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『継ぐ物語』第2回:黒い影と境界線

    【読者の皆様へ:閲覧上のご注意】 本作はダークファンタジー作品であり、物語の背景を描写する上で、一部に身体的・精神的に過激な表現(堕胎、非倫理的な生体描写、凄惨な暴力など)が含まれます。 これらは世界の残酷さと、その中で抗う人々の生を写実的に描くための不可欠な要素として執筆しております。苦手な方や、心身の状態に不安がある方は、あらかじめご留意の上、ご自身の判断でお読みいただけますようお願い申し上げます。

    『継ぐ物語』第1回:泥の中の始源(ドラフト)


    第7章:境界の消失

    一歩、村の境界線を越えた。
    乾いた土を蹴るカミルの背中は、村の誰よりも小さく、そして誰よりも無機質だった。その歩みに、別れを惜しむ未練も、故郷を追われる悲哀もない。ただ、命じられた方角へ進むだけの、残酷なほど淡々とした旅立ちであった。

    「カミル――ッ!!」

    静寂を切り裂いたのは、喉を引き裂かんばかりのソフィーの叫びだった。
    なりふり構わず駆け寄ろうとする彼女の細い肩を、老いた、しかし岩のように冷酷な力が制止する。村長だ。その枯れ枝のような指先は、ソフィーの皮膚に食い込むほど強く、逃さない。

    「放して! あの子が……カミルが行ってしまう!」
    「ソフィー、行かせるのじゃ。それがこの村のため、そして何より――あの子のためなのじゃよ」

    村長の声は、耳元で毒蛇が這うように低く、甘い。泣き崩れるソフィーを抱き寄せるその顔には、慈父のような笑みが浮かんでいた。

    「案ずるな。ここから北へ一週間、アスペル山脈を越えた先に都「トロポス」がある。そこでは今、聖域を調査する勇敢な者たちを募っておるのだ。カミルの力なら、そこできっと自分の居場所を見つけられる。あの子はそこで、本当の英雄になれるのじゃ」

    その言葉に、ソフィーは一瞬、救われたような表情を見せた。あの子の力が、誰かの役に立つのなら。あの美しさが、尊ばれる場所があるのなら。
    ソフィーは震える胸を抑え、遠ざかる背中を見送った。それが村長の仕掛けた、合法的な処刑への片道切符だとも知らずに。

    カミルは、背後の喧騒など聞こえていないかのように、険しいアスペル山脈へと足を踏み入れた。路銀も、武器も、食料さえない。だが、始源種の血を継ぐ彼の肉体は、凍てつく夜風を厭(いと)わず、空腹をただの「機能の低下」としてしか認識しない。道中、彼は村の狩人たちから教わった方法で、ごく自然に獲物を得た。雪解け水の溜まり場で水を飲む野兎を、石礫(いしつぶて)一つで仕留める。その鮮やかな手際は、空腹を満たすための執着というより、精密な機械が部品を調達するような淡々としたものだった。

    異変に気づいたのは、山脈の五日目、深い霧が立ち込める谷間だった。
    背後に、自分と同じ「熱」を感じる。カミルが振り返ると、そこには黒い、塊のようなものが蹲(うずくま)っていた。全身を覆う長く不潔な体毛。泥と湿った土、そして古い血の匂いが混ざり合った、この世のものとは思えぬ異形。それは、人間が知るいかなる生物の図鑑にも載っていない、生命の設計図が書き換えられた末の「間違い」そのものに見えた。異形は、カミルを睨みつけたまま低い唸り声を上げる。自分と同じ「禁忌の血」を持ちながら、対極の神々しさを纏うカミルへの、本能的な困惑。

    カミルは、その異形を「恐ろしい」とは思わなかった。ただ、その瞳に宿る深い空腹と孤独に、強い既視感を覚えた。カミルは焚き火で炙っただけの、味気ない野兎の肉を差し出した。

    「……食べるか」

    言葉は通じない。異形は最初こそ牙を剥き、警戒を露わにしたが、飢えには勝てず、ついには奪い取るように肉に食らいついた。泥と体毛に塗れ、必死に咀嚼するその姿。 その時、カミルの脳裏に、かつてソフィーが自分にしてくれた仕草が蘇った。食の細かった幼いカミルが、ソフィーの差し出したスープを飲み干した時、彼女はいつもこう言ったのだ。

    「好き嫌いしないで食べて、えらいね」

    カミルは無意識に手を伸ばし、獣の硬い剛毛に触れた。異形がビクリと身体を強張らせる。

    「好き嫌いせず食べて、えらいな」

    ソフィーが自分を肯定してくれた、愛の記憶。それを、自分と同じ「世界の爪弾き者」である異形へと手渡す。カミルがその頭を「よしよし」と不器用になでると、異形の黄金色の瞳が小さく揺れ、唸り声が静かな吐息へと変わった。

    それから、都へ向かうカミルの数歩後ろに、常にその黒い影が付き従うようになった。一人は静寂を纏い、一人は獣の体温を撒き散らしながら。
    アスペル山脈の霧の隙間から、都トロポスの灯りが見え始めた時、カミルは初めて、自分の「力」の使い道について、村長の教えとは違う、血の通った何かを感じ始めていた。


    第8章:泥酔の賢者

    アスペル山脈の切り立った岩肌が途切れ、視界が開けた先に、石造りの巨大な街並みが姿を現した。都・トロポス。そこは聖域調査の拠点であり、富と困窮、そして得体の知れない熱気が渦巻く「分岐点」の街だ。

    カミルは、街の入り口で魔物に襲われていた若い女性を助けた縁で、半ば強引に門内へと連れ込まれていた。

    「さあ、英雄さん!あそこの店で、最高のご馳走をおごらせて!」

    助けた女性に引きずられるように大通りを進んでいく、助けた女性の友達、その友人たち、十数人。村の静寂とは対極にある喧騒。行き交う馬車の音、物売りの叫び、そして「金」という実体のない価値を求めて群がる人々の欲望。カミルにとって、それは理解の範疇を超えた、非効率なノイズの塊でしかなかった。

    「……必要ない」

    カミルが拒絶の言葉を口にしかけた、その時だった。彼女たちが目指していた酒場の、ちょうど入り口の地面に、何かが転がっていた。安酒の匂いにまみれた、一人の男。自慢げに開けた胸元には、使い古された、しかし大切に巻かれた一枚のストールを覗かせている。

    「きゃっ!何これ!」
    「ちょっと、どきなさいよ!」

    先頭を歩いていた女性たちが、男の存在に気づく。だが、彼女たちは止まらなかった。むしろ、美しいカミルを「ご馳走」へ案内する熱狂のあまり、地面の障害物を容赦なく踏みつけたのだ。

    「ぐ、えっ……!……痛でーっ!」

    悲鳴と共に起き上がったのは、無精髭を蓄え、虚ろな瞳をした屈強な男。
    だが女性たちはひるむ様子もない。

    「何よ、この酔っ払い!」
    「こんなところで寝る方が悪いのよ!」
    「そうよそうよ!シッシッ!」

    一向に止むことのない嬌声(きょうせい)の元凶を見渡し男は一声吠えた。

    「うるせーーっ!俺を蹴ったのはどこのどいつだ!」

    一瞬の静寂ののち、男と一人の女性と目が合う。

    「お前か」

    その女性は、威圧の視線に耐え切れずついカミルを指差してしまう。ふらつく足取りでゆっくりとカミルに近づく男――クレーストは、わざとらしく脇腹を押さえて顔を歪めた。

    「おい、坊主……。肋骨が二、三本、景気よくイッちまったぞ」

    カミルを囲んでいた女性たちは、クレーストのただならぬ気配(あるいは単なる悪評)を察して、蜘蛛の子を散らすように去っていく。広場には、美しい怪物と、死に損ないの冒険者だけが残された。

    「……慰謝料出しな。」
    「慰謝料?……それは、必要なのか?」

    カミルが放ったのは、純粋な疑問だった。だが、クレーストの眉間に深い皺が寄る。

    「金だよ。金!それで許してやるって言ってんだよ!」
    「カネ?」

    カミルは首を傾げた。村での生活は、常に物と物との交換で成り立っていた。貨幣という概念そのものが、彼の中には存在しない。クレーストは一瞬、言葉を失った。この「美しすぎてムカつく」少年が、嫌味ではなく本気で言っているのだと気づいたからだ。

    「チッ、マジかよ……。いいか坊主、この街じゃ金がねぇのは死んでるのと一緒だ。分かるか?」
    「……。」
    「ダメだこりゃ。……だったら、体で払え。そこらの森にいる『双角獣(バイコーン)』の角でも取ってこい。それでチャラにしてやる」

    クレーストは、わざとらしく喉を鳴らした。双角獣は、この辺りでは最もありふれた、しかし素人にはそれなりに骨の折れる獲物だ。

    「いいか、あいつらは匂いに敏感だ。風上から足音を殺して、まずは左の角の付け根を――」

    クレーストはベテランらしい狩猟のイロハを語り始めたが、カミルの瞳には何の光も宿らない。説明の途中で、クレーストは投げやりに手を振った。

    「ああもう、いい。とにかく角を持ってくればいいんだよ。行ってきな」

    せいぜい半日は戻ってこないだろう。クレーストがそう高を括り、再び石畳に背中を預け、眠りに落ちかけたその時だった。わずか半時も経たないうちに、カミルがその場に戻ってきた。手には、返り血一つ浴びていない、見事な一対の角。

    「……持ってきた」
    「は……? もうかよ。お前、どっかで拾ってきたんじゃねえだろうな。まぁ、それでも、かまわないけどよ」

    クレーストは角をひったくるように受け取り、絶句した。それは双角獣の角などではなく、もっと奥地に生息する、凶暴な大型魔獣のものだった。

    「……おまえ、これ……すげーな。俺は前、この角の持ち主に本気で肋骨を折られたんだぞ(半分は嘘だが)」

    角を換金し、期せずして潤った懐で、二人は場末の飲み屋へと入った。  酒場の騒めきの中、クレーストは豪快にジョッキを空け、カミルにこの世界の「汚さ」を説いて聞かせた。一見、歳の離れた兄弟のようにも見える光景。だが、カミルの視線は、クレーストの首元で揺れるストールに釘付けになっていた。

    そこから漂う、微かな「聖域」の残り香。
    母、ソフィーと同じ匂い。

    カミルは、吸い寄せられるように手を伸ばした。そのストールに指が触れようとした、その瞬間――。

    「触るんじゃねぇ!!」

    クレーストの怒号が店内に響き渡った。ジョッキがテーブルに叩きつけられ、ざわついていた酒場が一瞬で静まり返る。クレーストの瞳には、先ほどまでのふざけた色など微塵もなく、剥き出しの殺意と、それ以上に深い「恐怖」が宿っていた。

    数秒の沈黙の後、クレーストは自分の失態を悟ったように、忌々しげに顔を背けた。

    「……悪かったな。少し、飲み過ぎた」

    クレーストは空になったジョッキを凝視したまま、絞り出すような声で続けた。
    「……名前……まだ言ってなかったな。俺はクレーストだ。お前は何てんだ」
    「……僕は、カミル」

    カミルが短く自分の名を口にすると、クレーストはカミルの名前を小さく復唱し、父親が子供に諭すように年上の威厳を持って告げた。

    「カミルか。……いいか、カミル。他人のもんを勝手に触ったらダメなんだぞ。分かったら、その綺麗な面を下げて飯を食え」

    吐き捨てるように言うクレーストの横顔は、言葉とは裏腹に、今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。カミルは、その「もやもや」とした感情をどう定義すればいいか分からず、ただ無言で、運ばれてきた温かいスープを口に運んだ。味気ないスープが、さっきより少しだけ、味が濃くなった気がした。

    街の外では、一匹の黒い異形が、主を待つように静かに闇に潜んでいる。


    第9章:三者の契約

    酒場の喧騒を背に、冷え込み始めた夜の街路へ出た。クレーストは足取りこそ覚束ないが、その目は酔客のそれではない。時折、背後や路地裏へ鋭い視線を走らせている。一方のカミルは、感情の読み取れない横顔で、ただ淡々と街の外れへと歩を進めていた。

    「おい、坊主。こんな時間にどこへ行く。……野宿なら、もっとマシな場所があるぞ」

    クレーストの問いかけに、カミルは答えなかった。ただ、街を囲む石壁の門を抜け、明かりの届かない荒野の闇を見つめる。その直後、クレーストの全身が、針金が弾けるような緊張感に包まれた。

    闇の中から、得体の知れない「黒い塊」が這い出してきたからだ。

    低く、地鳴りのような唸り声。長く不潔な毛に覆われたその異形は、月の光を浴びて黄金色の瞳を怪しく光らせている。クレーストは反射的に腰の剣の柄に手をかけたが、声は震えていた。かつて聖域で仲間を蹂躙した魔物とも、先ほどカミルが狩ってきた獲物とも違う。もっと根源的で、冒涜的な「何か」だ。

    「……おまえ、それなんだよ……」

    絞り出すようなクレーストの声。カミルは、その異形の前に迷いなく歩み寄った。そして、酒場で余った食料を無造作に差し出した。異形は最初こそクレーストに向けて牙を剥いたが、カミルの手から肉を受け取ると、大型の猛獣が大人しくなるように、その場に蹲(うずくま)った。

    「……なんなんだこいつは」
    「分からない」

    カミルは淡々と答える。

    「……大丈夫なのか?」
    「分からない。……お母さんが僕にこうしてくれたから」

    「お母さん」という、この場には不釣り合いなほど柔らかな言葉。
    クレーストの脳裏に、正気を失いながらも何かを必死に愛そうとしていた恋人の、あの震える手がよぎった。殺意を孕んでいたクレーストの指先から、ふっと力が抜ける。

    「……お母さんの教えじゃ、守らないとな」

    独り言のように呟き、クレーストは深く溜息をついた。ふと見れば、異形が鼻先をぴくつかせ、おずおずとクレーストの足元に寄ってきていた。その標的はクレーストではなく、彼の首元に巻かれた古びたストールだ。異形は、そこに染み付いた「聖域」の匂いに惹かれるように、クンクンと鼻を鳴らし、クレーストを見上げた。

    「……名前はなんて言うんだ」

    クレーストの問いに、カミルはやはり無表情に首を振った。

    「分からない」
    「分からないって……。チッ、名前ねぇと呼ぶとき困るだろ」

    クレーストは、自分に寄り添おうとする異形の不気味さと、それを当然のように受け入れている少年の異質さに呆れ果てたように、後頭部を掻いた。

    「……ってお前は、これっぽっちも困りそうもねぇーな」

    カミルは、その言葉の意味を理解しようとするかのように、少しだけ首を傾げた。月の下、美しい人形のような少年と、汚泥の中から生まれたような異形、そして死に場所を見失った酔いどれ。相容れないはずの三つの影が、トロポスの門外で、一つの歪な線を結んだ。


    第10章:怪物の温度

    死の足音は、驚くほど静かだった。都・トロポスが威信をかけて組織した「第三次聖域調査団」の末路は、前回を遥かに凌ぐ惨劇となった。聖域から漏れ出す澱んだ空気が、屈強な兵士たちの理性を内側から腐らせ、彼らは闇に怯える間もなく、ただの「肉の塊」へと変えられていったのだ。

    クレーストは、泥濘(ぬかるみ)の中に倒れていた。肩の傷から流れる血が地面を叩く。周囲には、かつての仲間たちが、形を留めぬ骸(むくろ)となって散らばっている。(……そうだよな。そりゃそうだ……)
    薄れゆく意識の中で、クレーストは自嘲気味に口角を上げた。

    視界が暗転する。

    不意に、頬を撫でる湿った感触で目が覚めた。

    「……ッ……!」

    目の前にいたのは、あの「黒い塊」だった。クレーストは呻き声を上げ、反射的に身を引く。そこは城壁の外、月明かりが荒野を照らす静寂の中だった。酒場の深酒で記憶が混濁していたが、カミルに連れられて街を出たところまでは覚えている。

    異形は喉をゴロゴロと鳴らし、再びその巨大な舌でクレーストの顔を舐め回した。

    「くっさ!……お前、あの時の、か?!」

    その瞬間、封じ込めていた「三回目」の記憶が鮮明に蘇った。泥濘の中で死を待っていた自分。その頬を舐め、暗闇から強引に引き戻してくれた感触。
    ふと視線を落とせば、異形の鼻先は、彼の首元に巻かれた古びたストールの端、そこに歪な結び目で固定された「紅い石」に触れていた。

    二回目の調査から戻ったリナが、「これでお金が手に入るから」と、血が滲むほど固く握りしめていた石。三回目の遠征前、支度金のために質屋へ持ち込んだが、「ただの石ころだ」と叩き返され、一文の価値もつかなかった代物だ。世間にとっては無価値なゴミ。だが、今のクレーストにとっては、リナが生きた唯一の証だった。その石から伝わる、微かな鼓動。異形は、その音に安らぎを覚えるように目を細めている。

    「……ありがとうとは、言わねーぞ。……でも、助かった」

    クレーストは震える右手を伸ばし、初めて怪物の硬い毛に触れた。

    その手のひらから伝わる、痛いほどの熱。それは、かつてリナが最後に残していった体温に、どこか似ていた。

    「……お前も、寂しかったのか」

    クレーストはおずおずと、しかし確かにその頭を撫でた。異形は目を細め、甘えるようにクレーストの膝に大きな頭を預けてくる。その重みが、クレーストの凍りついていた心に、痛いほどの熱を伝えてきた。カミルは少し離れた場所で、その光景をただ静かに、標本でも眺めるかのように見つめていた。

    「……リナ」

    クレーストが呟いたその名は、夜風にさらわれて消えた。その脳裏には、まだ幸せだった頃のリナの笑顔が浮かんでいた。酒を飲んで失態をさらした自分に「私が稼いでくるから大丈夫」と笑って、二回目の聖域調査へと旅立っていった、あの勇敢で哀れな恋人の姿が。


    第11章:楽園の残滓

    聖域調査は、誰もが疑わない「割のいい商売」だと思われていた。

    第一回目の調査団が出発して一週間後、都・トロポスの街は未曾有の熱狂に沸き立っていた。凱旋門をくぐる調査団の隊列。それは、周到に準備された「演出」という名のパレードだった。荷馬車からは、聖域の入り口をなぞっただけで得られたという、見たこともない色彩の宝石や、芳醇な香りを放つ未知の薬草が溢れんばかりに積まれていた。 「たった数日の散歩で、一年は遊んで暮らせる富が手に入る」そんな噂が、火薬に火をつけたように街中に広がった。生存率はほぼ百パーセント。傷一つ負わず、眩いばかりの富を抱えて戻ってきた英雄たちの姿に、人々の警戒心は霧散した。あまりにも出来過ぎた成功。だが、貧困と閉塞感に喘いでいた民衆にとって、それは疑うべき罠ではなく、天から降ってきた唯一の希望に見えたのだ。

    それから一ヶ月。人々の渇望が最高潮に達した頃、満を持して聖域の「再調査」の募集がかけられた。

    「結婚するためには、これくらいのお金が必要でしょ?」

    リナはそう言って、寝たきりのクレーストの枕元に、その募集要項を置いた。

    クレーストは反対した。酒を飲んで道端で寝ていたところを馬車に轢かれ、両足を折って動けない自分の不甲斐なさを呪いながら。パレードの煌びやかさに感じた「裏側」のない違和感を、言葉にできないままに。しかし、愛する男を養うために、そして二人の未来のために、リナの意志は黄金色に染まった街の熱気と同じく、もう誰にも止められなかった。

    数週間後、地獄と化した第二次調査団からリナは帰還した。ボロボロの姿で戻った彼女の姿を見るなり、クレーストはまだ完治していない足で這いずるように駆け寄り、彼女の腰に縋り付いて泣いた。

    「リナ、リナ……よかった、本当によかった……っ!」

    クレーストは子供のように声を上げて泣き、彼女の無事を神に感謝した。そして、自分の不甲斐なさが彼女を死地へ追いやったのだと自分を責め、震える声で誓ったのだ。

    「酒はもうやめる。絶対やめる。……これからは俺が、お前を絶対守るから。だから、もうどこにも行くな」

    それは、どん底にいた男の心からの懺悔であり、再生への叫びだった。だが、その熱い抱擁を受け止めるリナの体は、驚くほど冷えていた。彼女の瞳には、かつての慈愛も、クレーストの涙への同情もなかった。ただ、遠くアスペル山脈の向こう側、あの「聖域」の深淵だけを見つめるような、虚ろで神々しい光が宿っていた。

    「……うん、そうね」

    たった一言。氷のように冷めたその返答が、クレーストの誓いを虚空へと弾き飛ばした。

    彼女は身ごもっていた。

    リナは誰にも言わずに川へと向かい、堕胎剤を煽った。自らの体ごと冷たい川に沈め、腹を突き破らんばかりに蠢く「種」を、必死に、なきものにしようとした。激痛と孤独の中で、彼女が守りたかったのは自分ではなく、クレーストと共に歩むはずの平穏な日常だったのだ。

    しかし、一度聖域の「甘い毒」を知ってしまった肉体は、リナの意志とは裏腹に、もう元には戻らなかった。彼女はクレーストの隣で眠りながら、必死に彼の温もりを確かめようとする。だが、まどろみの中で彼女が求めてしまうのは、もうクレーストではなかった。あの神々しいまでの存在に、再び塗り潰されることを切望する肉体の飢え。

    聖域の深淵で触れた、生物としての根源的な快楽。それが、かつて人生のすべてであったはずのクレーストという「個」を、日に日にうす擦れたノイズへと変えていく。

    そしてある朝、彼女は消えた。

    クレーストは、まだ思うように動かない足を引きずりながら、街中を、荒野を、文字通り血の滲む思いで探し回った。だが、見つかったのは、聖域へ続く道の途中に落ちていた、彼女のストールだけだった。

    「……嘘つきは、俺の方だったな」

    三回目の調査団に志願した時、クレーストの手には、再び安酒の瓶が握られていた。誓いを守るべき相手がいなくなった世界で、彼は自分の弱さを、アルコールと泥濘の中に沈めるしかなかったのだ。

    だが、その三回目の遠征こそが、トロポスの歴史に刻まれる最大の惨劇となった。


    第12章:門出の道連れ

    「聖域調査、同行者求む。報酬は応相談」
    都・トロポスの酒場に張り出されたその紙は、もはや喜劇の小道具でしかなかった。三度目の大惨事から時間が経過した今、その場所は「死地」の代名詞となっていたからだ。

    酔客たちの嘲笑が飛ぶ。カミルの人離れした容姿に惹かれ、最初は話も聞かず寄ってくる者もいた。だが、クレーストの口から「聖域」という単語が出た瞬間、誰もが潮が引くように素に戻り、足早に去っていく。

    一週間、クレーストは募集を続けたが、集まったのは冷やかしと憐れみの視線だけだった。

    その間、カミルはずっとクレーストの傍らにいた。落ち込む彼を慰めるわけでも、励ますわけでもない。ただ、置物のようにそこに座り、クレーストが酒を煽る姿を観察していた。その無機質な献身が、今のクレーストには、どんな熱い言葉よりも毒にならずに済んでいた。

    「……ケッ、どいつもこいつも。腰抜けしかいねーのかここには……」

    クレーストは投げやりにそう呟き、隣のカミルを横目で見た。

    「おい、坊主。お前、行くか?……なんてな。お前みたいななまっちょろいガキがついてくるわけねぇよな」

    冗談だった。自嘲気味に鼻で笑い、酒を傾けようとした時だ。

    「行く。僕は、そこに行かなければならない」

    カミルの声は、一切の揺らぎがなく平坦だった。クレーストはジョッキを口に運んだまま固まった。

    「……!? 行ってくれるのか、お前……正気か?」
    「正気って分からないけど、行くと言った」

    クレーストは呆然とした後、大きく噴き出した。笑いが止まらなかった。死に場所を求める自分に、死の意味さえ知らない怪物がついてくる。これ以上の皮肉があるだろうか。

    「……いいぜ。お前がその気なら、トコトン付き合ってもらう」

    クレーストは、例の大型魔物の角を売った金を取り出した。本来なら自分の酒代に消えるはずだった大金をテーブルに叩きつけ、カミルのために最低限の装備を整えさせた。新品の革鎧に身を包んだカミルは、その無垢な美しさがより一層際立ち、皮肉にも「伝説の英雄」のような風格を漂わせていた。

    翌朝、重い二日酔いと共に、二人はトロポスの城壁の外へと出た。門をくぐり、アスペル山脈を背にして北へと歩き出した瞬間、背後の茂みが大きく揺れた。

    そこから這い出してきたのは、あの「黒い塊」だった。街の喧騒を避けていた異形は、カミルとクレーストの姿を見つけると、嬉しそうに喉を鳴らし、二人の後ろへとピタリとついた。

    「……またお前か。足手まといになるんじゃねぇぞ、毛玉」

    クレーストは毒づきながらも、その表情はどこか晴れやかだった。一人の人間と、一人のハーフ、そして一匹の異形。リナが消えた、あの「聖域」へと続く道。

    「待ってろよ、リナ」

    彼女は今も、あの深淵で始源種のまぐわいに耽っているのか。それとも、跡形もなく「廃棄物」にされたのか。その答え合わせをするための旅が、今、本格的に幕を開けた。


    【連載開始記念・特別価格のご案内】 本編(約1万文字)に加えて、本編では語られない「秘蔵設定資料」を収録した特別連載です。 『継ぐ物語』のリリースを記念して、第3回連載分までは第1回投稿文の有料記事を期間限定の特別価格 150円 で公開いたします(一定期間後、通常価格300円へ改定予定)。

    物語の核心、そして都が隠蔽した「聖域」の真実を、ぜひその目で見届けてください。

    【秘蔵資料】聖域調査団「全滅記録」と、綴られた名の因縁

    今回の有料記事では、本編第10章〜第12章で語られた、クレーストの過去に直結する「第二次・第三次聖域調査」の全滅記録を、都・トロポスの公文書館に眠る秘匿資料の形式で公開します。あわせて、登場人物や地名に込められた「古代語の響き」についても深掘りしていきます。


     
     
    日常を楽しく快適に過ごすための実験note ワクワク×AI×創造×便利×生き方 興味のあることに飛びついて深堀して発信しています。 投稿内容はバラバラですが、興味を持っていただけたら嬉しいです。 これが私と言う人間の一部なのは間違いありません(笑)

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