
夢を語る光と影
夢を抱きがちなタイプ
わたしは独り身で、会社にも属していない。
もちろんいくつかの組織に属してはいるけれど、専属契約を結んでいるわけではないし、縛られることも基本的にはない。
だから、自分がやりたいと思ったことを、おそらく他の人たちより実行に移せる可能性が高い。
だからか、なのか、性格もあるだろうが、「やりたい」と思った夢や目標、ビジョンみたいなものを自分のキャパシティの中で設計士、すぐに行動に移すタイプである。
それを継続できるかどうかや、収益があるかどうか、もっと広く言うと成功するか否かは別として。
とにかく、とりあえず、やってみるのである。
「私にはできないよ」は誉め言葉ではない
わたしはその夢や目標を、身近な、信頼できる人に相談する。
事業をやっている人だったり、芸能の先輩だったり、仕事先の仲間だったり、友人だったり。
話すことでアドバイスをもらいたい、もっと具体的にしたい、逃げ場をなくしたい。そんな思いが根底にある。そうしないと行動できない意志の弱さもあるかもしれない。
話すとよく
「自分にはできない」
という言葉が返ってくることがある。
そのあとに「スゴイな」「よくやるな」みたいなワードが続くのだが、わたしはこれは誉め言葉ではないと思っている。謙遜とか卑下とかじゃなくて、実際にそう(=できない)だから言ってるだけで、事実を述べているだけのことだと理解している。
もちろん誉め言葉として言ってくれているニュアンスもゼロではないと思う。でも、「できない」のは守るべきものがあり、今やるべき仕事があり、他の事に注力できない環境だから、そう言っているだけで、その人(私が信頼している人)たちが本気でやろうとしたら、きっとみんなできることだとわたしは考えている。
本当は「できる」、でも「やらない」もしくは「特にやりたくない」が真実。何も、そう言われた私が、悲観的に受け取っているということではない。
たまたま「できる」環境にいるわたしが、やりたいと思ったことを「実行している」だけのこと。そう考えれば、気負いやプレッシャーも和らぐってものだ。
たらればを語らせてしまう罪
私の夢や目標、ビジョンを聞いた友人が
「自分がもし自由に動ける環境だったとしたら何するか考えた」
と言った。でもその先を聞くことはできなかった。
友人にも諦めた夢や、本当はやりたいことがあったのだろうか。
結婚していなければ、子どもがいなければ……
と考えさせてしまったことに少しだけ申し訳なさを感じた。
きっと考えたところで、できない。だからその先を話さなかった。
だけどそれは=不幸せではない。友人には家庭があり、将来を共に生きていくかけがえのない家族がいる。今が幸せだから思い浮かばなかったという可能性もある。
もちろん結婚していなくても、子どもがいなくても、夢や目標を実行に移していない人はたくさんいる。
理由は家族だけじゃない。お金かもしれない。環境かもしれない。
わたしだって、「たられば」や「ifもしも」を捨てたり飲み込んだりして生きてきた。遠まわりもしたし、軌道修正もしたし、諦めたことや見ないフリしてることだってたくさんある。それはこれからもするだろう。
もっとお金があれば。もっと知識や経験があれば。もっと若ければ。
「たられば」の波に溺れそうになる。でも、やるしかない。
みんなそうやって生きている。
夢の扱いについて
わたしは小さくても大きくても、夢や目標を設定したほうが頑張れるし、そこに向かって進んでいる自分が好きなんだと思う。
でもみんながみんなそうじゃないし、それが出来ることが凄いとか偉いとか全く思わない。実際、「口だけ」だったことだって五万とある。
夢を語ることで、「自分も頑張ろう」「元気が出た」と捉えてくれる人もいれば、「自分と比較して空しくなった」「現実的じゃない」など悲観的・否定的に感じる人もいる。
それはわたしが逆の立場でもそう。聞く時のコンディションによって、受け取り方が変わってしまうこともある。
だから、語れ、語るな、ということではなくて、語る前に一度立ち止まる必要があるのかもしれない、と思った。
歳を重ねると、夢は若い頃の夢と違って、より実現可能な形になる。
手は届くかもしれないけれど、大変だし、リスクもあるよね、みたいなレベルの夢。SDGs(持続可能な開発目標)と似てるかもしれない。
夢の扱いは慎重に。
だれしも持っているはずだけど、その形は千差万別。
でもやっぱり、夢っていいよね。