
「何を言うか」より「誰が言うか」って、こういうことかもしれない
ネットを見ていたら、スタバで
「バナナアフォガードフラペチーノ」が
限定発売される、という記事を見つけた。
正直、ちょっと意外な組み合わせだなと思った。
バナナとエスプレッソ。
おいしい…のかな?
でも、なぜか
「スタバが出すなら、おいしいんじゃない?」
と、すっと思えた自分がいた。
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少し前のこと
GWに筑波山へ行ったとき、
「877」というお土産とコーヒーのお店に立ち寄った。
メニューに
「バナナエスプレッソ」
という文字を見つけて、気になった。
お店の人に聞いたら
「おいしいですよ!」
と言ってくれた。
でもそのときの私は、
どんな味かまったく想像できなくて、
「えー、ほんと?」
と、正直ちょっと半信半疑だった。
お腹もいっぱいだったし、結局頼まなかった。
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同じ
「バナナ × エスプレッソ」
なのに、
* 877のときは、想像できなくて見送った
* スタバのときは、「たぶん大丈夫」と思えた
この違いって、何なんだろう。
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少し考えて、気づいた。
これは
味の問題じゃなかった。
情報の問題でもなかった。
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877では、
* 自分で味を想像して
* 自分で「アリかナシか」を決める必要があった
一方スタバでは、
* 「スタバが出すなら、ちゃんと仕上げてるはず」
* 「大きく外すことはないだろう」
と、判断の一部を
ブランドに委ねていた。
つまり私は、
「おいしいかどうか」じゃなく
「失敗しなさそうかどうか」で選んでいた。
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最近よく聞く、
「何を言うか?」より「誰が言うか?」が大事
という話。
あれも、これとすごく似ている気がする。
人はもう、
正しい情報や、もっともらしい話を
十分すぎるほど知っている。
だからこそ無意識に、こう考えているのかもしれない。
この人の言うことなら、
ちょっと試しても後悔しなさそうか?
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発信も、商品も、サービスも、
「内容」そのものより先に、
* この人の感覚
* この人の選び方
* この人の人生の文脈
を見られている。
スタバの新作を前に
「いけそう」と思ったあの感覚は、
そのまま人の発信を受け取るときの感覚だった。
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「誰が言うか」が大事、というのは
カリスマじゃないとダメ、という話じゃない。
肩書きや実績の話でもない。
ただ、
その人の世界を信頼できるかどうか。
それだけなんだと思う。
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だからきっと、
日常の中で感じた小さな違和感や、
「なんでだろう?」と思った瞬間を
丁寧に言葉にすることには、ちゃんと意味がある。
少なくとも私は、
スタバのバナナアフォガードフラペチーノをきっかけに、
そんなことを考えていた