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異世界でラブホテルの従業員として働いています。第6話

    ※

    ラブホテル『ピエタ』の内部へと続く扉が静かに開かれ、美しいエルフの女性が姿を現した。

    モデルのような長身、種族の特徴である長い耳。色白でもなく、ブロンズとも呼べぬ黄色みのある肌をしており、くすんだクリームイエローの髪が、更にその素肌を美しく見せている。

    頭部はレースのヴェールによって覆われ、タイトで真っ白なロング丈のワンピースを着こなしている。

    アートドールのように端正な顔立ち、しかし頬の上には、少女のようにそばかすが散っていた。

    細いヒールを規則正しく鳴らしながら、ゆっくりとフロントの前を通り過ぎ、慣れた様子でその横に設置されている大画面のタッチパネルを操作していく。その長い指は、白いレースの手袋に包まれていた。

    そしていつの間に入館していたのか、その少し後ろに、もうひとつの影があった。全身から緊張という名のオーラを纏い、しかし敬意を込めてエルフの女性の動向を伺っており、控え目に佇んでいる。

    画面上の操作を終えると、女性は再びフロントの前まで静かに移動し、従業員の手元しか見えないように設計されたその小さな窓口に向かって、凛とした声で静かに話しかける。

    「……こんにちは、ダビデ支配人。 家畜とはいつも通り、部屋の中で待ち合わせよ。飼育ナンバーは22、フロントに来たら、同じSM部屋に通してあげてちょうだい。それと今日なんだけど……」

    自分の名を呼ばれ、灰色の尖った耳をピクリと動かし、背面ドア付近にいたダビデは、慌てて窓口まで歩み寄る。ニーチェとリンゴから頼まれていた見張り役の任務から解かれていた彼は、丁度フロント内部に戻ったばかりだった。

    「弟子を連れてきているの。確か3人で部屋を使用する際は、1人分の追加料金が発生するわよね?その分の追加の代金は、私が支払うわ。」

    客である声の主を確認するような間を少し空けて、ダビデは静かに受け答えをした。

    「……お弟子さん、ですか?……そうですね、一応うちではそういう事になってますが……。……しかしオリアンヌさんはうちのお得意様ですので。…初回の本日だけは、通常通り2人分の料金で構いませんよ。」

    オリアンヌと呼ばれたその美しいエルフの女性は、窓口からダビデが差し出した客室の鍵を受け取った。

    「あらそう?なら構わないのね。ナンバー22にその旨伝えて、いつも通り支払いをさせてちょうだい。とりあえず今日は、■■■と■■と■■を使いたいのだけれど、貸し出してくれるかしら?」

    「……かしこまりました。こちらでご用意が出来次第、お部屋の方へ運ばせていただきます。」

    オリアンヌが立っている側からその姿は見えないが、ダビデは恭しく深々と頭を下げて、丁寧に返事をした。

    「ありがとう。……クリスによろしくね。……ほら、ご挨拶なさい。中にいるのは、ダビデ支配人よ。……失礼のないように。」

    オリアンヌが自分のすぐ後ろで控えるように立っていた小さな影にそう言うと、その小柄な人物は、何かを探すようにホテル内の天井に視線を彷徨わせる。

    やがて一つの監視カメラをピタリと見つけ出すと、それを見上げたまま、カメラに向かって真っ直ぐと立ち、漆黒のゴシックワンピースの太ももから膝の辺りのスカート生地を両手でつまんで持ち上げ、片方の足を斜め後ろに引き、軽く頭を下げて可憐に挨拶をして見せた。

    少しだけぎこちない、可愛らしい"カーテシー"だった。

    「これはこれは……ご丁寧に、どうも……。」

    ダビデはその様子を、フロント内部の監視カメラの映像を映し出すモニターからしっかりと見届けていた。

    フロント窓口のガラスと壁を隔てたすぐ向こう側で、まるで可愛い娘が知らない人に礼儀正しくしたことを喜ぶような、オリアンヌの誇らしげな気配が感じ取れるようだった。

    「……よろしい、行くわよ。それではダビデ支配人、失礼いたします。」

    「ええ、ごゆっくり……。」

    ダビデがそのままモニターを見つめていると、オリアンヌとその弟子と思われる二つの影は、薄暗い通路を歩きエレベーターの前で立ち止まる。やがて上り専用のエレベーター内に入っていき、扉が閉まる。

    そうして廊下から彼女たちの姿が消え、エレベーター内の監視カメラが新たに二人を捉えると、ダビデの独り言が口をついて出た。

    「……弟子、ですか。……なんだかリナさんが初めてここに来た日のことを思い出しますね……」

    ダビデはそのまま事務椅子には腰掛けず、奥にある物置部屋へと移動し、オリアンヌに頼まれていたマニアックな新品のSM器具の用意をし始める。

    スチール棚が数列並んでいるその部屋は、ズラリと段ボール箱で埋め尽くされていた。ダビデはとある箱の前で立ち止まると、紙の包装紙と、気泡緩衝材に包まれたそれらを取り出し、いつものようにクリスに客室まで運んでもらおうと呼び出そうとしたところで、ダビデはふと思い立った。

    「……そういえば、まだリナさんとNTR部屋にいるんでしたね。仕方ない、…廊下で遊んでいるあの二人を呼び戻しましょう。」

    ダビデは口元だけでフッと穏やかに笑うと、インカムでニーチェとリンゴ、それぞれをフロント内部まで呼び出すのであった。

    ※

    「………初めは無視からだった。それまでは席が近かったし、それなりに仲良くしてたんだけど。………アタシ、どうしても許せなかった。だって目の前にいるそいつは、アタシと同じだと思っていたから。」

    ゆっくりと砂でできた小さな城を崩すように、梨名は少しずつ、過去の出来事を吐き出していた。

    クリスは休憩室のソファに深く腰掛け、その膝の上に梨名の頭を乗せて膝枕をし、まるで子供を寝かしつける母親のように、髪を優しく撫でていた。梨名は右耳をちょうどクリスの両太ももの真ん中にピッタリとくっつける形で横向きに寝そべり、遠慮がちに左手を彼女の左膝の上に添えている。

    彼女の履いていたローファーのそれぞれが、履き口を別の方向に向けて、ソファの足元に転がっていた。

    「うん。……それで?」

    「そしたらある日友達のナツが、なんとなくムカつくからっていう理由だけで賛同してくれて……そこからイジメがエスカレートしていったの。毎日のように、ナツとアイツを…………影山を、……教室でからかって遊んでた。」

    クリスは黙って目を閉じる。その長い指に、今は彼女が好き好んで吸っている煙草は挟まっていない。

    「アタシは周りの目を気にせずに、日によって気が向けば、……派手に影山を虐めた。万が一担任からアタシの両親に告げ口されても、構わないと思っていたから。」

    「…………むしろ、それが目的だったんだろう?理由が何にせよ、ご両親に、…君について注目してもらえるきっかけになるからね。」

    心臓がドキリと音を立てて鳴った。梨名の肩がびくりと震える。クリスからの突然の的を得た指摘に、彼女はゆっくりと息を吐いた。

    「……!………あ、……そうかも………私は親に……お母さんに、どうしてそんなことをしたの?……って、本当は聞いてもらいたかったのかも………ふふ、ただのガキじゃん…。」

    梨名は自分自身に呆れたように、乾いた笑いを零した。その視界が少しずつ曇って、目の前を濁らせていく。

    「アタシ……羨ましかったんだ…………きっかけは本当に些細なことで…本当にちっぽけなことで……アイツ、母親が作った巾着袋やお守り袋とか、たくさん持ってて、アタシの前で"一人っ子"だから、親が持たせたがるんだって笑ったのよ。」

    声が震え始める。言葉にすると本当にどうしようもなく、話しながら込み上げてきた情けなさと孤独が、その場で梨名をありのまま飲み込んだ。

    「そんなの………そんなのアタシだって一緒なのに……アタシはマ……お母さんから、産むつもり無かったって言われ続けてきたのに……。影山の普通や当たり前が、途端に羨ましくてたまらなかった……」

    梨名が嗚咽混じりに泣き始めると、クリスは「……いいよ、大丈夫。」と言ってそのまま促す。

    「…………アタシはお母さんを、何度も……何度も許そうとした……。…でも忘れた頃に、お母さん、また思い出させるように言ってくるの。言いたいことだけ言うと、その後は家の中でアタシを避けるように生活してる。アタシについて、何も聞いてこない。何もかも全然興味無いんだ。お義父さんと…家の中に、まるで二人しかいないみたいに……。」

    クリスは間を置いて、静かに言葉を選ぶ。

    「………父親は?その男も、母親と同様、君に興味が無いのかい?」

    「……ああ、本当の父親じゃないから。本物のパパは、今どうしてるか知らない。でもきっともう家庭があるはず……パパが家を出る時、お母さんとアタシに、今後は一切関わらないで欲しいって頼んできたから……」

    静かな休憩室に、二人の微かな息遣いだけが、湿った雨音のように染み込んでいく。

    「………義父と、仲が良くないんだね。」

    「……そうだよ。あの人は、アタシのお母さんにしか興味ない。本当に、お母さんは自分にピッタリの人を選んだんだなと思うよ……。」

    少しだけ皮肉の混じる声は、梨名の疎外感をありありと感じさせる。

    「お母さんは、一時でも自分のキャリアに穴が開いたことを後悔してるみたい。アタシのせいなんだって。ならどうしてアタシを産んだの?って、……聞いたことがあったんだ。」

    「………母親は、なんて?」

    梨名は思い切り泣いたせいで少しだけ苦しくなって、水中で息継ぎをするように、浅く息を吸い込んでから深く息を吐き出した。

    「……お母さんは、何も答えなかった。でもきっと、よくある話だよ。世間からどう見られるかとか、どうしようもない罪悪感とか、あとは……そうだな、中途半端な良心、みたいな?そういうのがあって、多分、望んでなかった女でも…大多数は産む、っていう選択をするでしょ…?」

    「………うん。自身の体内に宿っているとなると、…無視はできないからね。」

    梨名の身体に、もはや堰き止めるものが何もない。再び大粒の涙が、とめどなく溢れ出す。

    「アタシにとっては"そんなの"、必要なかったのに。……いらないならいらないで、それを貫けばよかったじゃない……!」

    「…………ん、そうだね。人間は完璧じゃない。……エルフもそうだけれど。そこで正しい判断が出来たかどうかは、……正直わからないな。」

    クリスは梨名の左腕をさすった。こうして触れているのに、彼女の口から出た言葉は、痛いほどの冷たさを帯びている。それがクリスを、少しだけ寂しくさせた。

    「…………リナくん、今から私がする話を聞いたなら、君は私が自分を理解してくれなかったんだと、落胆するかもしれないね。でも言わせて欲しい。」

    クリスの口調は普段通りに落ち着いていて、ゆっくりと周囲に溶け込むように優しく響く。

    「エルフの私からしてみれば、人間が子を産むことは、未熟な子どもが更にまた子供を産むことと同意だ。君の母親は、ただただ自分の事で手一杯なだけだったのかもしれない。それでも、君と母親の間には、暖かな記憶はひとつも無かったのかい?」

    彼女の言葉通り、共感するでもなく、母親を否定するでもない、だけれどそれが、今の梨名にとっては心地良かった。深く深く落ちていく気分が、とても紛れる。涙で視界が滲みながらも、梨名は思考を巡らせる。

    「……ううん、機嫌の良い時は、ずっとアタシに……何時間も話しかけて来る時がある………。」

    「なら、まだマシだった、という事かな。君は母親に完璧な愛情を求めた。ただ君の母親は、それが出来なかったという、ただそれだけの事だよ。子というは、誰でも親に無償の愛を注ぐものなんだ。君のお母さんが、その愛情を受け取る器を……一切持っていなかったんだね。」

    梨名の呼吸が段々と落ち着いてくる。

    幼かった頃、母親はそばにいる時、いつも困ったような顔をしていた。

    その無垢な手に握った、道端に咲く小さな一輪の花。それを差し出しても、手を伸ばさない。手を伸ばせなかったんだ。それが悲しく、梨名の中で腑に落ちる。

    「……それでも………それでもアタシは…………」

    クリスは静かに「ん?」と聞き返した。

    「おか…………ママに、……会いたい…………」

    少しだけ乾いていた梨名の瞳が、再び涙で溢れた。

    「…………そうだね。そう簡単じゃないね。…それでいい。安心したまえ、君は正常だ。それで正しい。何も間違ってはいないよ、……いい子だね。」

    落ち着くまで、ずっとこうしていたい。平気なフリをしていた自分を、今だけはどこかに追いやるのだ。

    「…あ、あと……………か、…影山に、………謝りたい………、……」

    クリスの口元に、慈愛に満ちた笑みが浮かび上がる。

    「………そうだろうね。でもカゲヤマという子の世界から、君が消える。それで十分だと、私は思うよ。君が今になって謝りたいという気持ちを、その子に知っていて欲しいと思うかい?それはリナくんにとっての、ただの自己満足になってしまうよ。……だから、これで良かったんだ。」

    梨名は少し考えた後、僅かに元気を取り戻した声で答えた。

    「……うん。アタシのことは、一生恨んでていい。ただこれからは………………ううん、もういいや。……今はもう……」

    言いながら、自身の涙で濡れてしまったクリスのスラックスの太ももの辺りに、恥ずかしそうに指先で触れる。

    クリスはまるで気になどしていないように、シルクのハンカチを取り出し、いつもの様にゆっくりと、穏やかな光が灯るように優雅に微笑んだ。

    「フフッ、使うかい?まずはその涙を、これで拭うといい。」

    そう言いながら、マジシャンのようにフワリと広げて、目を細めて微笑み、それを梨名が掴むのを待つのだった。

    ※

    ニーチェはSM部屋の客室の扉をそっと開けると、ドア付近にある受け取りボックスに三つの包みを丁寧に置き、そっと蓋を閉じた。後ろでリンゴが「なるほどです……」と興味深そうに覗き込んでいる。

    ───
    「……………あら?もう届けに来てくれたの?……いいわ、こっちに来て顔を見せてちょうだい。まだ家畜は来てないから……」

    室内で待機していたオリアンヌが、気配を感じて入口まで静かに歩いてきた。そこにいた二人の姿を確認すると、少し驚いたように瞬きをした後、再び落ち着いた様子で話し始める。

    「……今日はクリスじゃないのね。……お疲れ様、……ニーチェくん、……だったかしら。……本当に、天使も一緒なのね……。」

    「……………どうも。客と鉢合わせると面倒なんで、僕たちはこれで。」

    オリアンヌは彼のその言葉を聞くと、まるで親戚の子どもが成長した姿を見届けたように、嬉しそうに、かつ上品に笑いだした。

    「まぁ、……うふふっ、……"悪魔"なのに、とても真面目なのね。ダビデ支配人が可愛がるのも、わかる気がするわ。………ねぇ、後ろにいる天使さん。もう一人の子羊に会っていく?それとも……同業者なら、この建物の外で待機しているわよ。挨拶してきたらどう?」

    ニーチェの背中に隠れるようにして立っていたリンゴは、やがてゆっくりとその顔をニーチェの肩越しに覗かせる。ニコニコとしているオリアンヌと目が合うと、笑顔とも、困惑とも取れない曖昧な表情を貼り付けて、恐る恐る口を開いた。

    「……お心遣いありがとうございます。……でも私にはそのどちらも必要ありません。……今はまだ……」

    それだけ言うと、リンゴは再びニーチェの背中に隠れるように、彼の悪魔の羽根に右頬を埋めて寄り添った。ニーチェが暑苦しそうに「おい、離れろ」と身じろぐ。

    「………そう、……集中したいってこと?邪魔されたくないのね。言っておくけど、彼がいる限りそちらの動向は全てこちらに筒抜けなのよ。……それすらも、あなたにはわかっていることなんでしょうけど……ならもう、何も干渉しないわ。……それでいいわね。」

    リンゴの天使の羽根が、1度だけぴくりと僅かに動いた。オリアンヌはつまらなそうにため息をつくと、それ以上は何も言わずに、再び部屋の奥へと戻っていく。

    ニーチェは首を傾げながら腕を組んで、無言で何かを考え込んだ。振り返って未だに自分の背後で縮こまっているリンゴを見ると、ダルそうに廊下の方を指さして部屋の外に出ろと促し、自身も退室して、SM部屋の扉を厳重に閉めた。

    ───

    フロントに戻るべく、しばらく廊下を歩いていたところで、ニーチェがおもむろに口を開いた。

    「なんだ、意外と子どもっぽいんだな。普段は去勢を張っているだけで、実はクリスより年下なのか?……おい、お前。あれは計算だろう?」

    自分の背中に寄り添うように歩いているリンゴに向かって、ニーチェわざと悪魔の羽根を大きく羽ばたかせ、彼女に距離を取らせる。

    「アキャッ!あわわわ、イッ、たぁいですぅ!」

    「いつまでそうしてるわけ?歩きにくいだろう、離れろ。………まあ巻き込まれさえしなければ何でもいいさ。……僕にはもう、……何もかも関係ないんだから。」

    リンゴはハッとして、彼のその背中に寄り添わせるようにぽつりと、彼の名を呟いた。

    「ニーチェくん……」

    二人は周囲をサッと見渡すと、下り専用のエレベーターに乗り込み、静かにその階を後にするのだった。

    ※

    「……え、まだ直っていないんですか?……そうですか………。いや、あのドワーフの業者、どうりで胡散臭いと思ったんですよね………。」

    フロント内部にて、例のマジックミラーと映写機の不具合の報告を受けながら、ダビデは事務椅子ごと身体をクリスと梨名の方に向けて振り返り、顎に手を当てて何やらブツブツと呟いていた。

    「意地を張っていないで、そういった専門家やプロフェッショナルを呼ぶ時はきちんとオーナーに手配してもらえるように頼んだらどうだい?まあ全く動かない、という訳ではなかったのだけれど………何を思ったのか、ミラーくんは思い出話になんとやら……だったね?リナくん。」

    「……………はい。」

    ダビデがなんのことかわからずに顔を上げると、俯いてはいるが、そうしていてもわかるくらいに泣き腫らし、真っ赤になった梨名の瞳が彼の視界に入った。

    ダビデは一瞬驚いた様に身体を強ばらせたが、次の瞬間には視線を逸らし、脳内で緻密な計算式を数秒で完成させ、答えを導き出す。

    「……二人とも、ご苦労様でした。………あの、冷蔵庫に…、"白い貴婦人の手作りクリームアップルパイ"が入ってるんですけど……消費期限が今日だったのを急に思い出しまして…。私はもういらないので、リナさんが残りを食べてもらえますか?」

    「……へっ?あ、アップルパイ?」

    突然自分に話を振られたと思っていたら、彼の口から出てきた単語が実に甘ったるそうで、それでいて少しだけ心躍るような内容だったので、梨名は思わず顔を上げた。

    「……ええ。………ああ、地下の居住スペースでの話ですよ。本日は私が食器洗い担当でしたね、食べ終わったらお皿とフォークはそのまま流しに置いておいてください。」

    するとクリスが、サプライズでも受けたかのように嬉しそうに驚いた後、笑いを堪えながら梨名の肩にそっと手を置き、彼の気遣いにそっと追い風を出すように付け加える。

    「フフッ、行ってくるといい、リナくん。甘いものを食べた後は、少し眠たくなるだろうね。…ふむ、お昼寝もしておいで。」

    「………え、あの……アタシ………」

    だいぶスッキリしたはずが、梨名の視界が再びぼんやりと滲んでくる。一度流し方を覚えてしまったら、後はもう自分では止めることが出来ない。例えこの場に不自然でも、梨名は上を向いてやり過ごそうかどうか迷っていた。

    「私が貸したハンカチは、今日はそのまま持っていていいよ。」

    「……あ、はい……えと……いってきます………夜のピーク時までには戻る……から……っ………ます、から………!」

    梨名はすぐさま涙を堪えた声で言い切ると、走り去るようにフロント背面ドアから廊下へと出て行った。ダビデとクリスは、その足音が聞こえなくなるまでしばらく無言でいた。

    「………ふーん、地下で仲良く一緒に暮らしているというのは本当なんだね。食器洗い担当、というのは…代わりばんこにするのかな?フフッ、楽しそうだなぁ………ねえ、ダビデくん?」

    クリスはたっぷりと含みのある口調でそう言うと、ドア付近に立て掛けてあった予備の事務椅子をガタンと開き、ダビデから少し離れたところに置いて、そこに腰を下ろした。

    彼はむせ返るように咳をし、しばらく肩と背中を震わせた後、それを誤魔化すようにわざとらしく咳払いへと移行させる。無言でリネンモニターを指さし、それにクリスが目を向けたのを確認すると、ダビデはグルリと座っている事務椅子ごと背を向けた。

    「はいはいすぐに向かうさ。……それにしても、リナくんの君に対する態度は何一つ変わらないね。その後のケアを、君が丁寧にした、ということに他ならないんだろうね。まあリナくん自身も、"あの程度"ではという体質なのかもしれないけれど……おや、耳が真っ赤だよ?ダビデくん。」

    ダビデは答えずに、ガタガタと強めにキーボードを叩き始めた。謎の文字列がパソコンの画面に浮かび上がっていることくらい、見なくても明白であろう。

    クリスはわざと彼と彼の目の前にある精密機械から目を逸らした。ふと自身の右手を顔の前に掲げると、人差し指と中指の間に、ペン1本分の空間が開いていることに気がつく。

    クリスはクスッと口元で微笑むと、ゆっくりと立ち上がり、フロント背面扉のドアノブに手をかけた。

    「それじゃあ煙草を買ってきてから、客室清掃の業務に戻ろうかな。ついでにまた暇な時間が出来たら、ニーチェくんとポーション部屋で、自白剤でも開発してこようかな?勿論、試作品を飲むのは君だよ、ダビデくん。」

    「……ウッ、……?!……またそんな……物騒な……」

    ダビデが思わず振り返ると、既にクリスの姿はそこにはなかった。

    ホテルの廊下を映し出す監視カメラの映像が、重たいリネンワゴンを運ぶ悪魔の姿と、遠慮がちにそのすぐ後ろを歩く天使の姿を捉える。

    外の駐馬車場/馬繋ぎ場の映像は、そこでゆったりと立ち、煙草の紫煙を燻らせる一人の人物を捉えていた。気になって凝視していると、顔の横で右手をヒラヒラとこちらに振り、人懐っこく微笑んでみせる。挨拶するために、わざわざそこにいるのだろう。
    ───
    見知らぬ、ハンサムな男性だった。

    「………出待ち、ですかね。賑やかになってきましたね………。」

    ダビデはそう呟くと、胸に宿る温かな感覚に、ふいに全てを放棄した。しばらくはぼんやりと、そのまま事務椅子の上に、静かに身体を預けていた。

    ※

    ───
    地下に降りると、優しい明るさの間接照明が映し出す、見慣れた1Kの生活スペースが、時間帯を気にせずに梨名を出迎えてくれる。

    6畳ほどのフローリングの空間にリビング用のテーブル、椅子が二脚。片方はある程度年季が入っているが、梨名が使っている方はまだまだ新品みを帯びていて、形こそお揃いなものの、色は不揃いである。

    梨名のために用意された姿見には、淡い色のリネンの布が掛けられており、控え目に目隠しの役割をしている。

    少し離れた所に、異国模様のお洒落なラグ、その上にダビデが眠るために置いてあるメープル色のロッキングチェアが、斜めに佇んでいた。右奥に2畳ほどの小さなキッチンがある。

    梨名は、改めてその光景にほっと胸を撫で下ろすと、ゆっくりとキッチンまで移動し、冷蔵庫をそっと開ける。

    すると、開けてすぐ目の前の段に、4号ほどの大きさが入る白いケーキボックスが入っており、中を覗くための透明なプラスチックの窓から、美味しそうなアップルパイが丸ごと佇んでいるのが見えた。

    「……なんだ、まだ全然食べてないじゃん……アタシ……ケーキを丸ごと1つホールで食べたことないっての……」

    消費期限が今日、というのはそういうことにしておいて、後で支配人のフロント業務を代わって、彼にも食べさせてあげよう。

    梨名はぼんやりとそう考えて、キッチン台の上に箱を置き、横から開けてパイが乗っている下のトレーをそっーと引っ張ると、ステンレス製のスタンドに律儀に並べられた3本の包丁から1本を取り、自分が食べる分だけをザックリと切り分けた。

    ───

    梨名はダビデが愛用しているロッキングチェアに深く腰掛けると、置いてあったひざ掛けを膝に置き、そっと目を閉じる。

    テーブルにはつい先程役目を終えたばかりの、洒落たリム皿と、小さなフォークがまだ添えられていた。主役であったアップルパイの欠片は、もう残ってはいない。

    ―――影山、元気にしてる?今まで身代わりになってくれてありがとう。アタシにはアンタが必要だった。ずっと縋っていてごめん。本当にごめん。どうかアタシを一生許さないで。

    身体が先に眠りにつき、目まぐるしく機能する思考を置いてきてしまった。梨名はその狭間で、夢を見る。

    ニーチェが客室から出てきたカップルにお礼を言われている。リンゴが、いつの間にかワンオペで業務に当たっている。クリスがいない。フロント内部にも、休憩室にも、喫煙所にも、どこにも。いつものようにダビデ支配人が、今夜はどこで仮眠を取りますか?と尋ねてくる。

    ―――アタシは、頑張ってここで生きていこう。影山について考える時間を、毎日少しでも作ろう。業務のルーティンの中に組み込んでもいい。それと最後に………

    「………………………………………………かわいい、じゃん………それ…………………」

    ───
    ──
    ─

    ※

    「………っ!?………………?」

    …………アモン?何か言った?………違う?あなたじゃないの?

    「……み、ミクちゃん!?しゅ、集中して欲しいなぁ……。あとね、ミクちゃんはお尻が小さいから、……なんていうかこう、……顔との間に隙間が出来やすいんだよねっ。だからもっとこうギューッと、ギュギューッと全体重をかけて、あ、圧迫してほしいなっ!」

    「……あっ、ご、ごめんなさい……!?……じゃなくて、だ、…っ、黙りなさい!ナンバー22!!誰が口答えしていいって言ったの!?」

    ミクは腰に力を入れ、そこへ座り直した。指摘された通り、その小柄なお尻を男の顔面に乗せた状態で、股の間から男の上半身、だらしない腹部と下半身が、向こう側へだらんと寝そべっているのが見える。

    ミクは鞭のグリップエンドの部分で、男の胸部をグリグリと甚振った。

    本当は臍の周辺を虐めたいが、この体制で手を伸ばすと臀部に力が入らなくなる。すると面白いくらいに、気色悪く悶える呻き声がブルブルと鳴り響いた。丹田のさらに下辺りにそれが振動し、鳥肌が立つのを、彼女は怒りの感情で押さえ込んだ

    しくじった、家畜におしゃべりする隙を与えてしまうなんて。怖くて師匠の方を見れない。

    ミクが床の上で繰り広げるその遊戯を、ピジョンブルーの二つの瞳が、近くのベットに腰を下ろして足を組み、じっとりと見下ろしている。

    途端に悔しくなり、ミクは腹いせに男の左胸に、全体重をかけるようにして張り手を叩き込んだ。上から思い切り、手形が残るほど強く。

    男の顔には、屈服、敗北の色が張り付いて咲き誇る。
    ミクの目尻には、涙が滲んでいた。

    ──────

    Let's take a break for a moment....

     
     
    小説はカクヨムにも投稿してます。いせホテ7話はカクヨムの方で更新予定です。 こちらに掲載している全ての作品は、倉科リョーコオリジナル作品であり、著作権は全て私に帰属します。無断転載・無断使用は固くお断りいたします。

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