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新卒2年目で海外駐在になった僕が、七千人の町で会社を辞めるまで|第5話 イタリアの七千人の町で、僕は会社を辞めることにした

    これまでの話

    新卒二年目でタイへ赴任した青野航平は、海外の現場で何度も自分の未熟さを思い知る。
    タイでは元気だけでは仕事にならないと知り、インドでは正しさだけでは人は動かないと知った。
    再び戻ったタイでは、決め方を間違えると人は離れると知る。
    そして青野は、次の赴任先であるイタリア北部の小さな町、Tarvisioへ向かう。


    Tarvisioは、静かな町だった。
    静かすぎるくらいだった。
    タイの朝には、湿った熱気とバイクの音があった。
    インドの夜には、クラクションと犬の鳴き声があった。
    二度目のタイには、設備の試運転音と、フォークリフトのバック音があった。
    でも、Tarvisioの朝には、山があった。
    窓を開けると、冷たい空気が入ってくる。遠くに山が見える。季節によっては、山の上に雪が残っていた。道を歩く人は少なく、車の音もまばらだった。
    イタリア北部の、人口七千人ほどの町。
    車で少し走れば、オーストリアにもスロベニアにも入れる。国境が、遠い場所ではなく、日常の延長にあった。
    七千人と言われても、日本にいた頃の僕には、その小ささがうまく想像できなかった。

    でも、住んでみるとすぐにわかった。

    スーパーに行けば、見たことのある顔がいる。
    バーに入れば、誰かと誰かが知り合いだった。
    サッカーの練習に参加すると、次の週には町の中で名前を呼ばれる。
    知らない場所に来たはずなのに、町全体が一つの大きな知り合いの輪のように感じることがあった。

    東京で暮らしていた頃なら、何万人とすれ違っても、誰の記憶にも残らない。
    でもTarvisioでは、アジア人の僕はすぐに覚えられた。

    それは温かさでもあり、少しだけ息苦しさでもあった。
    日本にいた頃の僕は、そんな町の名前を知らなかった。
    その町で、30歳手前の僕は会社を辞めることを考え始める。
         *
    イタリア行きが決まったとき、僕は28歳になっていた。
    正直に言えば、かなり楽しみにしていた。
    東南アジアでもない。
    インドでもない。
    ヨーロッパのものづくり。
    それだけで、胸が少し高鳴った。
    タイでは、現場の泥臭さを知った。
    インドでは、予定通りに進まない現実を知った。
    二度目のタイでは、人を巻き込む難しさを知った。
    その次に行くのがイタリアだった。
    僕は、勝手に期待していた。
    先端的な製造。
    洗練された設計思想。
    効率だけではないものづくり。
    デザインや文化と結びついた製造の考え方。
    日本の工場とも、タイの工場とも、インドの工場とも違う景色が見られる。
    そう思っていた。
    アジアで揉まれてきた自分なら、ヨーロッパの現場でも何かを吸収できる。
    もっと広い視野を持てる。
    もっと大きな経験ができる。
    そんな期待があった。
    海外に出れば、成長できる。
    新卒二年目でタイに行くと決めた頃から、僕はずっとその感覚を持っていた。
    そして実際、海外は僕を変えてくれた。
    タイで、元気だけでは仕事にならないと知った。
    インドで、正しさだけでは人は動かないと知った。
    二度目のタイで、決め方を間違えると人は離れると知った。
    だから、イタリアでも何かが起きると思っていた。
    また大変なことがあり、また苦労し、また何かを乗り越える。
    その先で、自分はもっと成長できる。
    そう信じていた。
         *
    イタリアでの仕事は、日本で作っていた商品の転注だった。
    日本で作っていたものを、イタリアでも作れるようにする。
    言葉にすれば、単純に聞こえる。
    図面はある。
    仕様もある。
    作るべきものも決まっている。
    だから最初、僕はそこまで難しい仕事だとは思っていなかった。
    図面があって、仕様があって、作るべきものが決まっているなら、あとは現地で立ち上げるだけだ。
    そう思っていた。
    でも、現実は違った。
    イタリアにも、似たような商品はあった。
    けれど、同じではなかった。
    図面に書かれた寸法。
    安全に対する考え方。
    製品として「問題ない」と判断する基準。
    その一つひとつが、日本と少しずつ違っていた。
    日本では当たり前に通る仕様が、イタリアでは引っかかる。
    日本では安全のために必要だと考えるものが、イタリアでは過剰に見える。
    イタリアでは必要最低限で十分だと考えるものが、日本側から見ると不安に見える。
    図面は同じでも、判断基準が違う。
    そのズレが、立ち上げを少しずつ長くしていった。
         *
    でも、イタリアで最初に感じたのは、速さではなかった。
    遅さだった。
    もちろん、何もしていなかったわけではない。
    会議はあった。
    メールも来た。
    打ち合わせもして決めた。
    図面も見た。
    工場にも行った。
    現地の人とも話した。
    でも、物事が前に進んでいる感覚が薄かった。
    タイでは、毎日何かが起きた。
    設備が入る。
    不具合が出る。
    誰かが困る。
    納期が迫る。
    決めなければ止まる。
    直さなければ間に合わない。
    インドでも、毎日何かが崩れた。
    部品が来ない。
    約束が変わる。
    州境でトラックが止まる。
    予定がずれる。
    そのたびに、次の手を考えなければならなかった。
    アジアの現場では、良くも悪くも、毎日身体を使って働いている感覚があった。
    イタリアでは、違った。
    会議で話す。
    次の打ち手も決めた。
    スケジュールも決まった。
    実施するだけ。
    ただ、進みが遅い。
    今月、何が進んだのだろう。
    そう思う日が増えていった。
         *
    それは、イタリアの人たちが怠けていたという話ではない。
    違う文化があった。
    仕事と生活の距離感も違った。
    何を大事にしているかも違った。
    判断の前提も違った。
    日本のように効率だけで物事を詰めていくわけではない。
    タイやインドのように、現場で起きたことをその場で力技のように動かしていくわけでもない。
    彼らには彼らの進め方があった。
    僕は、それを理解しようとした。
    文化が違う。
    働き方が違う。
    時間の使い方が違う。
    そこから学ぶべきことがある。
    そう自分に言い聞かせた。
    実際、学びはあった。
    特に大きかったのは、安全に対する基準の違いだった。
    日本は、かなり安全側に考える。
    起きるかもしれないことを先に潰す。
    少しでも不安があれば、仕様に織り込む。
    現場で困らないように、過剰に見えるくらい備える。
    一方で、イタリアは必要最低限で考える場面が多かった。
    本当にそこまで必要なのか。
    実際にそのリスクは起きるのか。
    なぜその仕様にしなければならないのか。
    納得できる理由がなければ、動きは鈍くなる。
    それは、いい加減ということではなかった。
    むしろ、彼らは彼らなりに論理的だった。
    ただ、その論理の前提が、日本とは違っていた。
    日本側から見れば、もっと安全側に見てほしい。
    イタリア側から見れば、そこまでやる理由がわからない。
    どちらかが正しくて、どちらかが間違っているという話ではなかった。
    ただ、その違いが、立ち上げの速度に大きく影響していた。
         *
    日本で作っていた商品を、イタリアでも作れるようにする。
    それだけなら、簡単に聞こえる。
    でも実際には、日本で積み上げてきた仕様の背景を、イタリア側に説明しなければならなかった。
    なぜ、この形なのか。
    なぜ、この寸法なのか。
    なぜ、この安全仕様が必要なのか。
    なぜ、ここまで余裕を見ているのか。
    たとえば、フックだった。
    物を吊り下げるために使うフックには、何万回もの繰り返しに耐えられることを前提にした基準があった。
    日本側は、長く使い続ける中で起こるかもしれない破損や脱落を、先に潰しておきたいと考える。
    イタリア側は、実際に必要な範囲まで満たしていれば十分ではないかと考える。
    日本では、起きるかもしれないことを先に潰す。
    イタリアでは、実際に必要な範囲までに抑える。
    どちらも間違ってはいない。
    でも、その違いを説明し、翻訳し、互いに納得できる落としどころを探すだけで、一週間が過ぎていく。
    僕は、日本とイタリアの設計者の間に立っていた。
    技術の通訳をしているようで、実際には、仕事に対する考え方の通訳をしていたのかもしれない。
    アジアにいた頃の僕なら、現場へ走っていた。
    とにかく動かし、止まったら直し、次の手を打っていた。
    でもイタリアでは、走る前に止まることが多かった。
    止まって、話す。
    止まって、確認する。
    止まって、納得する理由を探す。
    その時間に、僕は少しずつ焦っていった。
         *
    環境としては、恵まれていたのだと思う。
    海外で働けている。
    ヨーロッパの現場を見られている。
    日本では経験できない文化の中にいる。
    頭では、わかっていた。
    でも、心のどこかでずっと思っていた。
    このままでいいのだろうか。
    タイでは、毎日が必死だった。
    インドでは、自分の器が試されている感じがあった。
    二度目のタイでは、納期と人の間で、自分の未熟さを思い知らされた。
    苦しかった。
    でも、苦しいぶん、前に進んでいる感覚があった。
    イタリアでは、その感覚が薄かった。
    静かに時間が過ぎていく。
    大きな問題も起きない。
    自分が走らなければならない場面も少ない。
    今日も、昨日と似た一日が終わる。
    僕は、その静けさに少しずつ焦っていった。
         *
    二十代の僕は、欲張りだった。
    もっと経験したかった。
    もっと失敗したかった。
    もっと多くの現場を見たかった。
    もっと速く成長したかった。
    「速く成長したい」という言葉は、今聞くと少し幼い。
    でも、当時の僕にとっては切実だった。
    新卒二年目で海外に出た。
    タイで泣いた。
    インドで怒った。
    またタイで人を遠ざけた。
    そのたびに、苦しかった。
    でも、そのたびに、自分が少し変わっていく感覚があった。
    アジアにいた頃は、半年で何年分もの経験をしているような感覚があった。
    毎日何かが起きた。
    毎日何かを決めた。
    毎日何かに失敗した。
    そのたびに、自分の中の何かが削られ、少しだけ形を変えていった。
    でも、イタリアでは違った。
    二年間いても、アジアの半年分くらいしか前に進んでいないように感じた。
    もちろん、これは僕の勝手な感覚だったのかもしれない。
    でも、当時の僕には、そう感じられた。
    この二年間で、自分は何を積み上げたのだろう。
    その問いが、少しずつ大きくなっていった。
         *
    だから僕は、どこかで勘違いしていたのだと思う。
    新しい国に行けば、また何かが起きる。
    苦しい環境にいれば、また自分は変われる。
    でも、イタリアの静けさの中で、その感覚が少しずつ揺らぎ始めていた。
         *
    生活も、最初から楽しかったわけではない。
    Tarvisioは小さな町だった。
    店の数は多くない。
    夜になると、通りは静かになる。
    冬は熊も出る。
    日本語はもちろん通じない。
    英語も、ほとんど通じない。
    バーに行っても、最初は何を話せばいいのかわからなかった。
    カウンターに座り、グラスを持つ。
    周りでは、地元の人たちがイタリア語で楽しそうに話している。
    笑い声が上がる。
    誰かが肩を叩く。
    昔からの知り合い同士のように、距離が近い。
    僕は、その輪の外側にいた。
    タイでも孤独だったが、日本人の仲間ができた。
    インドでも孤独だったが、日本人の仲間ができた。
    でも、Tarvisioの孤独は少し違った。
    タイには工場の熱があった。
    インドには街のうるささがあった。
    人も音も近くにありすぎるほどあった。
    Tarvisioには、静けさがあった。
    誰も責めてこない。
    誰も急かしてこない。
    ただ、静かに時間が過ぎていく。
    その静けさの中で、自分の焦りだけが大きく聞こえた。
         *
    もちろん、嫌なこともあった。
    アジア人であることを、強く意識させられる場面もあった。
    道を歩いていて、こちらを見る視線が気になることがあった。
    バーで、何かを言われているのはわかるのに、意味まではわからないこともあった。
    冗談なのか、からかいなのか、悪意なのか、判断できない言葉もあった。
    気にしすぎかもしれない。
    そう思う日もあった。
    でも、気にしてしまう自分もいた。
    日本人が一人。
    その事実は、日によって重くなった。
         *
    そんな生活を変えてくれたのは、またサッカーだった。
    インドでも、サッカーが僕を部屋の外へ連れ出してくれた。
    イタリアでも同じだった。
    住み始めて二か月ほど経った頃、僕は現地のサッカーチームに入った。
    最初は緊張した。
    言葉は十分に通じない。
    名前も覚えられない。
    練習の流れもわからない。
    冗談を言われても、すぐには返せない。
    でも、ボールがあると少し楽だった。
    パスを出す。
    走る。
    呼ぶ。
    ミスをする。
    笑う。
    もう一度走る。
    言葉が足りなくても、ボールは転がる。
         *
    サッカーを通じて、少しずつ友達ができた。
    練習のあと、飲みに行くようになった。
    試合のあと、朝まで飲み明かしたこともあった。
    言葉は完璧には通じない。
    冗談も半分くらいしかわからない。
    それでも、同じ試合で走り、同じテーブルで飲んでいると、不思議と距離は縮まっていった。
    僕の入ったチームは、フリウリ州リーグで上位に入るようなチームだった。
    その中で僕は、アジア人初のプレイヤーだった。
    最初は珍しがられた。
    たぶん、少し浮いてもいた。
    でも、試合に出て、走って、体をぶつけて、声を出しているうちに、少しずつ仲間になっていった。
    ホームで迎えた、僕のデビュー戦。
    一対一で迎えた後半、ベンチに座っていた僕に声がかかった。
    「Andiamo, Aono」
    出番だ、青野。
    ピッチに入った。
    ファーストプレイで、僕は味方へパスを出した。
    そのパスが通り、見事にアシストになった。
    プレーしていた仲間たちが声を上げた。
    観客席にいたTarvisioの人たちが拍手をしてくれた。
    「Bravo, Aono!」
    名前を呼ばれた。
    その瞬間、僕は少しだけ、珍しいアジア人ではなく、同じTarvisioの住民の一人になれた気がした。
    町で会うと、声をかけられる。
    バーに行けば、誰かが手を上げる。
    試合の話になると、言葉が足りなくても笑えた。
    Tarvisioの町が、少しずつ自分の外側ではなくなっていった。
    最初はただ静かだった町に、知っている顔が増えていった。

    人口七千人の町では、一つの試合の出来事が、思ったより遠くまで届く。
    翌週、スーパーで買い物をしていると、見知らぬ男性に声をかけられた。
    「Aono, bravo」
    たぶん、試合を見ていた人だった。
    僕はうまく返せず、笑ってうなずくことしかできなかった。
    でもその瞬間、七千人という町の小ささが、少しだけ好きになった。
         *
    だから、誤解されたくない。
    イタリア生活は、楽しくなった。
    山に囲まれた町で暮らすこと。
    国境を越えて別の国へ行けること。
    サッカーの仲間ができたこと。
    バーで少しずつ話せるようになったこと。
    イタリア語の響きに慣れていくこと。
    それらは、間違いなく僕の人生に残っている。
    海外が嫌になったわけではない。
    むしろ、海外で暮らすことは好きだった。
    違う文化の中にいること。
    自分の当たり前が通じない場所に立つこと。
    知らない人と少しずつ関係を作ること。
    それは、僕の器を広げてくれた。
    でも、生活が楽しくなることと、仕事の焦りが消えることは別だった。
    サッカーのあと、仲間と笑って帰る。
    部屋に戻る。
    シャワーを浴びる。
    ベッドに座る。
    楽しい一日だった。
    それなのに、考えてしまう。
    今月、仕事で何が進んだのだろう。
    ある夜、僕はその問いから逃げられず、パソコンを開いた。
    二年前の資料を見た。
         *
    そこには、当時の僕が作った計画があった。
    いつまでに何を決めるのか。
    どの段階で現場確認を終えるのか。
    どの時点で次のフェーズへ進むのか。
    画面の中の計画は、まっすぐ前に進んでいた。
    でも、現実は違った。
    決めたはずのことが、まだ確認中になっている。
    進んだはずの項目が、もう一度議論に戻っている。
    二年前に覚悟していた経験の量に、今の自分は届いていない。
    僕は、その資料を見ながら思った。
    進捗していないことが、ただプロジェクトの遅れではなく、自分の成長の遅れのように感じていた。
    タイなら、現場へ行ったかもしれない。
    インドなら、電話をかけ続けたかもしれない。
    二度目のタイなら、不具合リストを開いて、次の一手を決めたかもしれない。
    でも、Tarvisioの夜に、僕がやってきたことは少ないと感じた。
    余裕はあった。
    毎日のようにサッカーができるくらい、僕には時間があった。
    それは幸せなことだったのかもしれない。
    でも、当時の僕には怖かった。
    この余裕は、自分を成長させているのだろうか。
    それとも、自分の時間を静かに溶かしているだけなのだろうか。
    僕は椅子にもたれた。
    このまま、ここにいていいのだろうか。
    その問いが、はっきりと言葉になった。
    最初は、ただの疲れだと思った。
    慣れない国での生活。
    言葉の壁。
    仕事の進み方の違い。
    小さな町での孤独。
    そういうものが重なっているだけだと思った。
    でも、その問いは何日経っても消えなかった。
    このまま、ここにいていいのだろうか。
         *
    会社を辞めるという選択肢は、最初から大きな決断として現れたわけではない。
    最初は、小さな違和感だった。
    もっと経験したい。
    でも、今のままだと経験の密度が足りない。
    もっと挑戦したい。
    でも、この場所では自分の役割が限られている。
    もっと速く走りたい。
    でも、ここでは走るより待つ時間が長い。
    その違和感が、少しずつ形を持っていった。
    辞める。
    その言葉を頭の中で初めてはっきり置いたとき、自分でも驚いた。
    海外に出たかった。
    海外で働きたかった。
    会社にも、たくさんの機会をもらった。
    若いうちにタイへ出してもらい、インドへ行き、またタイへ戻り、イタリアまで来た。
    普通に考えれば、恵まれていた。
    だからこそ、辞めると考える自分に、少し罪悪感もあった。
    何が不満なのか。
    こんなに経験させてもらっているのに。
    海外で働けているのに。
    そう思う自分もいた。
    でも、もう一人の自分が言った。
    経験してきたからこそ、次に行きたいのではないか。
         *
    タイで僕は、何もできない自分を知った。
    インドで僕は、正しさだけでは人は動かないと知った。
    二度目のタイで僕は、仕事を進めることと、人がついてくることは違うと知った。
    その全部が、僕を作っていた。
    そして、その全部があったからこそ、僕はもう一度、自分の働き方を選びたくなった。
    会社に選ばれて海外へ出た。
    最初は、それがうれしかった。
    会社で初めての若手海外駐在員。
    タイ駐在。
    インド駐在。
    イタリア駐在。
    その肩書きや場所が、自分を前に進めてくれていると思っていた。
    でも、最後に必要だったのは、会社に選ばれることではなかった。
    自分で選ぶことだった。
    どこで働くのか。
    誰と働くのか。
    何に時間を使うのか。
    どんなスピードで、どんな経験を積みたいのか。
    その問いから、もう逃げられなくなっていた。
         *
    退職を決めた日を、劇的な場面として覚えているわけではない。
    誰かと大喧嘩したわけでもない。
    大きなトラブルが起きたわけでもない。
    上司にひどいことを言われたわけでもない。
    むしろ、普通の日だった。
    朝起きて、仕事へ行き、メールを返し、会議をして、町に戻った。
    いつものように、Tarvisioは静かだった。
    その静けさの中で、僕は思った。
    もう、次に行こう。
    驚くほど静かな決断だった。
    海外が嫌になったわけではない。
    会社を憎んだわけでもない。
    イタリアが嫌いになったわけでもない。
    むしろ、どれも好きだった。
    でも、好きであることと、そこに残ることは同じではなかった。
    僕は会社を辞めることにした。
         *
    新卒二年目でタイに行くと決めたとき、僕は海外に行けば成長できると思っていた。
    タイで、それは半分正しかった。
    海外に出たからこそ、自分の未熟さを知った。
    相談できない孤独を知った。
    元気だけでは仕事にならないと知った。
    インドでも、それは半分正しかった。
    自分の当たり前が崩れる場所で、怒っても変わらないことがあると知った。
    考えても仕方ないことと、考えるべきことを分ける必要があると知った。
    二度目のタイでも、それは半分正しかった。
    仕事を進める力だけでは足りない。
    人が納得し、自分たちで動ける状態を作らなければ、現場は強くならないと知った。
    海外は、確かに僕を変えてくれた。
    でも、海外が自動的に僕を成長させてくれたわけではなかった。
    失敗したから変わった。
    恥をかいたから変わった。
    泣いたから変わった。
    怒ったから変わった。
    人を遠ざけたから変わった。
    それでも翌日、もう一度現場へ行ったから変わった。
    場所ではなく、そこで自分がどう動いたかだった。
         *
    もし、若い人に海外で働く機会が来たら、僕はたぶん言うと思う。
    行けるなら、行った方がいい。
    きれいな経験ばかりではない。
    華やかな話ばかりでもない。
    言葉が通じず、仕事が進まず、孤独で、自分の小ささを思い知る日もある。
    でも、自分の当たり前が通じない場所で働く経験は、人を少し広げてくれる。
    それは本当だと思う。
    ただし、海外に行けば何者かになれるわけではない。
    駐在という肩書きが、自分を勝手に成長させてくれるわけでもない。
    遠い国に住むことが、そのまま挑戦になるわけでもない。
    そこで何を見るのか。
    何を間違えるのか。
    誰と向き合うのか。
    最後に何を選ぶのか。
    それを決めるのは、自分だった。
         *
    Tarvisioの町を歩くと、山が見えた。
    国境が近い町。
    人口七千人の町。
    日本にいた頃は、名前も知らなかった町。
    その町で、僕は会社を辞めることを決めた。
    新卒二年目で海外駐在になった僕は、タイで泣き、インドで怒り、もう一度タイで人を遠ざけ、イタリアで立ち止まった。
    そしてようやく、自分の人生を自分で選び直そうと思った。
    海外が僕を大人にしてくれたのではない。
    海外で失敗した僕が、少しずつ、自分の足で立とうとしただけだった。
    Tarvisioの静かな夜に、一粒だけ涙がこぼれた。
    僕の海外駐在は、そこで終わった。

    了

     
     
    はじめまして、機械専門商社の管理職。 大学院で商品開発と新規事業を研究しています。 テーマは「技術と市場の翻訳」。 中小製造業の商品開発、 新規事業、市場調査について発信します。

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