JOURNAL 01|旅先で、暮らしを見てしまう。
旅に出ると
有名な場所は、もちろん見る。
それと同じくらい好きなのが、
その土地で人が普通に暮らしているところだったりする。
必ずといっていいほど、現地の市場やスーパーマーケットに立ち寄る。
何を食べているんだろう。
スーパーには何が並んでいるんだろう。
家の前には何が置いてあるんだろう。
朝はどんな音がするんだろう。
どんな香りがするんだろう。
市場を歩いている人。
道端で話している人。
店の奥でごはんを食べている人。
観光地でもなんでもないところを、
無意識にも、つい、見いってしまう。
たぶん、ちょっと怪しいかな。 なんか、ごめん。笑

近代化が進むムンバイ、交通インフラ整備や街全体が商業都市へむかい建設ラッシュに沸いている
旅から帰ってきて、どうだったと聞かれると
有名な場所では、やっぱりちゃんと感動する。
感情では、「わあ、すげーな。」と思うし
写真もたくさん撮る。
言葉では、「うん。すごかった。」くらいの表現しか出てこない。
わたしは、コミュ障なんかい。笑
なのに、実際には、
市場に積まれていた野菜とか、
小さな食堂の椅子とか、
道端に干されていた洗濯物とか、
そういうものは妙に覚えていたりする。
記憶の配分がおかしい。苦笑
でも最近になって、もしかすると私は、
そういうところから、その土地を見ていたのかもしれない。
と思うようになった。
文化とか歴史というと、
古い建物とか、
お祭りとか、
文化財とか、
昔の出来事とか、
そういう大々的なものを思い浮かべることが多い。
もちろん、それも大切。
でも、その土地の文化って、
今日のごはんだったり、
人と人との距離だったり、
家の中に置かれているものだったり、
「いつもこうしている」
の中に、もっと、たくさん残っている気がする。
昔から続いているものと、
今日の暮らし。
その間にあるものを見るのが、
私はどうやら好きらしい。
インドで、覚えていること。
今回、インドへ行ったときは、
ムンバイでは、お仕事モード。
リシケシでは、学びと探究時間。
毎度まいどの両極の旅。
振り返ると、いつものように、
どちらでも結局、街を見て、人を見て、
そこで何がどう動いているのかを見ていた。
仕事なのか、学びなのか、旅なのか。
その境目は、案外あいまいなのかもしれない。
観光旅行というより、
友人の仕事のサポートや通訳として現地に入ったので、
街を見る時間も少し変則的だった。
私の旅は、いつも現地の人と同じ日常を暮らす。

ミントやコリアンダーを使った辛いグリーンチャトニ(ソース)をパンに塗り、
スパイスで味付けしたジャガイモ、トマト、タマネギなどの野菜を挟んでトーストしたもの。
ほかにも、ムンバイでは、
ハリウッドならぬ、ボリウッドの街らしく
洗練されたレストランやカフェでおいしいものを食べた。
その一方で、街を歩いていると、
道路の脇で野菜を売っている人がいる。
昔ながらの様子だ。
色とりどりの野菜たち
使い込まれ、色褪せた秤
なつかしい手編みのかご
当たり前に、ゆがんだタライ
剥がれた跡すら、アートな壁
その真ん中に、座っている伝統衣装のお母さん。
なんなら、インド全体の母と言ってもいいんじゃないかと思うくらい。
強く、神々しかった日常。
私は、そういうところで足が止まる。
その儚さも知っているから。
たぶん、私にとっては、
有名な建物を見ることと同じくらい、
「この人たちの、ここでの今日」
が気になるらしい。
リシケシでも、
寺院やガンジス川を見ながら、
結局気になっていたのは、
人がどこでごはんを食べて、
どんな店で買い物をして、
一日をどう過ごしているのか、
そんなことだった。

近隣の山岳地帯の、その山奥から届いたばかりだといういちご。
乾いた風の中で、行き交う人のあいだに、ふっと甘酸っぱい香りが広がっていく。
旅の途中で見つけたものを、
「へえ。」
で終わらせずに、
どうしてなんだろう。
いつからなんだろう。
ほかの場所ではどうなんだろう。
と、あとから調べ始めることもある。
そして、ひとつ調べると、
また別のことが気になる。
終わらない。笑
だからここでは、
観光名所だけじゃなくて、
旅の途中で見つけた小さなものも、
少しずつ置いていこうと思う。
誰かにとっては、
なんでもないものかもしれない。
でも、
なんでもないものの中に、
その土地らしさが隠れていることもある。
たぶん。
まだ、そんな気がしているだけだけど。
LE JOURNAL DE MARRON

LE JOURNAL DE MARRON
旅の途中で拾ったもの。
まずは、そんなところから。

