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短編小説『六月三十一日』 | あるはずのないその日は、死者に会える幻の日だった

    あらすじ
    存在しないはずの、六月三十一日。それは、死者と会える幻の1日。その日、死者と会うことが出来る場所、名前は「繋ぎ屋」。死者に強く会いたいと願う人の前にだけ現れる、幻の店だった。繋ぎ屋に迷い込んだのは、父を亡くしたばかりの息子。それから、娘を亡くして1年が経った母だった。それぞれが抱える後悔。伝えたかった言葉。それはもう、叶わないはずだった。幻の1日が、それぞれの後悔を優しく解いてゆく。死者と会える時間は30分だけ。たった30分の時間に、心を通わせ、止まった時間が動き出す。死者と話し、心に溜めていたものを洗い流して、また前を向いて生きていく。幻の日に巻き起こる、摩訶不思議な感動の物語。

    第一章  すれ違いの父と息子の心の氷

    "六月三十一日を知っていますか?"
    そんな書き込みを見つけたのは、父の葬儀から1ヶ月が経ったある日だった。
    「なんだこれ、都市伝説か?」
    純平は面白半分で、その書き込みを開いた。
    "聞いたことあります。亡くなった人に会えるらしいです。"
    "店みたいな感じで、亡くなった人に合わせてくれる場所があるらしい"
    "亡くなった人に会えるって言うから前に調べてみたけど、会えるのは30分だけらしくて、逆に悲しくなりそうでやめた"
    "昨日までなかったところに、急に古い店があったことがある。名前は繋ぎ屋。たぶんあれが噂のやつだったと思う。"
    亡くなった人に会える店?そんな馬鹿な。そんな店、あるはずがないじゃないか。

    父は、厳格な人だった。というより、昭和の頑固ジジイ気質だった。テストで90点を取って父に見せても、残りの10点は何故取れなかったんだと言ってくる。部活の大会で2位を取っても、優勝を逃した、負けたと言われる。僕は、そんな父が嫌いだった。
    父が死んだとき、僕は何も悲しくなかった。ただ、最期くらい会いに行けばよかったかな、とだけ思った。日頃から父との会話はあまり多くはなかったし、父から、親らしい温かいものを貰った覚えもない。僕が実家を出てからは、顔を合わせることはほとんどなかった。死んでしまって寂しいとか、悲しいとか、そんなふうに思う理由が、何もなかった。

    父の葬儀から1週間が経ったとき、母から、遺品整理を手伝って欲しいと連絡があった。財布とスマホだけをカバンに入れて、古いアパートの扉に鍵を閉めた。じめじめとまとわりつくような暑さの中、駅へと続く古い商店街を歩いた。
     父がいない実家は、とても静かだった。
    「純平も忙しいのに、来てもらっちゃってごめんね。」
    母が、お茶とお菓子をお盆に乗せて運びながら言った。
    「いや、母ちゃんだけじゃ大変だし、俺の親父でもあるんだから、気にしないで。」
    「ありがとね。お父さん、急に悪くなって入院しちゃったから、みんなそのままなのよ。」
    父は癌だった。肺癌から始まり、胃や骨髄など、全身に転移した。助かる見込みが少ないことが分かってからは、緩和ケアに移行し、比較的穏やかに過ごしていた。そこから容態が悪化して、それからはあっという間だった。
    「母ちゃんはさ、なんで親父のこと、最後まで見捨てなかったの?母ちゃんにだってさ、きつく当たること多かったじゃん。あんなクソジジイ、世話なんてしたくなかったでしょ。」
    母は、フフッと笑った。
    「そうね、たしかにあれは、クソジジイね。」
    面白いことを話すみたいに、笑いながらそう言った。
    「でもね、どうしても嫌いになれなかったのよ。」
    「え、どうして?」
    「お父さんだけだったのよ。純平の誕生日に、毎年私にプレゼントをくれるのは。」
    「え?お母さんに?」
    「そうよ。この日は、お前が俺を父親にしてくれた、感謝しなきゃいけない日だって言ってね。」
    あの父がそんなことを?父から見たら僕なんて不出来な息子。父親になれて嬉しいようにも見えないし、母を労う人間にも見えなかった。
    「お父さんはね、口下手なのよ。本当は、とっても家族を大事に思ってる人だったのよ。」
    僕は半信半疑のまま、父の書斎へと向かった。

    父の書斎は、本はとても多いのに、よく片付いてきた。完璧主義だった父らしい。壁一面の本棚には、本やノートがびっしりと詰まっている。これは大仕事になりそうだ。母にとっては父の残したものを捨てるのは辛いだろうが、僕も母も読まない本は捨てる、そう決めて片付けを始めた。
    父の本やノートは、古いものばかりだった。髪が茶色く変色するほど古いものもある。その中に、1冊のノートが目に止まった。タイトルは「純平」。ノートを開くと、僕が産まれた日の日記から始まっていた。
    "1989年10月5日。長男純平誕生。陣痛が始まってから3日も、母さんとふたりで、よく頑張ったな。産まれてきてくれてありがとう。"
    これを、あの父が書いたのか?僕が見てきた父は、書きそうにもない言葉だ。
    "純平が初めてつかまり立ちをした。この前ハイハイが出来るようになったばかりなのに。小さな体で、頑張り屋さんだ。"
    "純平が初めてパパと呼んでくれた。嬉しくて思わず涙が出た。パパは、お前の成長が嬉しいぞ。"
    "今日純平が初めて歩いた。3歩くらいだったが、一生懸命自分の足で歩いた。産まれたときは、ひとりじゃ何も出来なかったのに、お前は凄いな。"
    父は、こんなこと、考える人だったのか。僕のことを愛していたのか。

    ノートは何ページにも渡って書かれている。パラパラとページをめくった。
    "純平がテストで90点を取ってきた。俺に似ないで、頭のいい子だ。純平なら100点だってきっと取れる。そう思って鼓舞しようとしたが、純平は悲しそうな顔をしていた。まず褒めてやればよかった。"
    あの日のことだ。父は、出来が悪いと思っていた訳じゃなかったんだ。僕に、期待していたんだ。
    僕は書かれている最後のページを開けた。
    "純平へ
    俺は、もう長くない。これが、最後のメッセージだ。お前にはキツい言葉をたくさんかけてしまった。純平は頭のいい子だからと、期待をかけすぎてしまった。本当にすまない。嫌われても仕方の無い、どうしようもないバカ親父だったよな。俺はもっと、素直な気持ちをお前に伝えるべきだったんだ。純平、愛してる。お前の父親になれて、本当によかった。幸せだった。お前と過ごした日々は俺の宝物だ。ありがとう。"
    涙がこぼれた。本当に、どうしようもないバカ親父。そんなこと、思ってたならさっさと言えよ。
    父の本音も知らないまま、最期も看取ることもないまま、僕はもう、父に会えない。父を嫌って、避けて、最期すら会いに行かなくて、父のことずっと勘違いしたまま、何も話さなかった。今、もう一度会って話がしたい。父に、会いたい。

    あれから3週間が経った。あの日、あのノートに出会わなければ、僕が父に会いたいなんて思うことはなかった。でも、叶うことならもう一度、父に会いたい。こんな思いを抱えた僕の目の前に、あの書き込みは現れた。
    「死者に会える日なんて、都市伝説の類だろ。」
    そう呟いて、スマホの画面を閉じた。

    6月30日午後11時20分。僕はやっと帰路に着いた。明日までに用意しないといけない資料が膨大で、こんな時間になってしまった。
    最寄り駅の近くの商店街は古びていて、夜中に通るのは少し気味が悪い。シャッターの閉まった店ばかりで、夜は人気が全くない。午後11時を過ぎれば、街灯すら消えてしまう。こんな時間に通るのは嫌だな、と思いながら、僕は電車に揺られた。
    最寄り駅に到着し、僕は電車を降りた。時間が遅いとはいえ、同じ駅で降りる人が誰もいないのは珍しい。僕はひとり、改札を出た。スマホを操作しながら外に出ると、ぼんやりと明るい。不思議に思って顔を上げると、商店街に街灯が灯っている。僕は手元のスマホの画面に目をやった。時刻は0時01分。こんな時間に、この商店街が明るいなんて妙だと思いながらも、駅を出て歩き始めた。

    街灯は、オレンジ色の光で商店街の古い街並みを照らす。人は、1人も歩いていない。街灯がついているのは不思議だが、真っ暗な商店街を歩かなくて済んだのはありがたい。
    商店街を進むと、曲がり角に1軒だけ灯りが思っている店が見えた。0時も過ぎたこんな時間にやってる店なんて、この辺りにあったっけ?商店街にはコンビニは入っていないし、居酒屋もない。たしかあそこは、古びた、営業してるのかしてないのか分からない本屋があったはず。僕は不思議に思って足を早めた。
    「繋ぎ屋」その店名には見覚えがあった。あの書き込みに、その店を書いている人がいた。そんな、まさか本当に?店の前に出してある看板には「ようこそ、六月三十一日へ」の文字。まさか本当に僕は、六月三十一日に来てしまったのか?急いでスマホの画面を確認した。圏外だ。この辺りは電波はそう悪くないはず。となると、本当にないはずのあの日に来てしまったんだ。
    「こんばんは。」
    店の奥から、女性が出てきて言った。70代くらいだろうか。歳はとっているが、背中はしゃんと伸びていて、どこか凛とした印象がある。
    「会いたい人が、いるんですね。ここは、亡くなった人に会いたいと強く願っている人しか、辿り着けないんですよ。」
    「そう、なんですか?」
    自分がそこまで強く願っていたことを、僕は初めて自覚した。
    「さあ、どうぞお入りください。」
    そう言われて、僕は繋ぎ屋に1歩踏み入れた。

    オレンジ色に包まれた、昔ながらのレトロな空間。壁に掛けられた古い柱時計は、規則正しい音を刻んでいる。床は長い年月を感じさせるように、歩く度にキシキシと音を立てる。棚には、色褪せた本、琥珀色のガラスペンとインク瓶、涙の形をしたガラスの温度計。温度計の中には赤や青の玉が水面近くに浮いていて、黄色や緑の玉は水の中に沈んでいた。
    「どうぞ、おかけになってください。」
    肘置きの着いた、古い椅子を引いて女性は言った。
    「あ、ありがとうございます。」
    僕はゆっくりと腰を掛けた。
    「申し遅れました。私、掛橋小夜と申します。」
    小夜は名刺を僕の前に置いた。
    "繋ぎ屋 案内人  掛橋小夜"
    「三上です。三上純平です。」
    「では三上さん、あなたの会いたい人はどなたですか?」
    僕は唾をゴクリと飲んだ。これで父と言えば、父に会えるということなのか。死者に会うなんて、どんな方法で会えるのか。会いたい気持ちと、少し怖いような気持ちが混ざりあって、鼓動が早まるのを感じた。それでも、父に会いたい。
    「父です。三上光太郎と言います。」
    「お父様ですね。」
    小夜は、1枚の白い紙を持ってきて、「三上光太郎」と書いた。
    「お父様の生年月日と亡くなられた日を教えてください。」
    「はい。生年月日は、昭和31年2月16日で、亡くなったのは令和8年5月27日です。」
    小夜はまたサラサラと紙にメモを取った。
    「では、生前お住いだった住所を教えていただけますか?」
    「えっと、東京都多摩市夕灯町2丁目9-1です。」
    聞きとった内容を、小夜は全て紙に書いた。
    「あの、随分と事務的なんですね。なんとなく、こういう所って故人との思い出とか、そういうこと聞いて、それで連れてきてくれるとかだと思ってました。」
    「向こうの世界には、こちらの世界よりもずっと多くの方々が暮らしています。同姓同名の方もいますし、複数の情報をお聞きしないと、正確な方をお連れ出来ないのです。」
    そうか、たしかに生きてる人間より、亡くなった人間の方が遥かに多いよな。日本人だけでも、一体何億人何兆人いるのか、わからない。
    小夜はメモをした紙を半分にきっちり折りたたむと、純平に「繋ぎ屋を利用する方へ」という紙を差し出した。
    「繋ぎ屋を利用するにあたって、承知しておいていただくことがありますので、ご説明しますね。」
    そう言って小夜は、紙に書かれたことを順に読み上げた。
    "一、死者と会える時間は30分までとなります。
    二、死者側が面会を断った場合、申込みいただいても、会うことはできません。
    三、輪廻転生して、もう地上で新たな人格として暮らしている方もいます。生まれ変わってしまっている場合も、お会いできません。
    四、案内人が死者にお声かけさせていただき、承諾した方のみ、繋ぎ屋にお連れします。繋ぎ屋内の、面会室にて、面会していただきます。
    五、死者の方には、仮の肉体を貸与して繋ぎ屋にご案内します。長時間持つ作りではありませんが、触れていただいても問題ありません。
    「以上が繋ぎ屋のルールです。よろしいでしょうか。」
    「はい。大丈夫です。」
    「では、お父様にお声かけして来ますので、こちらでお待ちください。」
    そう言って小夜は、茶色の重そうな両開きのドアに手をかけた。開けた瞬間、昼間のように明るくなり、小夜が扉の向こうに消えると、また夜の闇に戻った。

    純平はひとり、繋ぎ屋の店内で待っていた。先ほど聞いたルールには、死者側が断るケースも書かれていた。父は、会ってくれるだろうか。生前の印象だと、僕に関心なんて無さそうだった父。それとは全く別人格のようなノートを残した父。どれが、本当の父なんだろう。それを確かめるために、ここ繋ぎ屋に入った。来てくれたら、父に聞きたいことが山ほどある。
    待ち時間は、意外と長い。あの世に死者は山ほどいる。探すだけでも、かなり時間はかかるだろう。繋ぎ屋の店内は、一体いつからこの店はあるのだろう、というほど古いものばかりだ。色褪せた茶だんすの上には、黒電話が置かれ、棚の上にはオイルランプやオルゴール、ラジオや地球儀が並んでいる。僕が座っているテーブルの上には、ステンドグラスで花や葉があしらわれた卓上のランプが置かれていた。色んなものがごちゃごちゃと置かれているのに、散らかっているような嫌な印象は持たない。多くの時間が詰め込まれたような、不思議な場所だ。
    店内を眺めていると、扉が開いた。小夜が戻ってきたのだ。
    「三上さん、お待たせしました。お父様は面会室で待っています。面会室へご案内しますね。」

    薄暗い、軋む廊下を進むと、ワイン色の扉の前で小夜は止まった。
    「こちらが面会室です。この扉の先に、お父様はいらっしゃいます。私は先に戻っていますので、ご自身のタイミングで中にお入りください。」
    小夜は純平におじきをして、戻って行った。
    この先に父がいる。鼓動が音として聞こえるくらい、大きくなるのを感じた。「フゥー」と息を吐いて、ドアノブに手をかけた。意を決して、僕は扉を開けた。

    面会室の奥の席、そこに父は座っていた。生きていた頃と、何も変わらない顔だった。父は部屋に入ってきた僕に気づき、ハッとした顔をした。僕は何か話そうとして、でも何も言葉が出てこない。会いたかったはずなのに、何を話せばいいのか分からない。
    「元気、だったか。」
    最初に口を開いたのは父だった。
    「死んだ人間が聞くことじゃないだろ。」
    父は苦笑した。
    「そうだな。」
    違う、そんな言葉じゃなくて、もっと言いたいことがあるのに。沈黙が部屋を埋めつくした。時計の秒針だけが聞こえる。話したいことを、早く話さないと。30分しかないのだから。
    「ノート、見たよ。」
    父は少し驚いたような顔をしてから、平静を装うように表情を戻した。
    「あぁ、あれか。」
    「あんなの残すなら、生きてるうちに言えよ。」
    どうしても、きつい言葉を向けてしまう。
    父はしばらく俯いてから、小さく笑った。
    「言えなかったんだ。」
    「なんで?」
    「恥ずかしかった、って所だろうな。お前に面と向かってあんなこと言ったら、格好悪いだろ。」
    父は照れくさそうに目を逸らしていた。
    「俺にも意地があったしな。」
    「意地なんかと、息子の気持ち、どっちが大事なんだよ。」
    「お前の気持ちだ。今ならそう言える。でもな、俺も父親として幼かったんだ。すまない。」
    父は背中を丸めて、小さくなっていた。その姿は、少なくとも僕が生前見てきた姿ではない。あのノートに書かれた、愛情深く、少し情けない、そんな父の姿だった。

    「親父は、俺が嫌いなんだと思ってた」
    父は首を横に振った。
    「逆だ。期待しすぎていたんだ。だから厳しかった。」
    「それがずっと嫌だった。」
    「知ってる。」
    「ならやめろよ。」
    「やめ方が分からなかった。」
    父は父なりに、きっと葛藤していたんだ。愛の伝え方も、我が子の抱きしめ方も、きっと父は知らなかった。期待ばかりが膨らんで、僕を優秀にすることが、愛かのように思っていたのだろう。
    また、沈黙の時間が流れた。でもさっきまでの沈黙とは、どこか違っていた。大きな氷の、ほんの端っこだけが溶けて、丸くなったような、そんな感じ。
    「俺さ、ひとつだけ聞きたかったことがある。」
    父は頷いた。
    「俺が息子でよかった?」
    「当たり前だ。」
    父は即答した。間も置かず、考えもしなかった
    僕は思わず息を呑んだ。ずっと欲しかった言葉だった。何十年も。たったそれだけの言葉。それだけでよかった。
    「お前ほどのいい子は、世界中どこを探してもいない。いや、いい子じゃなくたってよかった。どんな息子でも、それが純平なら、なんでもよかった。お前がそこにいる。それだけで俺は、ずっと幸せだった。」
    僕の頬を、一筋の涙が流れてハッとした。泣くつもりなんて、なかったのに。父が僕の目の前まで来て、小さくなったごわごわのその手で、僕の頭を撫でた。
    「純平、大きくなったな。」

    父は少し笑って話し始めた。
    「お前が生まれた日な、俺、病院の廊下を三往復したんだ。」
    「え?そんなことしてたのか?」
    「ああ、看護師に邪魔だって怒られた。」
    僕は初めて聞く話だった。
    「そりゃあ、邪魔だろうな。」
    2人は少しだけ笑った。凍りついていたものが、また少し溶ける音がした。
    「緊張してな。頑張るのはお前と母さんなのに。俺は何も出来ないって言うのに、落ち着かなくてな。」
    「意外。親父のキャラじゃないっていうか。」
    「自分でもそう思うよ。でもそれくらい想ってたんだ、お前が生まれる前から、お前のことを。」
    時計を見ると、残り3分になっていた。きっと父も気付いている。でも、僕も父も、口には出さなかった。言ったら終わってしまうような気がした。

    やがて、父が口を開いた。
    「純平」
    「なんだよ。」
    「生きろ。」
    僕は、何も言えなかった。何も知らずに父を嫌って、最期すら会いに行かなかった自分を、あの日からずっと責めていた。
    「後悔してる暇があるなら、生きろ。」
    そう言った父の眼差しは、力強かった。
    「お前はまだ、こっちには来るな。」
    子どもの頃に見てた父よりも、ずっと小さくなった。でも、いつまで経ったもこの人は、ちゃんと親なんだ。
    「行かないよ。親父の年齢なんかよりずっと歳食ってさ、よぼよぼの爺さんになってから行くから。楽しみに待っててよ。」
    父は小さく笑って頷いた。
    「それは楽しみだな。」
    本当はもっと話したい。聞きたいことも山ほどある。怒りも寂しさも全部残っている。でも時間はもうない。
    「親父」
    「ん?」
    「会えて、よかった。」
    父は少し驚いた顔をして、それから静かに笑った。
    「俺もだ。」
    「俺、俺な、何しても認めてくれない親父が嫌いだった。でも、それはきっと、親父に認められたかったからだと思う。そう思うくらいには、俺にとって親父の存在は大きかった。なんか、あんまり上手く言えないけど、でも、親父が父親でよかった。」
    父は目に涙を浮かばせて、でも絶対に零すまいと、上を向いた。
    「ありがとう。それだけで、俺が生きた価値はあったよ。」
    もう、残された時間はもう1分を切っていた。
    「今度会う時はな、30分じゃ足りない話をしよう。今まで出来なかった、長い、長い話をしよう。」
    父は穏やかな表情でそう言った。
    「ああ、そうだな。」
    時間は止まることを知らない。1秒、また1秒と迫ってくる。
    「もう、時間だ。」
    父はそう言って席を立った。白い大きな扉の前に立ち、振り返った。
    「ありがとう。お前が会いたいと言ってくれて嬉しかった。元気でな。」
    「親父も、元気で。」
    父は小さく笑った。
    「俺は死んでるんだぞ。元気じゃねぇよ。」
    そう言うと、父は扉を押して、その向こうに消えていった。もう、面会時間は終わってしまった。でも、今度はちゃんと、別れられた。

    「お疲れさまでした。いかがでしたか?」
    部屋に戻ると、小夜がそう言った。
    「話したいことの半分も話せませんでした。でも、ちゃんと別れることが出来ました。」
    「そうですか。それなら、良かったです。」
    小夜はそう言うと、テーブルの上のゆらゆらと揺れる蝋燭の火に目をやった。
    「30分というこの時間、喧嘩して終わってしまう方も入れば、話したいことを全然話さないうちに終わってしまう方もいます。この時間を活かせたのは、あなた方親子の、本音を話したいという気持ちでしょうね。」
    たしかに、30分という時間は、長いとも、短いともとれる。関係が良くならなければ、30分もただその相手と話すのはとても長く感じるだろう。僕は、父と話した時間を、あっという間だと感じた。それはきっと、良いことなのだろう。
    「ありがとうございました。これでやっと、父の思い出話が出来そうです。」
    小夜はにっこりと笑って頷いた。
    純平が小夜に一礼して繋ぎ屋を出ると、時刻は1時を回っていた。とても長い時間を過ごしたような気になっていたが、1時間ほどの出来事だったことに驚いた。まだ街灯が灯ったままの、古びた商店街。その光に照らされながら、純平は帰路に着いた。

    小夜はひとり、繋ぎ屋の店内で古い椅子に座った。
    「本日の、1人目のお客さま。」
    そう言うと、蝋燭の火をふぅっと吹き消した。
    「さあ、今日は長いわよ。お付き合い、よろしく頼むわね。」
    金魚鉢の中を泳ぐ、真っ赤な金魚に、小夜はそう話しかけた。

    ー5年後ー
    「パパおかえり!」
    「ただいま颯太〜!」
    純平は、3歳の息子颯太を全力で抱きしめた。
    「あのね!あのね!こっち来て!」
    そう言って颯太は、純平の手を引っ張ってリビングに連れていった。リビングのテーブルには、颯太が書いた絵が置かれていた。
    「これ、パパだよ!幼稚園で描いたの!」
    颯太はキラキラして目で純平に言った。
    「おぉ!すごいな〜!すごく上手だ。颯太は天才だな!」
    純平はそう言うと、颯太の髪の毛をぐじゃぐじゃと撫でた。
    「パパはほんとに颯太に甘々だね〜」
    純平の妻の由梨が言った。
    「父親なんてな、うざいくらい甘くていいんだよ。思ってる愛情の120%伝えるくらいでいいんだ。な〜?そうだよな〜?」
    そう言って颯太を抱き上げた。
    「なにそれ〜?」
    颯太はよく分からないというふうにしながらも、楽しそうに笑った。

    僕が欲しかったもの。それを僕は、颯太に全てあげたい。全て伝えたい。どれだけ愛しているか。どれだけ大切なのか。どれだけ心配しているか。どれだけ幸せを願っているのか。その全てを、僕は颯太に伝えていく。うざい父親かもしれない。それでもいいんだ。愛が伝わりさえすれば。そしていつか、よぼよぼのおじいさんになって、僕が向こうの世界に行った時、子どもに戻って父に話すんだ。僕、頑張ったんだよ、いいパパだったかは分からないけど、精一杯我が子を、家族を、愛しぬいたよと。きっとあのごわごわの手で、頭を撫でてくれるから。
    窓の外に見える星空に向かって呟いた。
    「親父、ちゃんと見てろよな。」
    夜空の星がひとつ、キラリと光った、そんな気がした。


    第2章  娘を亡くした母と、病と闘った娘

    抜け殻だった。どうやって生きたらいいか、分からなかった。娘の陽菜を亡くして1年。苦しい気持ちは、ちっとも薄くなんてならない。それでも、なんともないみたいな顔して、仕事に行かないといけない。大丈夫?と聞いてくる友達に、大丈夫だよと言わないといけない。そんな矛盾した日々に、加藤里香は疲れ切っていた。

    陽菜は、小児がんだった。初めて発症したのは3歳の頃。懸命な治療の末、陽菜は回復し、日常を取り戻した。もう大丈夫。これからは陽菜は元気に暮らせる、そう思っていた。再発したのは、陽菜が小学校に入ってすぐ、6歳の時だった。その時にはもう、転移も見つかっていた。完治は望めない、医者からもはっきりとそう言われた。それでも、少しでも長く、陽菜に生きて欲しかった。今思えばあれは、陽菜のためではなかった。私が、陽菜と離れたくなかったからだった。それから、抗がん剤治療が始まった。髪の毛は抜け落ち、激しい吐き気が陽菜を襲った。私はただ背中をさすり、苦しいと泣く我が子を、抱きしめることしか出来なかった。まだ6歳の女の子。本当なら今ごろ、小学校で新しい友達が出来て、楽しく学校に通っていたはず。それなのに目の前の陽菜は、それとはかけ離れていた。そんな思いを、させてしまっていた。それでも陽菜は笑ってくれた。本当はずっと辛いはずなのに、私に笑いかけてくれた。それなのに私は、生きていて欲しい、その願いを陽菜に押し付けた。
    7歳の誕生日は、病院のベットの上でお祝いをした。精一杯飾り付けをして、陽菜も可愛い服を来て、プレゼントを送った。学校の友達からも、手紙がたくさん届いた。陽菜が学校に通えたのは、たったの3ヶ月。それでもこんなに友達がいる。それは私にとって、救いでもあり、罪悪感でもあった。

    病は陽菜の身体を、どんどん蝕んでいった。学校になど到底通えないまま、陽菜は2年生になった。もうその頃の陽菜は、自力では歩けなかった。
    「ママ、ひな、おうちに帰りたい。」
    ある日陽菜はそう言い出した。でも、おうちに帰るということは、別れの時を早めてしまう。
    「そうだよね、おうち帰りたいよね。」
    そう返したものの、私は治療をやめることは出来なかった。陽菜に死んで欲しくない。その気持ちに埋め尽くされていた。
    8歳のお誕生日を迎えたわずか4日後、陽菜は息を引き取った。病院のベットの上で、私と夫、それから駆けつけた両親や義両親に見守られて、陽菜は旅立った。
    私は激しく後悔した。こんなことになるなら、おうちに帰らせてあげたらよかった。どんなに先延ばしにしても、諦めたくなくても、陽菜はずっとは生きていられないと、分かっていたはずなのに。陽菜の最後の願いすら、私は叶えてあげられなかった。生かすことにこだわって、生きる時間を大切にしてあげられなかった。少しお別れは早まっても、おうちに帰った方が、陽菜は幸せだったかもしれないのに。
    「陽菜、ごめん、ごめんね。」
    まだ温かいその頬を撫でながら言った。
    「陽菜、よく、頑張ったね。辛かったよね。ごめんね。本当に、ごめん。」
    陽菜は、穏やなか表情をしていた。もう、苦しまなくていい。それだけが、せめてもの救いだった。

    陽菜が亡くなって1ヶ月。陽菜の部屋は、何も片付けられていなかった。あの子がひょっこり帰ってくるような気がして。その時、自分の部屋がなかったら困るから。いつでも、帰って来られるように。そんな気持ちで、何も手をつけられなかった。私は陽菜の勉強机の椅子に座って、机に向かい合ってみた。陽菜は、普通の小学生だった3ヶ月、こうやって毎日ここに座っていたんだよな。部屋を見回すと、陽菜のバックが目に入った。病院から持って帰ってきたバック。洗濯物だけを出して、そのままにしていた。
    「いい加減、バックくらい片付けなきゃだよね。」
    そう呟いて、バックを開けた。
    筆箱、ノート、お風呂用のシャンプー類、帽子、色んなものを取り出して、片付け始めた。入院中も、調子のいい日には書いていたノート。陽菜は何を書いていたんだろう。ノートをめくると、絵が描かれていた。病院の窓から見えた桜、雨上がりの虹、私の似顔絵、ランドセルを背負った陽菜の絵、お友達と遊んでいる絵。これは陽菜の、見たものと見たかったもの。陽菜は、普通の子でいたかったんだよな。ノートの最後のページをめくると、弱々しい文字で、一言だけ書かれていた。
    "ママ、ごめんね"
    涙が溢れ出した。幼いその心の中に、どんな気持ちを抱いていたんだろう。自分も苦しいのに、私のことまで考えてくれていたんだ。それなのに私は、陽菜に辛い思いをさせ続けた。謝らなきゃいけないのは、私の方なのに。

    陽菜の初めての命日を過ぎた頃、私はまだ不安定で夜も眠れない日々を過ごしていた。時刻は深夜2時。でも、布団に入っても眠れない。窓の外に光る夜の街を見ながらふと思った。
    「散歩にでも出てみようかな。」
    小さな肩掛けのバックに、財布とスマホだけを入れて、私は夜の街を歩き始めた。
    しばらく歩くと、古い商店街がある。シャッターが閉まった店ばかりが並ぶ商店街。古い街並みを照らすかのように、オレンジ色の街灯が灯っていた。この商店街は、普通なら11時には消灯する。でも里香は、それを知らなかった。商店街を進むと、曲がり角にひとつだけ明るい店がある。こんな時間にやってるような店、この辺りにあったかな。そう思いながら駆け寄った。
    "繋ぎ屋"
    店の看板にはそう書かれていた。店の前に置いてある看板を見た。
    "ようこそ、六月三十一日へ"
    六月三十一日?どういうこと?今日は、7月1日じゃないの?
    「こんばんは。」
    店の奥から小夜が出てきて言った。里香は驚いて小さく悲鳴を上げた。
    「怖がらなくても大丈夫ですよ。ここは繋ぎ屋。六月三十一日にだけ現れる、死者と会える場所です。」
    里香には意味が分からなかった。死者と会える場所?六月三十一日?
    「会いたい人がいるんでしょう?どうぞ、お入りになってください。」
    分からないけど、でも、もしかしたら陽菜に会えるということなのか?不安と期待を胸に、里香は繋ぎ屋に1歩踏み入れた。

    温かい色の光に包まれた、昔ながらの店内。古いものばかりが並ぶ棚。店内に入ると、ここで死者と会えるということが、不思議としっくりきた。本当に、陽菜に会えるのかもしれない。
    「どうぞ、おかけください。」
    小夜が古い椅子を引いた。
    「あ、ありがとうございます。」
    そう言って里香は、椅子に腰掛けた。
    「私、掛橋小夜と申します。」
    小夜は里香に名刺を差し出した。里香はそれを受け取ってから名乗った。
    「加藤里香です。」
    「では加藤さん、あなたの会いたい人は誰ですか?」
    心臓の鼓動が早まった。陽菜に、会えるの?本当か嘘か分からないけど、かけてみても悪くないだろう。里香は意を決して口を開いた。
    「娘です。加藤陽菜です。」
    「加藤陽菜さんですね。」
    小夜はサラサラと紙にメモをとった。
    「娘さんの生年月日と、亡くなった日を教えてください。」
    「生年月日は、2017年9月10日で、亡くなったのは、2025年9月14日です。」
    小夜はまたサラサラとメモとり、そして少し止まった。まだ8歳という幼さに、小夜は心が痛くなった。でも、何も言葉は発しなかった。
    「では、生前お住いだった住所を教えてください。」
    「はい。東京都あきる野市花霞3-14-8です。」
    小夜はメモを取ってから、チラリと里香を見た。ひどく憔悴し、1人目のお客様のように、やり取りが事務的だとか、気にする余裕もなさそうだ。
    「ごめんなさいね。質問尽くしで。向こうの世界には沢山の人が住んでいるから。情報が多くないと探せないのよ。」
    「いえ、全然、大丈夫です。」
    里香は力なく答えた。
    「繋ぎ屋を利用していただく方に、承知しておいて欲しいことがあります。」
    そう言って小夜は、「繋ぎ屋を利用する方へ」という紙を里香の前に置き、話し始めた。
    "一、死者と会える時間は30分までとなります。
    二、死者側が面会を断った場合、申込みいただいても、会うことはできません。
    三、輪廻転生して、もう地上で新たな人格として暮らしている方もいます。生まれ変わってしまっている場合も、お会いできません。
    四、案内人が死者にお声かけさせていただき、承諾した方のみ、繋ぎ屋にお連れします。繋ぎ屋内の、面会室にて、面会していただきます。
    五、死者の方には、仮の肉体を貸与して繋ぎ屋にご案内します。長時間持つ作りではありませんが、触れていただいても問題ありません。
    「以上が繋ぎ屋のルールです。よろしいでしょうか。」
    「はい。大丈夫です。」
    「では、娘さんを探してお声かけしてきますので、こちらでお待ちください。」
    小夜はそう言うと、重そうな両開きの扉を開けた。一瞬昼間のように明るくなって、すぐにまた夜闇に戻った。

    小夜の帰りを待つ間、里香は出されていたお茶を啜った。香ばしい香りが、口の中に広がった。少し時間が経ってしまったが、猫舌の里香にはちょうどいい温かさだった。たぶん、この香りはほうじ茶だろう。懐かしいようなその香りが、ひとり待つ里香の不安な心に、そっと寄り添ってくれる気がした。店内は、レトロというか古いというか、アンティークというか使い古されたというか、そんな雰囲気だった。
    20分ほど待っただろうか、重そうな扉が開き、小夜が戻ってきた。里香は期待を胸に立ち上がったが、小夜は神妙な面持ちをしている。
    「加藤さん、陽菜ちゃん、見つかりませんでした。」
    「え、そんな。」
    見つからなかった、ということは、陽菜はもう生まれ変わってしまったのだろうか。他の誰かの子どもになってしまったのだろうか。
    「陽菜はもう、生まれ変わってしまったということですか?」
    「いや、亡くなった日から今日までの、輪廻転生リストを確認しました。しかし、そこに陽菜ちゃんの名前はありませんでした。」
    「え?生まれ変わっていないのに、そちらの世界にいないって、どういうことですか?」
    「可能性の話なのですが、教えていただいた住所より前に、住んでいたお家はありますか?もしかしたら陽菜ちゃんは、そこにいるのかもしれないです。」
    たしかに、一軒家に引っ越す前に住んでいた家があった。2DKの、家族で住むには狭かったアパート。あの頃は、都心にアクセスが良い場所に暮らしていたが、陽菜が病気になってから、東京の中でも緑が多い場所に移り住んだ。
    「そちらの住所を、教えていただけますか?」
    「はい。東京都世田谷区西沢3丁目18-13 コーポ音羽202です。」
    小夜は住所をメモして、里香の方を向いた。
    「もう一度、陽菜ちゃんを探してきます。もう少し待っていてくださいね。」
    そう言うと小夜は、再び重そうな扉を開けて、その向こうに消えていった。

    陽菜は、ちゃんと見つかるだろうか。そもそも見つかったとしても、陽菜は私に会ってくれるだろうか。陽菜の願いも聞かず、最後まで苦しい思いをさせたママのこと、恨んではいないだろうか。陽菜が私を恨んでいたとしても、それでも会いたい。会って謝りたい。どうか、陽菜が見つかりますように。その一心で、里香は小夜の帰りを待ち続けた。

    さらに20分程が経ったとき、ようやく扉が開いた。小夜が部屋に戻ってきて、里香に語りかけた。
    「陽菜ちゃん、見つかりましたよ。面会室にいます。ご案内しますね。」
    陽菜が見つかった安堵感と、本当に陽菜に会える緊張感が両方押し寄せた。ずっと会いたかったのに、いざ会えるとなると、途端に緊張してきた。陽菜は、どんな表情をしているだろう。私のことを、どう思っているだろう。
    軋む廊下を進んでいた小夜の足が、ワイン色の扉の前で止まった。
    「こちらが、面会室です。陽菜ちゃんはこの中にいます。私は部屋に戻っておりますので、ご自身のタイミングで、中にお入りください。」
    小夜は里香に一礼して、廊下を引き返していった。
    陽菜が、この中にいる。里香は深く深呼吸をすると、扉を開けた。

    黒く長い綺麗な髪。血色の良い顔色。しっかりと地面に足をつき、元気そのものの姿。
    「陽菜...」
    陽菜も里香に気づいた。
    「ママ!」
    陽菜は走ってきて里香の胸に飛び込んだ。
    「ママ、会いたかった。」
    「ママも、陽菜に会いたかったよ。」
    里香の頬には涙が流れていた。やがて里香は陽菜の体に触り尋ねた。
    「もう、痛くないの?苦しくないの?」
    陽菜はにっこりと笑った。
    「うん!もう痛くないし、苦しくないよ。陽菜ね、かけっこ速いんだよ!」
    そう言うと陽菜は、面会室の机の周りを1周して走って見せた。その姿は、生きていた頃とは全然違う、元気な姿だった。
    「陽菜が元気に過ごしてるなら、ママも嬉しいよ。」
    半分嘘だ。私のそばで、元気に過ごしていて欲しかった。でも、苦しみから解放されたことには、安堵していた。

    「陽菜、本当にごめんね。治療、苦しかったよね。」
    里香は陽菜の手に触れながら、謝った。
    「あんなに点滴の針を刺して、陽菜のお気に入りの長い髪の毛も抜けちゃって、痛い思い、たくさんして。ママが、陽菜と長く一緒にいたいって、長く生かそうとしなければ、もう少し楽だったはずなのに。ごめん。本当にごめんね。」
    陽菜は大きく首を振った。
    「そんなことないよ。陽菜ね、絶対治す!って思ってたんだ。絶対治して、またパパとママと3人で暮らすんだって。学校にも通って、友達と遊ぶんだって。だからね、あの治療は、ママだけがやりたいって思ってたんじゃないよ。陽菜も、頑張ろうって思ってたよ。」
    里香は涙を目に浮かべたまま、驚いた表情をした。
    「え、でも陽菜、もう帰りたいって言ってたでしょ?」
    「うん、でもね、陽菜が帰りたかったのは、前のおうち。狭くて、自分の部屋とかなくて、パパとママと3人で並んで寝てた、あのおうち。」
    里香には意味が分からなかった。一軒家で、豪邸ではないけれどアパートよりは遥かに広い今の家より、アパートの家に帰りたいなんて、どういうことなのか。
    「なんで、前のおうちがよかったの?」
    「だって、あそこにいた頃が1番楽しかったんだもん。ママと一緒にご飯食べて、幼稚園までママとふたりで歩いて、幼稚園でたくさん遊んで、おうち帰ったらママがおやつ作ってくれてて。陽菜ね、あの時間が大好きだった。」
    そうか、陽菜は、普通の子どもでいられたあの頃に帰りたかったんだ。
    「でも、もう帰りたいって、治療をやめたかったんじゃないの?」
    「治療をやめたい、というか、怖かったの。子どもでもね、わかるんだよ、もうすぐ死ぬんだってこと。きっともう、ダメなんだろうなって。死んだらどうなるんだろう。お空の上には、ママもパパもいないのに、陽菜、どうしたらいいんだろうって。それでね、昔のおうちに帰りたくなったの。楽しかった頃に、帰りたくなったの。」
    里香は、陽菜が死を悟っていたなんて、全然気づかなかった。こんなに幼いのに、死を悟って、恐怖と戦っていたんだ。それならもっと、もっとたくさん抱きしめてあげたらよかった。大丈夫だよ、ママはずっと陽菜のそばにいるよって。たとえ、遠く離れても。
    里香は強く陽菜を抱きしめた。
    「ママも、怖かった。陽菜がいなくなっちゃうのが、すごく、すごく怖かった。でもね陽菜、どんなに離れても、ママはずっと陽菜のママだから。陽菜はずっとママの娘だから。大丈夫。それは変わらないよ。」
    2人は泣きながら、顔を見合せて笑った。

    「ママ、あのね。」
    陽菜が目に涙をたくさん浮かべて口を開いた。
    「ん?どうしたの?」
    「ママ、先に死んじゃってごめんね。」
    目に溜まってきた涙が、こぼれ落ちた。
    「ママは、たくさん愛してくれたのに、育ててくれたのに、それなのに、陽菜は何も返せなくて、こんなに早く死んじゃって、ごめんね。」
    里香はたまらず陽菜を抱きしめた。
    「そんなことない!陽菜はね、ママにたくさん、ほんとにたくさん、幸せをくれたの。陽菜が笑ってくれたら、ママも嬉しい気持ちになった。陽菜が、ごはんを美味しいって言ってくれたら、作ってよかった〜って思った。陽菜が元気に遊んでたら、ママまで楽しい気持ちになった。陽菜の寝顔を見たら、あったかい気持ちになった。陽菜がくれたものは、こんなにあるの。数え切れないくらいあるの。だからね、陽菜はきっと、周りに幸せをあげすぎちゃっただけなんだよ。だからちょっと、お別れが早くなっちゃっただけ。陽菜は、なんにも悪くないの。わかった?」
    陽菜は、涙でぐちゃぐちゃな顔を上げて、頷いた。2人の「ごめんね」が、優しく夜に溶けていった。

    面会室の壁際の棚に、陽菜は折り紙と色鉛筆を見つけた。陽菜はそれらをテーブルの上に持ってきて、折り紙を裏返した。肌色、黒、赤、黄色、色々な色を使って、絵を書いた。
    「できた!」
    陽菜が里香に、出来上がった絵を渡した。描かれていたのは、里香と陽菜が手を繋いで笑っている絵。里香は涙を浮かべて笑った。
    「とっても上手。」
    「これ、ママにあげる。」
    「ママがもらっていいの?」
    「うん、陽菜はね、ずっとは持っていられないから。ママが持ってて。陽菜とママがずっと親子だって証。」
    陽菜はそう言って、里香の手に絵を握らせた。
    「ありがとう。大事にするね。」
    里香は綺麗に折りたたんで、カバンの中にしまった。

    気づくと、残りの時間はもうわずかになっていた。
    「陽菜の部屋、今でもそのままとってあるの。だからね、いつでも、帰ってきていいんだからね。」
    里香は陽菜に言った。
    「うん、陽菜決めてるんだ。生まれ変っても、絶対、またママの子どもになるんだって。」
    里香は嬉しそうににっこり笑った。
    「またいつか、絶対に会おうね。」
    陽菜は力強く里香に言った。
    「うん、きっとまたいつか。」
    「ママ、元気でね。」
    「陽菜も、元気でね。」
    白い扉の前まで里香も付き添って、そっと手を離した。
    「陽菜、ずっと大好きだよ。」
    「陽菜も、ずっとママ大好きだよ。」
    陽菜はにっこりと笑って、扉の向こうに消えていった。里香はその場で泣き崩れた。でも、今までの気持ちとは違う。この時間が終わってしまった、我が子とまた離れてしまった、その寂しさからだった。後悔の気持ちは、綺麗に洗い流されていた。

    部屋に戻ると、小夜が椅子から立ち上がって里香に声をかけた。
    「お疲れさまでした。いかがでしたか?」
    「ちゃんと、思っていたことを話せました。娘と別れるのは辛いけど、でも、後悔はありません。」
    小夜の目に映る里香は、店に来た頃の顔つきとは全く違っていた。
    「そうですか。それなら、よかったです。」
    「陽菜のこと、絶対忘れないけど、でも、これで前が向けそうです。ありがとうございました。」
    「陽菜ちゃん、ママが会いたがってると伝えたとき、とっても喜んだんですよ。早くママに会うんだって、私を置いて走って行ってしまうくらいでした。」
    「そうだったんですね。」
    里香は、そんなに陽菜が喜んでくれていたんだと、頬をほころばせた。
    「いいお母さんだったんですね。」
    小夜はにっこりと笑いながら言った。
    「いえ、陽菜が、いい娘だったんです。」
    「素敵な母娘ですね。」
    小夜はそう言って、笑って小さく頷いた。
    里香は小夜に一礼して、繋ぎ屋をあとにした。時刻は午前4時ちょうど。夏至を過ぎたばかりの空は、山際が薄っすら白み始めていた。もうすぐ朝が来る。昨日までとは全く違う朝が。夜と朝が混じり合った空気の中、まだオレンジ色に照らされる商店街を、里香はひとり、歩いていった。

    里香を見送ると、小夜はまた古い椅子に腰かけた。
    「本日の、2人目のお客さま。」
    小夜は、テーブルの上にあった蝋燭の火をふぅーっと吹き消した。
    「もうすぐ、夜が明けますね。」
    金魚鉢の中を泳ぐ金魚に、小夜は話しかけた。

    ー10年後ー
    陽菜と再会したあの日から2年経った頃、里香は第2子を出産した。元気な女の子。名前は陽茉莉。陽菜とは11歳離れた妹だ。陽茉莉は、今年8歳になった。陽菜と同じ年齢だ。
    里香は朝ごはんに食べる玉子焼きを焼いていた。香ばしい香りが家中に広がる。隣の鍋では、味噌汁が火にかけてある。
    「おはよ〜。」
    陽茉莉が眠そうに目を擦りながら、階段を降りてきた。
    「おはよう、陽茉莉。ひとりで起きられてえらかったね。」
    「ひまもう2年生だよ?それくらい余裕だって。」
    陽茉莉は得意気に言った。そのまま洗面所に歩いて行って、水の音が聞こえ始めた。里香は出来たての玉子焼きを切って、3つのお皿に取り分けた。炊き上がったご飯を混ぜて、ご飯と味噌汁も取り分けて行く。それらをテーブルの上に並べ始めた頃、陽茉莉が洗面所から帰ってきた。食卓の椅子に座り、みんなが揃うのをテレビを見ながら待っていた。里香も支度を終えて座ったころ、里香の夫の慎太郎がトイレから出てきた。
    「パパ遅い!ひまもうお腹ぺこぺこ!」
    「ごめんって〜。」
    慎太郎は手を洗ってから、小走りで食卓に向かってきて椅子に座った。
    「いただきます。」
    3人揃って言うと、朝ごはんを食べ始めた。
    「今日はお義母さんのお家に行ってくるんだっけ?」
    慎太郎が里香と陽茉莉に尋ねた。
    「そう!ばあばの家の方は都会だから楽しみ〜。」
    陽茉莉はワクワクした様子で答えた。
    「都会って、お家の周りは住宅街じゃない。」
    「駅の周りとかめっちゃ都会だもん!少なくともこの辺よりもは。」
    陽茉莉は楽しみでしょうがないという様子だった。

    電車を乗り換えて、世田谷区の里香の実家に向かった。以前、陽菜が小さい頃に住んでいたアパートのほど近くに、里香の実家はある。世田谷区は都会というよりも、人が住む街という雰囲気だが、陽茉莉には都会に見えるらしい。小田急線を降り、10分程歩くと、里香の実家に到着した。
    「ばあば〜!来たよ〜!」
    玄関を開けて陽茉莉が元気に呼びかけた。
    「いらっしゃい。ひまちゃん、またお姉さんになったんじゃない?」
    里香の母の由紀子が出迎えて言った。
    「えへへ、そう?まあもうひま2年生だし、1年生のお世話だって出来ちゃうからね。」
    陽茉莉は得意げに笑った。
    「ひまちゃんすごいねぇ。さあ、上がって。」
    由紀子にそう言われ、里香と陽茉莉は靴を脱いで家に上がった。木造家屋の、古い家の匂いがする。家の中は、里香が子どもの頃から、全然変わらない。
    「お昼、冷やし中華でいいかしら?もちろん、ひまちゃんの好きな、トッピングビュッフェにしましょ。」
    「わーい!トッピングビュッフェだ!」
    トッピングビュッフェとは、陽茉莉が命名したものだ。冷やし中華を麺と汁だけの状態で食卓に並べて、あとは自分の好きな具材を好きなだけ盛り付けて食べる。陽茉莉はそうやって食べる冷やし中華が好きなのだ。
    由紀子は、喜ぶ陽茉莉の顔を眺めて、ニコニコと嬉しそうに笑った。
    「お昼ご飯を食べたら、少しお散歩にでも行く?今日はお天気もいいし。」
    由紀子がそう提案した。
    「そうだね。最近はこの辺りを歩くこともなかったし、いいね。」
    「いいね!お散歩行こう!」
    陽茉莉も楽しそうに笑って言った。
    時刻は12時を回り、由紀子は冷やし中華の麺と汁が入った皿を3つと、トッピングをたくさん盛り付けた大きな皿を、食卓に並べた。3人は食卓に付き、いただきますと声を合わせた。陽茉莉は自分の麺の上に、ハムと錦糸卵ばかり盛り付けていく。
    「ちょっと陽茉莉、きゅうりとかトマトも食べなさい。」
    「えー、今日くらいいいじゃん。ね〜、ばあば。」
    陽茉莉のずるいところ。困るとばあばに話を振るのだ。
    「え?まあ、いいんじゃない?たまのことだし。」
    里香は呆れた顔をしながらも、楽しそうに食べる陽茉莉を見ていた。陽菜も、再発する前はハムと錦糸卵ばっかり食べて、よく私に怒られてたな。やっぱり姉妹、似てるな。陽茉莉の姿を見ながら、里香はそんな風に考えていた。
    昼食を食べ終え、それぞれお皿をシンクに運んだ。由紀子は皿を洗い、里香は残った食材を別のお皿に移し、ラップをかけて冷蔵庫にしまった。
    「お昼も終わったし、お散歩に出かけよっか。」
    由紀子がそう言い、3人は最低限の荷物を持って、靴を履いた。

    実家の周りを散歩するなんて、いつぶりだろう。陽茉莉がやっと上手に歩けるようになった頃にしたきりかもしれない。家の裏の道を進んで、右に曲がってまた少し進んだ時、陽茉莉が辺りを見渡し始めた。
    「陽茉莉?どうしたの?」
    「ひま、ここ知ってる。」
    「え?まあ、通ったこと無くはないけど、陽茉莉はたぶん覚えてないくらい小さかったよ?」
    前にここを散歩したのは、陽茉莉が歩き始めた1歳の頃。恐らくそれ以来、この道は使っていない。
    「ううん、そんな小さくなかったよ。」
    陽茉莉は不思議そうに、キョロキョロと周りを見渡している。すると突然、思いついたかのように里香の手を取った。
    「こっちだ!ママ、こっち!」
    「え?待って!」
    里香と由紀子は、突然走り出した陽茉莉に戸惑いながら、その後を追いかけた。戸惑う2人なんてお構いなしに、陽茉莉は住宅街の間をどんどん進んで行く。やがてひとつのアパートの前で立ち止まった。
    "コーポ音羽"
    「ひま、ここに住んでた。」
    「え?」
    ここは、陽茉莉が生まれるよりずっと前、陽菜が幼稚園に通っていた頃に住んでいたアパート。陽茉莉には、ここに住んでいたなんて、話したことがない。
    「ひまここで、ママとパパと3人で住んでた。」
    「え?あのね、ここはね、陽茉莉が生まれる前、パパとママとねえねで住んでいたおうちなの。あそこの、右から2番目のお部屋。」
    「そう!あのお部屋!ねえねと住んでた?」
    陽茉莉は不思議そうな顔をして考え込んでいた。
    「あのお部屋でね、パパとママと3人で並んで寝てね、ママと幼稚園まで歩いて、帰ってきたらママがおやつ作ってくれてて、あの時間が大好きだったの。」
    里香は、全身に鳥肌が立つのを感じた。その言葉、それは、あの夜の陽菜の言葉。もしかして、陽茉莉は...。
    「陽菜?」
    里香は今にも涙が溢れそうな目で、そう小さく呟いた。
    「ひな?そう、そうだ、ひま、ここにいた頃、陽菜って呼ばれてた。陽菜、ご飯だよ。陽菜、幼稚園行こう。陽菜、お風呂入るよ。陽菜、ねんねしよう。ずっと、毎日、陽菜ってママ言ってた。」
    里香は思わず陽茉莉を抱きしめた。陽菜は、帰ってきてくれていたんだ。8年も前に、私の元に帰ってきてくれてたんだ。
    「ママ?」
    「ありがとう。帰ってきてくれて、ありがとう。おかえり。」
    里香は涙を流しながら陽茉莉に言った。陽茉莉は、全てを思い出したわけではない。だから陽茉莉には、その言葉の意味はよく分からなかった。ただ、遠い日の夜、同じように泣きながらママに抱きしめられたことがあったような、そんな感覚だけがした。

    陽茉莉は、あの日に語った以上に思い出すことはなかった。死んでしまって生まれ変わってきたんだとか、決定的な言葉を発することはなかった。でもあれはたしかに、陽菜しか知らないことだった。陽茉莉でもあり、陽菜でもある。そんな特別な娘が、今は手の届くところにいる。病気ひとつなく、元気に笑っている。いつでも、抱きしめられる。これがすごいことなんだって、教えてくれた陽菜。帰ってきて、目の前で笑ってくれる陽茉莉。その2人とも抱きしめて、私は生きて行く。
    この春、陽茉莉は3年生になった。ここから先は、陽菜は知らなかった未来。
    「ママ!こっち綺麗だよ!」
    満開の桜の下、陽茉莉が呼んでいる。里香は陽茉莉の方へ、走って行った。走り出したその空の上、そこにはもう、陽菜はいない。桜の花びらだけが、ひらひらと2人を包んでいた。

     
     

    まる

     
     
    誰も見つけなければ消えてしまうような、そんな物語を描きます。 小説、エッセイを投稿していきます。

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