
サラリーマン35年間の凸凹人生短編(本音録) 〜外資系・日系で生き抜いた現実と、自由なセカンドライフへの道
今年、65歳になった。
25歳まで、私は今で言う「就活」というものをしたことがなかった。
一番働いていた時期は、朝5時に吉祥寺のアパートを出て、6時から恵比寿の弁当屋で8時まで働き、9時から浜松町の航空系の会社で18時まで働き、18時30分からは六本木のロアビルでエレベーターボーイのアルバイトを21時30分までする。
そんな三重生活を続けていた。
エレベーターの扉を開け閉めしながら、スーツ姿の大人たちを見て「自分はいつまでこうしているんだろう」と、ぼんやり思っていたのを覚えている。
就職に抵抗があった。
今ならWEBビジネスにでも進んでいたと思うが、当時はスマホもなく、家にパソコンもない時代だ。
それでも25歳になったとき、さすがに将来への不安を感じ始めた。
周りの同級生たちは、もう立派な社会人になっている頃だった。
「そろそろきちんと就職しなければ」。
中途採用(今で言うキャリア採用)で、外資系の航空関連企業に営業職として入社した。
日系企業に採用される経歴も実力もなく、当時はまだ中途採用を実施している企業もそれほど多くなかった時代だ。
今から考えればよく入社できたと思う。
契約で1年ほど働いていた航空関連の経験を、面接でしゃべりまくったのが良かったのかもしれない。
異業種から集まったベンチャー企業で、学生サークルの延長のような会社だった。
今では日本だけで社員3,000人の大企業に成長している。
外資系25年 ―― 貧乏な20代からトップセールスマンへ
当時、赤羽駅徒歩10分の6畳一間、トイレ付き・風呂なし、銭湯まで徒歩3分、家賃27,000円。
今、こんなアパートを探すのは難しいだろう。
まさに「貧乏」だった。
インセンティブも月5〜10万円程度のしょぼいもので、そのくせ毎日仕事帰りに神田・有楽町・銀座の居酒屋をはしごし、そのままカラオケ。
給料日明けは六本木に繰り出し、終電かタクシーで帰宅。
給与の大半が飲み代に消えていた。
銭湯の閉店0時に間に合わないこともよくあり、そんな時は台所でお湯を沸かして体を拭いた。
「外資系かっ!」と自分で突っ込みたくなるぐらい貧乏で、というより単に飲みすぎだった。
日曜日は昼過ぎまで、時には夕方まで寝ていた。
独身の一人暮らしで、誰とも会話しない日もざらだった。
夕方コンビニに夕食を買いに行き、店員と交わす一言二言が、その日唯一の会話ということもあった。
「わっ、今日初めての会話だ」と苦笑いした記憶がある。
それでも翌日、会社に行くのが楽しみだった。
学生サークルの延長のような職場は、それほど窮屈ではなかったのだ。
それでも仕事は順調だった。
会社は右肩上がり、私も営業職で毎年予算を達成し、気がつくとトップセールスマンになっていた。
30歳でスーパーバイザー(係長)に昇進した頃、飲み会で知り合った今の妻と付き合い始め、32歳で結婚した。
34歳でマネージャー(課長)に昇進しマンションを購入。
子供が2人生まれ、週末はショッピングモールやファミレス、海外旅行もハワイやグアムなど子供連れに人気の場所が中心になった。
38歳でエリアマネージャー(統括課長)、40歳で地区本部長。
年収も約1,500万円まで増えていた。
ここからが大変だった。
外資は40歳を過ぎると評価が急に厳しくなる。
予算達成は必須で、2年未達成なら降格か解雇もあり得る。
「出る釘は打たれる」――これは日系企業以上に厳しいかもしれない。
周りでは、部長職から最終的に一般社員まで降格していった同僚もいた。
気力・体力ともに厳しくなり、48歳頃から転職を意識し始めた。
最後の2年間は上司とも対立し、日曜の朝あたりからもう翌日の出社を考えて憂鬱になる生活だった。
50歳、日系企業へ ―― 給料は下がっても、がむしゃらに
50歳のとき、日系企業に転職した。
売上不振が続き営業組織の改革を行っている時期で、以前の会社の後輩の縁があって入社することになった。
約5年間、営業責任者として組織・体質改革に携わった。
外資系出身ということで、社員の皆さんは良く思っていなかったかもしれない。
給料は40%ほど下がったが、あまり気にせずがむしゃらに働いていた気がする。
会社が変わっていくことが楽しかったのだ。
住宅ローンの返済と、中学・高校に通う子供2人の教育費を抱えながらの決断だったから、正直、冒険できる余地は少なかった。
それでも「このままでは終われない」という気持ちの方が勝った。
その後、希望して海外のグループ子会社に社長として出向赴任した。
ところが定年の約半年前に役職定年となり、日本に帰国することになった。個人的には、やっと利益も出てきて「これから」というときの帰国で、とても残念だった。
しかし会社の人事は絶対で、従うしかない。
会社の人事に背くときは、会社を辞めるときだ。
このとき辞めることも考え妻とも話したが、「来春の定年までは」と頼まれ、思いとどまった。
会社はどんなに成果を上げても会社のもの、どんなに損害を出しても会社の損害。
社員は所詮、会社に雇われた労働者でしかない。
日本に戻って、自分に大きな気づきがあった。
私は「雇われる」ことが嫌だったのだ。
自分の思うように決めて実行したい。
社長になりたい。
そして海外で生活したい。
ゆるく自由に生きる海外の生活スタイルが、私には合っていた。
職場のリアル ―― 社畜、朝礼、残業、そして嫌な人間5選
外資・日系・海外、トータル35年働いて痛感したのは、「残業は当たり前」という日本独特の空気だ。
外資系企業に残業の美徳も評価もない。
あるのは成果主義、どれだけ利益をもたらすかだけだ。
会社に遅くまで残っていることは、むしろ「仕事が遅い」印象を与える。
海外で4年近く働いた経験でも、多くの国では終業時間が来れば仕事を止めて帰宅するのが常識だった。
彼らにとって仕事はお金のためであり、日本の様な会社への忠誠心などない。
今になって思えば、日本の働き方こそが特別だったのだと気づく。
朝礼、社内政治、人事異動――日系企業特有の「あるある」にも散々もまれた。
35年で出会った「嫌な上司・先輩・同僚」も5タイプに分類できる。
提出したレポートの誤字脱字を重箱の隅をつつくように見つけては感情的に怒る情緒不安定タイプ。
表面上は良い顔で近づき、裏では平気で人の悪口を言う冷酷タイプ。
出世のためならライバルを平気で蹴落とす政治家タイプ。
会議で誰の意見にも耳を貸さない自信家タイプ。
気に障ることを言われるとヤクザのような口調で怒り出すパワハラタイプ――このタイプは結局、部下から訴えられて退職していった。
良い人ほど出世せず、腹黒い人ほど出世する――これも会社あるあるの一つだと思う。
会社の人事評価に一喜一憂して落ち込んでいる人には言いたい。
人事評価は、あくまで社内の、ある期間の、特定の上司による評価であり、社会での評価でも何でもない。
会社を辞めてしまえば何の役にも立たない。
それより、社外でも通用する個人のスキルを磨くことに時間を使うべきだ。
社内政治も同様で、必要か不要かは本人次第。
私自身、嫌いだったが表向きだけは付き合った。
独身時代はまったくやらなかったが、結婚して子供ができてから変わった。周りの同僚から冗談で「守る君」と呼ばれたこともある。
それなりに出世したが、最後はやっぱり「出過ぎた釘」は打たれた。
終身雇用崩壊とリストラの現場から
2019年、経団連の会長もトヨタの社長も、終身雇用を維持できないと発言した。
黒字でありながら45歳以上の早期退職を募る大手企業が相次いだ。
私自身、前職と現職の両方で、早期退職の面接官を経験している。
あらかじめ退職勧奨をする社員を決めた上で、スタッフ全員と1〜3回の面接をするのは、正直とても切ない仕事だった。
面接1回目で会社への忠誠心を完全に喪失し、すんなり受け入れる人。3
回目の最後まで粘って、最終的に受け入れる人。
最後まで受け入れない人。
目の前で人生の転機を迎える部下たちを見ながら、自分もいつかこちら側ではなく向こう側に座るのだろうと、漠然と感じていた。
そして59歳2ヶ月、自分自身が役職定年を迎えた。
収入は20〜50%下がり、権限を失ったことによるモチベーションの低下は、想像以上に大きなものだった。
53歳ぐらいから頭では意識していたが、実際に迎えるまでピンとこなかった。
「うまく乗り切ったね」と声をかけてくれる人もいたが、心の中は違った。心がモヤモヤして晴れない日が3ヶ月以上続いた。
昭和世代の会社人間は、役職や収入を失うと、すべてを失ったように感じてしまう。
しかし早い遅いはあれ、すべては時間が解決する。
うまく向き合うために私が実践したのは、次の6つだ。
夢を持つこと(私の場合は海外との二重生活)。
次のステージの目標を複数持つこと(私の場合は7つ。会社ひとつに賭けるのと違い、一つダメでも他がある)。
会社での評価はもう気にしないこと。
価値観の合う社外の人との付き合いに軸足を移すこと。
そして、「明日死ぬとしたら」と想像して、好きなことに集中すること。
義理の母の葬儀に参列した際、とても穏やかな旅立ちの顔を見て、強くそう感じた。
人生は短い。
これからは楽しく好きなことをして生きなさい――そう教わった気がした。死を迎えた人が一番後悔するのは「好きなことに挑戦すればよかった」という思いだそうだ。
定年退職 ―― 再雇用を断り、自由を選ぶ
定年退職まで残り7ヶ月というところで、会社から再雇用契約希望確認書の提出を求められた。
80%以上の人が選ぶと言われる再雇用契約を、私は選ばなかった。
コロナ禍で当初の海外移住計画が狂い、一時は「業務委託契約を希望」で最終確認を出したこともあったが、最終的には現在の会社に残らない道を選んだ。
理由はシンプルだ。
「人生は短い」。60歳以降は、自分のやりたいことだけを選んで、自由に生きると決めていた。
お金で時間を買うことはできない。
それぐらい、60歳以降の時間は貴重だ。
定年前の3ヶ月は、断捨離に費やした。
ほとんど見なくなったケーブルテレビを解約し、不要な医療保険を解約し、スマホを格安プランに切り替えた。
ひとつひとつはわずかな金額だが、「会社員としての鎧」を一枚ずつ脱いでいくような感覚があった。
実家に一人で暮らす88歳の母のもとへも、片道3時間かけて何度も通った。最後の親孝行のつもりだった。
定年に向けて立てた目標は5つ。
ブロガー&YouTuberになること。
大学院に入学すること。
起業で成功すること。
世界を旅すること。
海外にプチ移住すること。
59歳11ヶ月、有給休暇をすべて消化させてもらい、予定より2ヶ月早く定年退職を迎えた。
定年翌月からブログを開始し、10本ほど投稿したところでGoogleアドセンスにも合格した(1本も投稿せずに申請して、あっさり不合格になったのは今では良い笑い話だ)。
YouTubeも並行して発信を始めた。
社会人入試を経て大学院にも合格し、月・火・木・金は夜まで授業、土曜は終日授業という生活。
入学式には、かつて息子と娘の入学式を見に行った場所に、まさか自分が学生として参列することになるとは思わなかった。
水曜と日曜はブログとYouTubeの作業にあてた。
毎朝7時前後、目覚まし時計なしで起きる。
朝食を作り、コーヒーを飲み、洗濯をして筋トレと散歩。
10時過ぎから課題と勉強。
午後は起業準備の仕事。
夜は授業。
入浴して晩酌をして、深夜1時に就寝。
会社員だった頃とはまったく違うリズムだが、好きなことをしているので充実感でいっぱいだ。
会社人間だった私が、会社への未練をまったく感じなくなっていた。
月に一度、妻と行きつけの寿司屋やイタリアンで外食するのが、ささやかなご褒美になっている。
自由なセカンドライフへの道
収入面の不安がないと言えば嘘になる。
しかし、自分の夢に向かって前進している実感があり、日々の生活は驚くほど楽しく、充実している。
私の場合、セカンドライフをじっくり考える時間は正直短かった。
海外赴任からの不本意な帰任が、今の生き方を決める決定的なきっかけになった。
35年間、外資系と日系、両方の会社員生活を歩んできて、はっきり言えることがある。
終身雇用はもう当たり前ではない。
会社も年金も、私たちを最後まで守ってはくれない。
だからこそ、会社にしがみつくのではなく、いつでも飛び出せるだけの個のスキルを磨いておくこと。
そして50歳を迎える前に、自分自身のセカンドライフを一度真剣に考えてみること。
これを、これから定年を迎える人たちに伝えたい。
考えるポイントはひとつだけだ。「明日、1ヶ月後、半年後、1年後に死ぬとしたら、何を選択しますか?」
凸凹だらけの35年間だったが、後悔はない。
むしろ、ここからが本番だと思っている。夢に向かっての決意と行動に、年齢は関係ない。
自由な、楽しい人生へ。