
経験は財産
僕は今、人生のターニングポイントに立っているのかも知れない。
【人生強制終了】
そんな印籠を突きつけられた気分だ。
2026年1月、新年早々、僕は「重症筋無力症」という指定難病を患い、人生設計のモデルケースから思いっきり脱線した気持ちだ。
とはいっても自分の理想のライフプランがあった訳ではない。
だが、世間的に見ても30代って、1番脂がのってる時期じゃないのか?
20代に経験してきたことを定着させて、これからの自身のキャリアとして研鑽していく。
今後の人生の方向性が決まる大事な時期だと僕は思う。
現に未経験業界へ転職したばかりの僕は新しい仕事を覚えるのに奮闘していた。
飲食に関わる資格や検定を認定する団体で働いている。
試験会場の運営が主な仕事だ。
自宅から会社まではdoor to doorで片道90分以上かかり、上り電車の満員電車は想像を絶するものだった。
地下鉄利用だったので、おしくらまんじゅう状態の車内の空気は常に淀んでいた。
駅でドアが開く度、降車した乗客が急いで地上へ向かう。そんな光景を毎日見ながら通勤していた。
帰りの際は、会社から駅までの短い距離をわざと、裏道を通ったりして遠回りをしていた。
サラリーマン唯一の楽しみである飲食店散策だ。
気になる店を見つけてはマークして、ランチや華金でふらりと立ち寄ったり、テイクアウトをして公園のようなスペースで食べたりする。
時には隣の駅まで歩いた日もあった。
そんな何気ない時間が楽しくて仕方がなかった。
ずっと憧れていたのだ。
東京の街並みをスーツを着て歩くことを。
仕事終わりに行きつけの店で一杯やることを。
スーツを着て電車に乗り、仕事帰りに同僚と飲みに行くことを。
おまえ何歳だ?って言われるかも知れないけど、そんな当たり前の光景に、ずっと憧れていた。
農業高校卒業から今日に至るまで、その憧れは変わっていない。
高校卒業後に、山形で農業研修生として働いていた頃は、同僚と呼べる存在はいなかった。
宮古島で住み込みバイトをしていた頃は、通勤の楽しみがなかった。
横浜で携帯ショップ店員をしていた時期もあったが、僕が思い描く「サラリーマン像」とはどこか違った。
千葉県のアウトドアリゾート施設では、20代の半分を過ごした。
仕事は充実していた。
色んな経験をさせてくれた。
同僚も部下もできた。
でも願望が全て満たされることはなかった。
そして、30歳という1つの節目に思い切って転職を決断した。
東京で働くようになり、
僕が夢にまで見ていた
孤独のグルメの井之頭五郎のような、
バラ色のサラリーマン生活が幕を開けたところだった。
そんな矢先…
緊急入院となってしまった。
最初に異変を感じたのは1月8日の午後だった。
仕事で埼玉の倉庫から都内の会社へ車を走らせていると、右の瞼に妙な違和感があった。
熱いような、押さえつけられているような感覚。
「寝不足かな」
年末年始の夜更かしが原因だろうと思い、その日は特に気にしなかった。
ところが翌日、仕事終わりの食事中に右の瞼がどんどん下がってきた。
目を開けようとしても、うまく開かない。
それでも
「年明け最初の一週間、頑張りすぎたかな」
くらいにしか考えていなかった。
さらに翌朝、鏡を見ると右の瞼だけが明らかに下がっていた。
さすがに少しおかしいとは思った。
だが、
「そのうち治るだろう」
そう考えて、また見て見ぬふりをした。
後になって知ったのだが、重症筋無力症は眼瞼下垂から始まることが多い。
ただ、多くの場合は数か月から数年かけてゆっくり進行するという。
ところが僕は違った。
右目の異変に気づいてから、わずか一週間ほどで全身に症状が広がったのだ。
食べ物を噛むことも、
飲み込むことも、
手を挙げることや、
言葉を話すことさえ、
思うようにはならなかった。
そして、食事や水を飲み込んだ拍子に激しく
むせ込み、その度に呼吸が苦しくなった。
ついには緊急入院することになってしまった。
呼吸困難
緊急入院
難病
そう聞くと絶望感MAXに感じるかも知れないが、
僕は「どうにかなるさ」くらいにしか思っておらず、深刻さはなかった。
なぜ、こんなにも楽観的なのか。
それは、僕にとってこの状況に妙な既視感があったからだ。
僕は幼少期の頃から、入退院の繰り返しの日々を送っていた。
3歳の時に母親ドナーで生体肝移植手術を受けている。
「先天性門脈欠損症」という非常に珍しい病気で生まれ、移植後も拒絶反応や合併症があったのだ。
その他にも色々な病気で、色々な病院のお世話になることが頻繁にあり、詳しく書き始めるとキリがない。
自分で言うのも何だが、病気のデパートみたいな子供だったのである。
うろ覚えなのだが、小学5年生くらいまでは、
毎年のように入退院を繰り返していた記憶があり、気付けば病院には顔なじみの看護師が何人もできていて、
僕にとっては「ただいま」という感覚だ。
なので、普通なら退院して嬉しいはずなのに、
入院中の出来事を思い返しては寂しくなり、
よく泣いていたのを今でも覚えている。
幼い頃から入退院を繰り返していたので、
小学校を休むことも多かったのだが、その間も学校の授業はどんどん進んでいく。
気付けば勉強も周りから遅れ、クラスメイトと僕との差は徐々に広がっていった。
僕だって遅れを取り戻そうと必死に勉強した。
ようやく掛け算ができるようになる。
だが、その頃には周りはもう割り算を習っていた。
ほかにも、僕が割り算ができるようになった頃には、クラスメイトは分数の勉強を始めている。
周りに追いついたと思ったら、
もう既にみんなは先に進んでいて、
それでも追いつこうと一生懸命勉強をしても、
ようやく追いついた頃には、またみんなが先にいる。
いつまで経っても追いつける気がしない。
どんなに頑張っても努力が報われない。そんな感覚だ。
そんなことの繰り返しだった。
中学に入学すると、生徒数も1学年2クラスだった小学校と比べたら、倍近くに増えた。
5分前行動や移動教室など規律のある校則の中で、この集団に埋もれていく感覚がなんとなく嫌だった。小学校時代からの学習の遅れや、冷やかしも重なり、僕は中1の夏頃から徐々に学校へ行かなくなった。
こうして、僕は学校に通うという選択を手放したのだ。
もちろん、不登校であることに多少の引け目を感じていた。
だが、母の考えは違った。
『学びの場は学校だけじゃない』
その言葉通り、僕の”学び”は教室の外へと広がっていく。
実際のところ、不登校とはいっても家でずっと過ごしていたわけではなく、母は色々な所に僕を連れ出してくれた。
美術展や音楽祭、
沢山の映画を見せてくれた。
時には遠出をして「土と平和の祭典」や「アースデイマーケット」など色々な場所に足を運んだ。
母を通じて、様々な生き方の大人と触れる機会があり、そこには学校では出会えない人や価値観、僕の知らない世界があった。
当時はただ楽しんでいただけだったが、今振り返ると、あの頃の経験が自分の物事の見方や感じ方の土台になっているような気がする。
1年生の後期に入って、自宅からそれほど遠くない所に、市の教育委員会が運営する適応指導教室があるのを知り、通い始めた。
そこには、様々な理由で学校へ通えなくなった自分と同年代の子が何人もいた。
初めの方は緊張したが、だんだんと打ち解けていき、休みの日には皆で遊びに行ったりするくらい仲良くなった。
不登校だったからこそ出会えた仲間たちだった。
今思い返しても不思議なのだが、互いに不登校になった理由を知らない。
誰も聞かなかったし、僕も聞かなかった。
聞く必要がないと思った。
僕はそれが楽だった。
当時の僕にとって、それはとても居心地の良い場所だった。
中学生生活後半にもなると、嫌でも進路の話が耳を塞ぎたくなるくらい出てくるが、
僕は中2の夏休みに、自分の進路を決めるキッカケに出会う。
自宅の近くのフリースクールが主催している
「農業体験」の企画に参加し、山形県へ行ったのだ。
初めての農業体験で、慣れないことばかりだったが、体を動かして働いた後は、すごく気持ちが良くて、作業後の温泉や食事が最高だった。
その後も、雪の時期や、田植えの時期など、農業体験の企画で山形に何度も足を運んだ。
この時はまだ、直接自分の進路とは、結びついてはいなかったのだが、中学の先生から
農業高校がある事を聞き、僕は自分の志望校をこの1校にしぼることにした。
中学の担任の先生は万が一のことを考えて、
一応、他の高校も併願した方が良いと、提案してくれた。
だが、僕は普通科の高校で教室の机に何時間も座っている自分は、全然想像できなかったし、「皆が行くから」、「行くのが当たり前だから」という理由で、どこか入れそうな高校へ適当に受験する気にはどうもなれなかった。
志望校を決めてからは、それまでの勉強の遅れを取り戻す為に、フリースペースの「学習サポート」で、受験対策をお願いした。
1対1の個別授業だったので、まわりを気にすることもなく、自分が分からないところは
先生方が根気良く教えてくれたおかげで、
無事「合格通知」を受け取ることができた。
高校入学に際して、当然不安もあったが、
全校で100人くらいの小さな学校だったのもあり、クラスメイトの名前や顔もすぐに覚え、
自分が思っていたより、スムーズに馴染めた。
部活は「自転車競技部」に入部し、レース用のロードバイクに乗って、週に3回の練習と、
「自転車競技部」がある高校は珍しいので、
年に1回の全国大会にも出場した。
その他には、「生徒会長」という大役を任せてもらうことになった。
生徒会長になる前は「不登校だった自分なんかが図々しい」、「自分なんかそんな大役務まらない」と、全く自信がなかったが、周りからの後押しもあり、思い切って引き受けた。
僕は高校に入って、それまで出来なかったことに挑戦し、経験することが出来た。
皆と一緒に勉強をしたり、
友達や先輩、後輩ができたり、
部活や委員会活動をやったり、
更には農業という新しい分野において皆と同じスタートラインに立つことが出来たのだ。
皆にとっては当たり前の学校生活かも知れない。
でも、僕にとってはその当たり前が難しくてなかなか出来ず、心のどこかでずっと憧れていたのである。
高校では、その憧れていた「当たり前」をひとつひとつ経験することができた。
高校卒業後は、農業研修生として雪国・山形県に単身飛び立った。
中学の頃の農業体験でお世話になった農家が18歳の僕を受け入れてくれた。
米やさくらんぼ、大豆に野菜、冬には味噌作りもやった。
時には早朝からの作業になる日もあったし、一日中体を動かしてヘトヘトになる日も少なくなく、大変な毎日だったけど充実感があった。
畑仕事はもちろん楽しかったが、それ以上に特に印象に残っている出来事がある。
当時、県内外から有志が集まって発足した
「イタリア野菜研究会」という新しい取り組みが立ち上がったばかりで、研修生だった僕も、メンバーとしてその活動に触れる機会があった。
農家、シェフ、野菜ソムリエ、行政など様々な人が一丸となって目標実現の為に力を合わせる。
住むところや立場は違うのに、みんなが同じ方向を向いていた。
それぞれが自分の仕事だけをこなすのではなく、
「地域をもっと盛り上げたい」
「農業界に新しい風を吹かせたい」
そんな熱い想いを胸に、本気で議論し、日々試行錯誤をして、本気で行動する大人たちがいた。
その熱量が、とにかく格好良かった。
18歳だった僕は、その場にいるだけで胸が熱くなったのを覚えている。
今思えば、あの時の光景が、僕の心のどこかに残り続け、人の熱量に心を動かされるような人間になっていたのだと思う。
雪国・山形を後にした僕は、今度は南国・沖縄(宮古島)にいた。
ゲストハウスのヘルパーとして、住み込みで働きながら生活を始めていた。
ここでは、本当にいろいろな人に出会った。
海外で活躍している舞踏家
世界中を旅しているバックパッカー
宮古島トライアスロンに出場する選手
不倫問題専門の弁護士なのに、自分の不倫が原因で裁判中の人までいた。
会社員、経営者、旅人、学生……。
年齢も職業も住居もバラバラ。
半年という滞在期間中に、僕は南国の島で、
とても濃い時間を過ごした。
そこで実に多種多様な生き方と出会ったのだ。
世の中には、本当にいろいろな人生があるのだと知った。
南のアイランドから神奈川県に戻ってきた僕は、横浜の携帯ショップで働きはじめた。
ショップ店員といっても、誰もが思い浮かべる
「窓口スタッフ」ではない。
僕は裏方として、窓口スタッフの業務全般を支えるバックヤードスタッフとして働いていた。
時には店頭の清掃や掲示物の差し替え、備品管理など、一見すると地味な仕事も担当した。
店舗で働く皆とは違う職種だったが、定職に就き、毎月給料をもらえることに純粋に喜びを感じていた。
数年後、同い年の新卒社員が2人配属された。
もし、僕が大学へ進学していて、この会社に入社していたら同期だったかもしれない。
そんなことを考えると少し親近感が湧いた。
新卒の2人を含め、同世代の同僚達とは仕事終わりに食事に行ったり、休日には遊びに行くくらい仲も良かったと思う。
職場の人間関係も良好で、友人もできた。
何ひとつ不満は無かった。
それでも、心のどこかに引っ掛かるものがあった。
やはり、新卒社員というものは、上司や先輩から何かと気にかけてもらい、研修など社員教育を受け、同期と励まし合いながら切磋琢磨をしていく。
それが、新社会人が会社の中で成長していくという一般的なサラリーマン像ではないだろうか。
僕は中途入社で、雇用形態や職種も違った。
そのため、同僚が受けているような社員教育があった訳でもなければ、自身の業務がどのくらい店舗に貢献できているのか、正直よく分からなかった。
もちろん、僕が冷遇されていたわけではない。
それでも、その輪を見ていると、どこか羨ましかった。
今振り返ると、自意識過剰だったと思う。
当時の僕は、自分で勝手に見えない壁を作り、疎外感や劣等感を抱くようになっていた。
自分の居場所は他にもあるのではないか。
そう感じて、他人と自分の比較をはじめた。
職場からの帰り道、夕方、1人で歩く。
スーツ姿のビジネスマンが足早に駅へ向かう。
楽しそうに笑い合うカップルが横を通り過ぎる。
電車の広告には、同世代の俳優の顔が並ぶ。
目に映るもの全てが眩しく見えた。
そして妬ましくも感じた。
隣の芝は青く見える、とはよく言ったものだ。
僕だって、病気や不登校、人より少し変わった仕事も経験してきた。
人とは少し違う景色を見てきたはずなのに。
他人の人生はよく見えるのに、自分がどこへ向かえばいいのか見えなくなっていた。
答えの出ない問いを繰り返し、自分の居場所を探し続けていた。
そんな時期に、ひょんなことから僕は怪しいビジネスの世界に片足を踏み入れる。
俗に言う情報商材やネットワークビジネスだ。
結論から言うと、すぐに辞めた。
僕が探していた答えは、そこにはなかったからだ。
ただ、会社員という働き方だけが全てではないことを知れたのは、ひとつの収穫だった。
授業料は少し高くついたけど…(笑)
会社の中にも外にも、自分が探し求めていた答えは見つからなかった。
気付けば、僕が勝手に抱いていた疎外感や劣等感は少しずつ大きく膨らんでいった。
そんな僕の疎外感を少しずつほぐしてくれたのが、とあるアウトドアリゾート施設だった。
約7年間にわたって、働くことになるこの場所で、僕はそれまで経験したことのない出来事を次々と経験していくことになる。
僕が配属された部署は、BBQ場やキャンプ場、アトラクションの管理・運営だけではなく、県内外の小中学校の校外学習などの団体の受け入れも担当し、幅広い範囲でいろいろな仕事を経験させてもらえた。
自然相手の仕事ということもあり、体力的な理由などで辞めていく人も少なくなかった。
僕が入社した年は、施設としても特に忙しい1年だったらしい。
夏は炎天下で汗だくになりながら屋外を走り回り、多い日には何百人ものお客様を迎える。
人手が足りず、一人で複数の現場を掛け持ちすることも多々あった。
正直、本当にきつかった。
大袈裟かも知れないが、元々身体が丈夫な方ではなかった僕にとっては、血反吐が出るくらいきつかったのだ。
それでも、苦楽を共有できる仲間がいたから、気合いと根性で乗り越えられた。
しかし、その仲間たちは一人、また一人と職場を去っていく。
気付けば入社から1年ほどで、上司を除けば、僕が部内で一番の古株になっていた。
翌年、世の中はコロナ禍に入った。
多くのレジャー施設が休業や入場制限をする中、屋外で楽しめるアウトドア施設の需要は急激に高まった。
僕たちの施設も一時は休業もしたものの、
営業再開後に、かつてないほどの忙しさを迎えることになる。
だが、前年の繁忙期を経験していたのは、上司と僕だけだった。
僕は歳上の後輩たちとチームを組み、うまく現場を回すための仕組み作りや、新しい企画、業務改善などに取り組んだ。
分からないなりに試行錯誤しながらいろいろ試してみた。
上司は、良い意味でも悪い意味でも細かく指示を出す人ではなかった。
「なんとか、うまくやってみてよ」
そんなふうに任せられることも多く、今思えば丸投げに近いことも少なくなかった(笑)
でも、その人は現場が大好きだった。
忙しい時は僕たちと同じように現場に立ち、一緒に汗をかきながら、「次はどうする?」と同じ目線で考えてくれる人だった。
だからこそ、自分の考えやアイデアを遠慮なく形にすることが出来た。
そんな積み重ねの中で、任される仕事は少しずつ増えていった。
そのひとつに、テレビや雑誌、YouTubeなどの撮影対応がある。
ロケハンの案内をしたり、撮影当日は番組スタッフに混ざって進行を手伝ったりすることもあった。
普段とは違う緊張感のある仕事だったが、そんな役割まで任せてもらえることが素直に嬉しかった。
また、夏休みやハロウィン、クリスマスなど、施設全体で行われるイベントの企画・運営チームにも、有志として参加するようになった。
通常業務とは別に、自分で時間をやりくりしながら関わる仕事だったが、子どもたちや家族連れの笑顔を見るたびに、自分も自然と嬉しくなった。
今思えば、あの場所で笑い合う家族の姿に、入退院を繰り返し、家族みんなで過ごす時間が少なかった幼い頃の自分を、どこか重ねて見ていたのかもしれない。
毎日違う出来事が起こる職場で、飽きる暇などなかった。
仕事は相変わらず忙しかった。
それでも、不思議と苦ではなかった。
自分が必要とされている。
自分で考え、自分で動ける。
その実感が、僕の中にあった疎外感や劣等感を少しずつ溶かしていった。
今振り返れば、僕は、仕事そのものが好きというより、「誰かの役に立てている」と実感あることが嬉しいのだと思う。
そしてもうひとつ。
当時、18歳だった僕が山形で胸を熱くした
「あの熱量」を、気がつけば今度は、自分自身の中にも灯っていた。
だから、いくらでも働けた。
残業も苦にならない。
人がやりたがらないような仕事でも、泥臭くこなした。
当時の僕は、生産性や効率なんてほとんど考えていなかったし、どうでもいいとさえ思っていた。
「気合いと根性で何とかする。」
理不尽な要求でも、根気強く、そして粘り強く取り組んだ。
一見、非効率だと思われることでも僕は、その時間を無駄だと思ったことは一度もない。
効率だけでは生まれないものがある。
僕と一緒に働いた事がある人は、分かってくれると思うが、
そう…僕はゴリゴリの脳筋タイプなのだ(笑)
そして、
一緒に汗をかき、
一緒に失敗し、
一緒に困難を乗り越えた時間は、人と人との距離を縮める。
苦楽を共にした仲間だからこそ、分かり合えることがある。
いや、もっと言えば、それ以外は本当の意味では分かり合えない、とさえ思っていた。
そんな仕事観が僕に染み付いていった。
だからこそ、この考え方は僕の中で一つの”基準”になった。
後から入ってきた新人スタッフに対しても、
「まずは一度、あの繁忙期を経験してからだ。」
心のどこかで、そう線を引いていた。
もちろん口にはしない。
でも、苦楽を共にした時間こそが信頼の証だと、本気で思っていた。
今振り返ってみると、老害気質のような一面を、20代の僕は既に持ち合わせていたようだ…。
そんな中、大きな転機が訪れる。
役職定年で、長年一緒に働いてきた上司が現場を離れたのだ。
後任は、以前は後輩だった社員だ。
働き方や考え方はまるで対照的で、それまで任せてもらえていたことも、逐一、確認や判断を仰ぐ形へと変わっていった。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、僕は前者の環境で育ってきた。
任せてもらうことで燃えていた僕は、少しずつ自分らしい働き方ができなくなっていった。
しばらくして、僕は温浴施設へ異動になった。
会社としてはジョブローテーション。
よくある人事だろう。
どんな仕事でもやる。
それが僕だった。
温泉清掃も、
朝5時出勤も、
夜24時近くまでの勤務も、
必要とされている実感があれば、決して苦ではなかった。
だがしかし、身体は少しずつ悲鳴を上げ始めた。
冬の外気温は氷点下になる日もあった。
その直後に90℃近いサウナへ入る。
館内は暖房。
外へ出ればまた冷気。
生体肝移植後、免疫抑制剤を飲み続けている僕の身体には、その寒暖差は想像以上に堪えた。
体調を崩し、休んでしまうことも度々あった。
それでも、
「会社には恩がある。」
恩返しの意味も込めて、身体に鞭を打ちながら働いていた。
でも同時に気付いてしまった。
この働き方を、一生続けられる身体ではない。
30歳になった。
これまでの20代は、気合いと根性だけで乗り越えてきた。
でも30代も同じ働き方を続けられる自信はなかった。
人より少し壊れやすい身体。
それは幼い頃から嫌というほど知っている。
ゴリゴリ脳筋スタイルには限界があるのか?
僕のアイデンティティがひとつ潰されてしまった気がした。
だからこそ、働き方を変えるなら今だと思った。
20代で積み重ねた経験を、次の10年へ繋げたい。
そんな思いが少しずつ強くなっていった。
会社に不満がなかったわけではない。
でも、それだけが転職理由ではない。
むしろ、一番大きかったのは、自分の身体と、この先の人生だった。
30代をどう生きるか。
その答えを探すために、僕はもう一度、新しい場所へ飛び込むことを決めたのだった。
病気になって得したことなんてひとつもない。
できることなら、健康な身体のまま30代をスタートしたかった。それが本音だ。
転職したばかりだった。
そんな矢先のことだったのだから。
ただ、こうして書き進めていると、一つ思うことがある。
僕の身体は何年も前から
「そろそろ休もう」
と言い続けてくれていたんじゃないだろうか。
でも当時の僕は「やる気!」「気合い!」「根性!」と、昭和のスポ根漫画みたいな精神論で全部押し切っていた。
身体からしたら、「だから言ったじゃん。」という話である。
…とはいえ。
こうして一冊分のネタが増えてしまったのも、また事実である。
不謹慎だと言われるかもしれない。
でも、作家というのは案外そういう生き物なのかもしれない。
嬉しい出来事も、失敗も、黒歴史も、病気でさえも。
「これ、いつか書けるな。」
そんな風に考えてしまう自分がいる。
我ながら、なかなか性格が悪い(笑)
振り返れば、僕の人生は遠回りばかりだった。
山形で本気の熱量に出会い、宮古島で多様な生き方を知り、横浜では他人の人生を羨ましがり、千葉では苦楽を共にする仲間の大切さを学んだ。一見バラバラに見えた経験が、気付けば一本の道になっていた。
そして今回の重症筋無力症もまた、僕の価値観をもう一度更新するために必要な経験だったのかもしれない。
最近では、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が、まるで僕に向けて作られた作品なんじゃないかと思うくらい胸に刺さる。
人生って、どうやら学校より授業数が多いらしい。しかも試験範囲は教えてくれないし、予告なしで抜き打ちテストまである。
今回のは、間違いなく過去一難しかった。できれば追試も遠慮したい(笑)
でも、どの出来事にも意味があった。
病気も、不登校も、山形も、宮古島も、アウトドア施設も、東京への転職も。
それらの経験が、今の僕をつくっている。
母は昔こう言っていた。
「学びの場は学校だけじゃない。」
あの頃の僕は「へぇ。」くらいにしか思っていなかった。まさか30歳を過ぎても、病院で人生を学ぶとは思わなかったけれど。
人生そのものが、学びの場だった。
だから、経験そのものが財産になる。
高校卒業の日、担任の先生が僕に贈ってくださった言葉がある。
だから、最後はこの言葉で締めたい。
「経験は財産」