中1)を育てながら、私はずっと「正しい親」でいようとしてきました。社会に出ても困らないように。最短ルートで成功できるように。
でも正論を言えば言うほど、娘たちの目から光が消えていきました。
あるとき気づいたんです。私は子どもを愛していたんじゃなくて、子どもを「正解」という型にはめることに必死だっただけだと。
「生産性」という呪縛に、私も縛られていた
仕事でも家事でも「効率」や「成果」を求められる毎日。その感覚を育児に持ち込んだとき、公園で石をじっと眺める時間も、「理由のわからないイライラ」も、全部「無駄」に見えてしまっていました。
予定通りに進まない一日。 積み上がる洗濯物。 会話が弾まない食卓。
そういう日の夜、「今日も何もできなかった」と自分を責めた経験、ありませんか。
私はありました。何度も。
「解決」じゃなくていい、と気づくまで
今、長女は大学受験を前にしています。高校生になった娘と向き合うなかで、私がずっと見落としていたものに少しずつ気づいてきました。
子育てに、検索すれば出てくるような答えはない。 大事なのは「問題を解決すること」じゃなくて、うまく言葉にできないモヤモヤを、ただそのまま持っていられるかどうか、なのかもしれない。
このnoteでは、「正しくあること」をやめてから見えてきた、泥臭くて、でも愛おしい日々のことを書いています。
答えが出ない日に、それでも「今日はよかった」と思えた瞬間のこと。 うまくいかなくても、保留のまま次の朝を迎えられたこと。 言葉にすることで、自分を少しずつ取り戻してきたこと。
同じように迷っているあなたへ
「良い親でいなきゃ」という気持ちで、自分が苦しくなっていませんか。
育児書通りにいかない毎日に、孤独を感じていませんか。
私もまだ、迷いながらやっています。答えは出ていません。
でも、正解を出せない日も、立ち止まってしまう日も、それ自体がちゃんと「今日」だったと、最近は思えるようになってきました。
ここは正解を競う場所じゃないです。一緒に迷う場所です。
よかったら、のぞいていってください。