
【短編小説】橋は、空だけに架かるものではない
あらすじ
千早神社を継ぐ宮司・悠介は、「宮司と巫女が結ばれれば神社は七代先まで災厄に見舞われる」という掟を恐れ、恋心を封じて生きてきた。着任した巫女・冬美と反発し合いながらも心を通わせ、七夕の夜ごとに想いを深めていく。しかし冬美に縁談が持ち上がったことをきっかけに、悠介は掟の真実を追い求め始める。半年以上におよぶ調査の末、蔵の古文書から、掟は神の怒りではなく、江戸時代の現実的な法度を恐れた歩き巫女と神主の「別れ」の記憶が誤って伝わったものだと判明する。七年目、雨で天の川が見えない七夕の夜、悠介は七年間の恐れに終止符を打ち、自らの意志で冬美に手を伸ばす。橋を渡った先も、二人の変わらない日々は静かに続いていく。
(全七章)
一章
橋は、渡る者のためではなく、渡らせない者のために架けられることもある。
千早神社を継ぐことは、生まれたときから決まっていた。そのことに何ら疑問はなかった。
悠介は三十代になった今でも、実家を出たことがない。物心つく前から、境内の掃き掃除を手伝わされ、祝詞の言葉を耳から覚え、父の後ろについて祭祀の所作を真似てきた。大学こそ東京の神道系の学校に進んだが、それも家を継ぐための準備期間のようなもので、片道90分はある学校へ毎日通っていた。
そして、卒業と同時に、当然のようにこの神社に戻ってきた。
祖父はとても厳しい人だった。
けれど境内で転ぶと、一番最初に駆け寄ってきたのも祖父だった。
掃除をさぼれば叱られた。
終われば縁側で西瓜を切ってくれた。
千早神社は、決して大きな神社ではない。それでも、この土地に根を張って三百年以上続いてきた社には、いくつもの言い伝えが積み重なっている。中でも最も重く語られてきたのが、宮司と巫女にまつわる掟だった。
――もし宮司と巫女が結ばれれば、神社は七代先まで災厄に見舞われる――
わたしがこの言葉を、単なる言い伝えではなく、実際に恐れるべきものとして受け止めるようになったのは、十歳の頃、祖父から聞かされた話がきっかけだった。
祖父の若い頃、隣の郡の神社に、掟を軽んじた宮司がいたという。その宮司は、当時の巫女と密かに想いを通わせ、ある年、二人でこの土地を出て、神職を辞めて結婚しようとした。祖父はその宮司と面識があり、出立の前夜、二人で酒を飲んだと話していた。
「あの男は、笑っていやがったよ。これでようやく、普通の人間に戻れるって。ばかを言うな、と俺は言ったんだがな…」
祖父の声は、その部分だけ、いつもより低くなった。
「翌朝、峠道で車が崖から落ちた。二人とも、即死だった。事故と言えば事故だ。だが、俺はどうしても、それだけだとは思えなかった」
祖父はそう言って、しばらく黙り込んだ。それから、わたしの肩に手を置いて、こう言った。
「お前がこの神社を継ぐなら、この話は忘れるな。信じるかどうかは、お前次第だ。だが、疑って確かめるには、代償が大きすぎる」
その言葉は、以来、わたしの中に深く根を張った。信じているのか、恐れているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、確かめようとは、一度も思わなかった。
その考えが揺らぐことになったのは、わたしが三十二歳になった年の春、一人の女性が、巫女として奉職してきたときからだった。
当時のわたしは、自分の人生に何の疑問も持っていなかった。毎朝同じ時間に起き、同じ手順で境内を清め、同じ祝詞を捧げる。参拝客が減ろうが増えようが、季節が巡るのを見送りながら、ただこの土地と社を守り続けることが、自分に与えられた唯一の役目だと信じていた。恋愛や結婚について、両親や親戚から時折、話を振られることはあったが、そのたびに「いずれ縁があれば」と、はっきりしない返事で流していた。実際のところ、誰かを好きになるということが、自分の人生の中に組み込まれるとは、想像したこともなかった。
二章
初めて会う人は、たいてい前世からの敵のような顔をしている。
彼女の名前は冬美。前任の巫女が定年で退いたあと、知人の紹介で来ることになった、二十代前半の女性だった。
最初の印象は、正直、あまり良くなかった。彼女は着任初日から、神社の古いしきたりに対して、いちいち「なぜそうするのか」と質問をぶつけてきた。
「この所作は、なぜこの順番でなければいけないんですか」
「昔からそうだから、としか言えません」
「それだと、答えになってないと思います」
わたしはそれまで、しきたりに対して疑問を持つ人間に出会ったことがなかった。だから最初は、正直、うんざりしていた。彼女もまた、わたしのことを「頭の固い、面白みのない宮司」だと思っていたに違いない。実際、着任して最初の数ヶ月は、事務的な会話以外、ほとんど言葉を交わさなかった。
一度、大きく言い争ったこともある。祭りの際に飾る花の並べ方について、彼女が「もっと参拝客が写真を撮りやすい配置にしたほうがいい」と提案してきたとき、わたしは「見た目のためにしきたりを変えるつもりはない」と、かなり強い言葉で突っぱねた。
彼女はその場で何も言わず、ただ黙って作業を続けた。その日の夜、一人で拝殿の戸締りをしているとき、彼女が置いていった提案書のメモを見つけた。写真映えのことだけではなく、実際には雨の日に参拝客が滑らないようにという配慮も書かれていたことに、そのとき初めて気づいた。自分の思い込みだけで彼女の考えを判断していたことに、わたしは少し恥ずかしさを覚えた。
翌日、わたしは彼女に、花の配置について彼女の案を採用したいと伝えた。彼女は驚いた顔をして、それから「珍しいですね、宮司さんが意見を変えるの」と、少し意地の悪い笑みを浮かべた。その笑い方を、わたしは後になって、何度も思い出すことになった。
夏の終わり、台風で拝殿の屋根の一部が傷んだときのことを、わたしはよく覚えている。修繕の職人が来るまでの数日間、雨漏りを防ぐため、二人で夜通し交代で、バケツの水を替える作業をしていた。深夜、社務所の廊下で二人きりになったとき、彼女は少し眠そうな声で、京都にいた頃の話をしてくれた。
「大きな神社にいた頃は、正直、自分がここにいる意味を、あまり感じられなかったんです。参拝客は多いし、儀式も立派だけど、誰もわたし自身を見てなかった気がして」
「ここは、逆に誰も来ませんけどね」
「ここでは、宮司さんが、ちゃんとわたしのことを見てくれている気がするんです」
その言葉を、彼女は特別な意味を込めずに言ったのだと思う。けれど、雨音だけが響く深夜の廊下で、その一言は、わたしの中に小さな灯りをともした。
冬になり、初詣の準備で神社が慌ただしくなった頃、神社の裏手の巫女寮で暮らしていた冬美が体調を崩し、三日ほど寝込んだことがあった。人手が足りない中、わたしは一人で早朝からの祈祷や参拝客の対応をこなしながら、合間を縫って、彼女の部屋に粥を届けた。
「宮司さん…すみません、こんな時に」
布団から顔だけ出した冬美は、熱で赤くなった顔で、申し訳なさそうに言った。
「気にしないでください。こういうときのための宮司ですから」
そう答えると、冬美は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「悠介さんって、意外と面倒見がいいんですね」
「意外と、は余計ですよ」
軽口を叩き合いながらも、わたしは額の濡れタオルを替え、水差しを枕元へ寄せた。
三日目の朝、ようやく熱が下がった冬美は境内に戻ってくるなり、真っ先にわたしのところへ来て、「ありがとうございました」と、深く頭を下げた。
「いえ、これくらい、当然です」
「当然、で片付けられると、少し寂しいです」
冬美はそう言って、いたずらっぽく笑った。その表情の意味を、当時のわたしは、まだ正確に読み取ることができなかった。ただ、彼女の体調が戻ったことに、自分でも驚くほど安堵している自分に気づいて、少し戸惑っていた。彼女が境内を歩く姿を見て、胸の奥で張りつめていたものが、ようやくほどけた気がした。
あれほど噛み合わなかったわたしたちは、季節を重ねるごとに、少しずつ言葉を交わすようになっていた。
朝の掃き掃除も、祭りの準備も、何気ない昼食の時間も、気づけば隣に彼女がいることが当たり前になっていた。
当たり前というものは、不思議なもので、失うことを想像した瞬間に、その大切さを知る。
季節は、人より先に心の距離を知っている。
三章
年に一度だけ、星は人を待つ。
わたしたちは、それぞれ自分の気持ちに気づいていたと思う。けれど、どちらも口にはしなかった。
ただ、一年に一度、七夕の祭りの夜だけは、少し違った。
祭りの片付けが終わり、参拝客がすべて帰った後、境内には誰もいなくなる。そんな夜、わたしたちは、社務所の縁側に並んで座り、星が出ていれば天の川を見上げ、出ていなければただ夜風を感じながら、その年一年のことを、ゆっくりと話し合った。
一年目の七夕は、まだぎこちなかった。何を話せばいいのか分からず、天気の話や、来年の祭りの人手の話ばかりしていた。それでも、彼女が「来年もこうして話せたらいいですね」と言ったとき、わたしはその言葉を、一年間ずっと覚えていた。
その年の秋祭りの日、神社は珍しく人であふれていた。焼きそばの匂い、子どもたちの笑い声、神楽囃子。冬美は、迷子になった男の子の手を引いて、境内を歩き回っていた。
「お母さん見つかった?」
しゃがんで目線を合わせるその姿は、普段の巫女姿とは、どこか違って見えた。男の子が母親のもとへ駆けていくのを見送って、冬美は安心したように息を吐いた。
「お疲れさまでした。」
声をかけると、彼女はこちらを見て、少し笑った。
「子どもって、可愛いですねぇ」
その笑顔を見て、いつかこの神社にも、こんな笑い声が増えたらいい――そんなことを、ほんの一瞬だけ考えた。すぐに、打ち消した。考えてはいけない未来だった。
その年の冬、境内が一面の雪に囲まれた朝があった。誰の足跡もない早朝、冬美が社務所から飛び出してきた。
「悠介さん、見てください」
「一番乗りですね。」
そう言って、迷わず雪へ足を踏み出す。小さな足跡が一つ、白い境内に残った。
「悠介さんも」
「子どもじゃないんですから。」
「そんなこと言わずに。いいから」
仕方なく、隣に並んだ。雪の上には、二人分の足跡だけが続いていく。
「消えちゃいますね」
冬美が呟いた。
「雪は溶けますから」
「でも、歩いたことは、消えません」
その言葉を、わたしはしばらく、頭の中で繰り返していた。
年が明け、初詣の日を迎えた。神社が一年でいちばん忙しくなる日だった。参拝客の列、祈祷、お守り、甘酒――休む暇もないまま、一日が過ぎていった。
夕方、最後の参拝客を見送ったあと、二人して縁側に座り込んだ。
「終わりましたね。」
「はい。終わりました」
冬美は、湯呑みを両手で包みながら言った。
「去年は、熱を出して寝込んでしまって、何もできませんでしたから」
「今年は、少し役に立てた気がします」
「十分ですよ。」
そう言うと、彼女は少し照れたように笑った。その笑顔を見ているだけで、慌ただしかった一日の疲れが、不思議と軽くなった。
数日後、大雪の日だった。
境内の雪かきを終え、二人は社務所のストーブを囲んで昼食を食べていた。
窓の外では雪が絶え間なく降り続いている。
「京都って、雪多いんですか。」
「意外と降りますよ」
冬美は味噌汁を飲みながら言った。
「寒かったでしょう。」
「でも、ここの寒さは違います」
「どう違うんです。」
冬美は窓の外を見た。
雪の積もる境内。
風が吹くたび、社殿の鈴が小さく鳴る。
「静かなんです」
悠介も外を見る。
白く染まった境内には誰もいない。
ただ雪だけが降っている。
「まぁ静かですね。」
「はい」
少し沈黙が流れた。
「私は、この静かな神社が好きです」
悠介は返事をしなかった。
ストーブの火だけではない温もりが、その小さな社務所には確かにあった。
春になると、境内の桜が一斉に咲いた。千早神社は小さな社だが、山あいにあるせいか、毎年、町よりも少し遅れて満開を迎える。
「ここだけ、時間がゆっくりなんですね」
初めて満開の桜を見た冬美が、そう言った。
「町の桜が散った頃に咲くので、毎年そう言われます」
花びらが風に舞う。冬美は、その一枚を手のひらで受け止めた。
五月になると、境内は新緑に包まれた。落ち葉掃きとは違う、雑草との終わりのない戦いが始まる季節だった。
「終わりませんね」
「終わりません。」
「神様って、草むしりはしないんですか」
「そのために、人間がいるので。」
「便利ですね」
そんな他愛のないやり取りをしながら、一日が過ぎていく。気づけば、黙って作業をしていても、気まずさを感じなくなっていた。
六月、茅の輪を作る日。青々とした茅を束ねながら、冬美が首を傾げた。
「これって、毎年、全部手作業なんですか」
「昔から、そうです。」
「機械化しません?」
「神様が、怒ります。」
「また、そうやって適当言う」
静かな笑い声が、境内に響いた。
ある晴れた日の昼。
いつものように社務所で昼食を食べながら、冬美が一枚の紙を差し出す。
「あの、これ、作ったんで見てもらえますか」
「何ですか。」
「七夕祭りの案内です」
悠介はさっとチラシに目を通す。
短冊、雅楽、屋台、
など、今年の七夕祭りの催し内容が書いてあり、そしてチラシの最後の方には、
「SNSで祭りの様子を投稿しよう」
という一文があった。
悠介は少し眉をひそめる。
「これは必要ですか。」
「必要だと思います」
「神社は写真を撮る場所ではありません。」
冬美は少し黙る。
それから静かに言う。
「でも、知られなければ来てもらえません」
「毎年恒例の催しなので、地域の方々には認知されています。来る人だけで十分です。」
「本当にそう思ってるのですか」
少し空気が張る。
悠介は言う。
「神社は観光施設ではありません。」
冬美は少し困った顔をしながら、
「もちろんです。でも来てもらわないと、この神社を知る人も減ってしまいます。」
「……。」
「伝統を守るためにも、知ってもらう努力は必要だと思います。何百年も続いてる神社ですし」
社務所は普段より、一段と静まり返った。
昼食だけが無言で進む。
その夜、悠介は冬美とのやり取りを思い返していた。
確かに昔より参拝客は減っている。
子どもも少ない。
わたしが子どもの頃、祖父が宮司をしていた時は、この神社も活気に溢れていた記憶がある。
もし、今の状況を祖父が知ったらいったい何と言うだろうか。
考え方は違うものの、冬美の主張も理解はできなくはない。
そういえば……前にも、同じようなことがあったなぁ。
花の祭壇の並べ方を巡って、冬美と言い争った日のことだった。
あの時も、自分は「昔からそうだから」としか答えられなかった。
翌朝、置いてあったメモを読み返して初めて気づいた。
彼女が変えたかったのは、しきたりではない。
参拝する人への思いやりだったのかもしれない。
あの日以来、自分は彼女を少しずつ信じるようになったはずではなかったか。
それなのに今日もまた、話を最後まで聞こうともしなかった。
わたしが守ろうとしているのは、本当に神社なのだろうか。
それとも、「昔から」という言葉に隠れている、自分自身なのだろうか。
夜風が笹を揺らした。
翌日、最初にその沈黙を破ったのは悠介の方からだった。
「昨日の件ですが。」
視線こそ合わせないが、冬美は返事をした。
「はい」
「SNSは分かりません。」
冬美が苦笑する。
「まぁ、知ってます」
「SNSは苦手ですが……案内板くらいなら増やしてもいいかもしれません。」
冬美は目を丸くしながら、
「いいんですか?」
「来てもらうことと、神社を軽く扱うことは別ですね。」
冬美は嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます」
六月の終わり頃だった。
氏子の家へ祭りの案内を届けた帰り道、空が急に暗くなった。
「降りそうですね」
冬美が空を見上げた次の瞬間、大粒の雨が落ち始めた。
「急ぎましょう。」
二人で石段を駆け上がったものの、雨脚はあっという間に強くなった。
境内の外れにある、小さな東屋へ飛び込む。
屋根を激しく叩く雨音が、周囲の音をすべて消していた。
「結構降りますね。」
「梅雨ですから。」
それだけ言って、二人とも黙った。
雨を眺めるしかすることがない。
無言が続くなか、しばらくして冬美が、痺れを切らしたかのように、少し不機嫌そうな表情で言った。
「宮司さんって、本当に無駄話しませんよね。」
「必要がありませんから。」
「なんか、もったいないですね。」
「何がですか。」
「こういう時間」
彼女は雨を見つめたまま言った。
「雨の日って、急いでもどうにもならないじゃないですか。だったら少しくらい、ぼーっとしててもいい気がするんです」
その考え方は、わたしにはなかった。
神社で育ってからというもの、雨の日は雨の日なのであり、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、雨の日の仕事をするだけだった。
立ち止まる理由にはならない。
「京都では、よくこうして雨宿りしたんです」
「一人でですか。」
「友達とですよ」
そう言って笑う横顔は、年相応の若い女性に見えた。
いつも巫女として働く姿とは、少しだけ違って見えた。
やがて雨脚が弱まり始める。
「行きましょうか。」
「そうですね」
東屋を出ると、境内の木々は雨粒をまとって、いつもより鮮やかな緑に見えた。
歩きながら冬美がぽつりと言った。
「雨も悪くないと思いませんか」
わたしは少し考えてから答えた。
「……そうかもしれません。」
その返事を聞いて、冬美は嬉しそうに笑った。
そうして迎えた二年目の七夕、短冊を結ぶ彼女の指先を、わたしはよく覚えている。
笹の枝に短冊を結びながら、冬美がふと、こちらを見て笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥にこれまで感じたことのない温かさが、静かに広がっていく。わたしは初めて、自分が彼女に好意を寄せているのだと認めた。
その瞬間から、七夕は一年で一番待ち遠しい日になった。
同時に、祖父の言葉と、あの峠道の話が、これまでとは違う重さで胸に立ちはだかった。
その夜、彼女の実家の話を初めて聞いた。東京で育ち、京都の大きな神社で奉職していた彼女が、なぜ知人から紹介された数ある選択肢の中で、この山あいの神社を選んだのか。その理由を、そのとき初めて教えてくれた。
「小さい頃、家族で参拝に来た神社が、こんな雰囲気だったんです。静かで、誰にも急かされない場所が、ずっと忘れられなくて」
そう言って境内を見渡す横顔は、不思議なくらい穏やかだった。
「ここに来てから、あの頃の空気を毎日思い出してる気がします」
その言葉を聞いて、わたしは初めて、彼女がこの土地に根を張ろうとしていることを、はっきりと感じた。もう、この気持ちは、単なる同僚への親しみではないことも、はっきりと自覚していた。
三年目の七夕は、雨だった。
祭りの最中から降り始めた雨は夜になっても止まず、境内の石畳は濡れて黒く光っていた。例年より参拝客も少なく、笹に結ばれた短冊は、雨粒を受けて静かに揺れていた。
片付けを終える頃には、社務所の軒先から落ちる雨だれだけが、静かな境内に規則正しい音を刻んでいた。
わたしたちは縁側ではなく、雨の吹き込まない軒下に並んで立ち、見えない夜空を眺めていた。
「今年は、織姫と彦星も会えませんねぇ」
冬美が、少し残念そうに呟いた。
「さぁどうでしょう」
わたしは雨雲の向こうを見上げた。
「雲の上では、ちゃんと会えているのかもしれません」
冬美は少し驚いたようにこちらを見て、それから小さく頷いた。
「そうですね。見えないだけ、なのかもしれません」
その言葉を聞いたとき、不思議と胸が軽くなった。
目に見えなければ、存在しないわけではない。
言葉にできなければ、想いがないわけでもない。
そんな当たり前のことを、その夜の雨が教えてくれた気がした。
しばらく黙って雨音を聞いていると、不意に風が吹き込み、冬美の肩がわたしの腕に軽く触れた。
彼女は慌てて少し離れ、「すみません」と小さくお辞儀をした。
「いえ。」
それだけ答えて、また二人で雨を眺めた。
肩が触れたのはほんの一瞬だったのに、その温もりだけは、不思議なくらい長く残っていた。
四年目は、逆に雲ひとつない夜だった。
祭りが終わる頃には昼間の暑さもすっかり引き、境内には涼しい風が流れていた。社務所の縁側に腰を下ろすと、見上げた夜空には、天の川が白く帯のように広がっていた。
「今年は、よく見えますね」
冬美が夜空を見上げながら、小さく息をついた。
「見てください。あそこが織姫で、少し離れたあちらが彦星ですよ」
指先で夜空をなぞるように星を結んでいく。
わたしは星ではなく、その横顔を見ていた。
「ちゃんと聞いてますか」
そう言って冬美が笑う。
「聞いています。」
慌てて空を見上げると、彼女は少しだけ意地悪そうに笑った。
「絶対、嘘ですね」
その笑顔につられて、わたしも「ふっ」と鼻で笑ってしまった。
しばらく夜空を眺めていると、冬美がぽつりと言った。
「七夕って、本当はかささぎが橋を架けてくれるっていう話、知っていますか」
「橋ですか。」
「はい。天の川を渡れない織姫と彦星のために、かささぎが翼を広げて橋になるんです」
わたしはもう一度、夜空を見上げた。
「そういう橋なら、一年に一度しか渡れませんね。」
冬美は小さく息を吸った。
「だから、年に一度の逢う瀬が大切なんでしょうね」
夜風が吹き、笹飾りがさらさらと鳴る。
その音に混じって、一枚の短冊が枝から離れ、縁側へ舞い落ちた。
「あっ。」
二人が同時に手を伸ばす。指先が、ほんの少しだけ触れた。
互いに慌てて手を引っ込める。冬美は少し照れたように笑い、わたしは拾い上げた短冊を黙って彼女へ渡した。
「ありがとうございます」
その一言だけだった。
それだけなのに、その夜のわたしは、何度も自分の指先を見つめていた。
ほんの一瞬触れただけの温もりが、いつまでも消えなかった。
五年目、短冊を書き終えたあとのことだった。風に揺れる笹を眺めながら、二人で誰もいない境内をゆっくり歩いた。
「七夕が終わると、一年があっという間ですねぇ」
「そうですね。」
「また来年も」
その短い言葉だけで、お互い十分だった。
その約束が、こんなにも重い意味を持つことになるとは、このときのわたしたちは、まだ知らなかった。
そう、彼女に縁談の話が、翌年に持ち上がることになるとは、まだ知らないままだった。
四章
破った言葉ほど、深く胸に刻まれる。
六年目の初夏、冬美に縁談が持ち上がった。
この土地では、若い女性の数そのものが少なくなっていた。同年代の氏子の娘たちはすでに嫁ぎ、進学や就職で村を出た者も多い。だからこそ、遠方から来た冬美の存在は、以前から縁談相手として密かに噂されていたのだった。
縁談の相手は、地元の造り酒屋の息子で、真面目で評判のいい男だという話だった。
神社の氏子総代を通じて、その話がわたしの耳に入ってきた数日後、冬美自身が、社務所の掃除の手を止めて、こちらを見た。
「悠介さん。お話ししておきたいことがあります」
彼女の声は、いつもよりわずかに硬かった。
「縁談のことは、悠介さんもご存知だと思います。……実はお受けしようと思っています」
わたしは、何かを言おうとした。けれど、言葉が喉の奥で固まって、出てこなかった。
「そうですか。」
結局、その一言だけしか言えなかった。彼女は、その返事に何を期待していたのか、あるいは何も期待していなかったのか、わたしには分からなかった。彼女は小さく頷いて、また掃除の続きに戻った。
その夜、わたしは本殿で一人、いつものように祝詞を唱えようとした。だが、何度も同じ箇所で言葉が詰まった。何十年も繰り返してきた、体に染み込んでいるはずの言葉が、頭の中で霧のように散らばって、うまく形にならなかった。
わたしは祭壇の前に座ったまま、しばらく動けなかった。
神様を前にしているはずなのに、
脳裏に浮かんでくるのは冬美の顔ばかりだった。
雪の日。
雨宿りした東屋。
夜通し雨漏りを見張った夏。
熱を出した朝に「ありがとうございました」と笑った顔。
祝詞を唱えようとするたび、
その笑顔が浮かぶ。
何度目かの沈黙のあと、
わたしはようやく気づいた。
わたし自身が言葉を奪ったのだと。
自分の心から目を逸らし続けていただけだった。
わたしは、掟の言葉を思い返していた。宮司と巫女が結ばれれば、神社は七代先まで災厄に見舞われる。子どもの頃から、疑うことなく受け入れてきたその言葉が、初めて憎らしく思えた。
気がつくと、頬に一筋だけ温かいものが流れていた。
泣いていることに、自分でもしばらく気づかなかった。神前で涙を流したのは、生まれて初めてだった。
灯明の火だけが、何も言わずに揺れていた。
結局、その晩の祝詞は、最後まで唱え切ることができなかった。
就寝前、祖父から聞いた峠道の事故の話を思い返す。本当にあの掟と関係があったのか。誰かがそれを、確かめようとしたことはあったのか。神社の歴史を守ることを人生の目的にしてきたはずのわたしが、その歴史の根っこにある言葉を、一度も疑ったことがなかったという事実に、今さらながら愕然としていた。
それでも、わたしは動かなかった。動けば、神社に何が起きるか分からない。氏子たちの信頼を、一瞬で失うかもしれない。何百年と続いてきたものを、自分の代で断ち切ってしまうかもしれない。そう考えるたびに、わたしは自分の気持ちに蓋をした。
その年の七夕の前夜、わたしは社務所の裏のごみ箱を片付けているときに、いくつもの小さな紙片を見つけた。短冊にするための和紙が、細かく破られて、そこに捨てられていた。何気なく一枚を拾い上げると、そこには「来年も」という文字が、一部だけ残っていた。もう一枚には「会えます」、もう一枚には「馬鹿になれたら」という、書きかけの言葉が散らばっていた。彼女が、一晩のうちに、何度も何度も書いては破り、また書いては破りを繰り返していたことが、その紙片の量から伝わってきた。
わたしは、それらの紙片をそっと拾い集め、上着のポケットにしまった。
彼女がどんな気持ちであの言葉を書いては破っていたのか、想像するだけで、胸の奥が締め付けられた。
その夜、社務所には誰もいなかった。
障子の向こうでは、風が笹を揺らしている。
机の上には、七夕用の短冊が何十枚も重ねられていた。
冬美は一枚を静かに手に取る。
筆を持ち、ゆっくりと文字を書く。
書き終える。
読み返す。
静かに首を横へ振った。
ため息と一緒に、その短冊を半分に折る。
静かに破る。
細く裂ける和紙の音だけが、小さく部屋へ響いた。
また一枚。
筆を置く。
今度は少し長く書く。
書き終えて、しばらく眺める。
指先で文字をなぞる。
……違う。
それも破る。
机の脇には、小さな紙片が少しずつ増えていく。
「どうして……」
誰に向けた言葉でもなかった。
好きだから待つのか。
待つと決めたから好きなのか。
もう、自分でも分からなかった。
「無理なのかな……」
巫女という仕事は、一生続けられるものではない。
前任の巫女も、確か三十歳を迎える頃、この神社を去っていった。
自分も、その時期が少しずつ近づいている。
このまま何も変わらなければ、社を離れる日が来る。
頭の片隅では、京都へ戻ろうかとも考えていた。
それでも、不思議だった。
京都を思い浮かべても、胸は少しも動かなかった。
京都の空気は、もう自分に合わないと分かっているのに。
帰りたい場所は、もうこの神社になってしまっていた。
だから苦しかった。
待っているだけでは、
いつか、この場所そのものを失ってしまう。
余計に分からなくなった。
好きな人がいる場所に、期限だけが迫ってくる。
「無理なのかな……」
もう一度、同じ言葉を呟いた。
あの場では、縁談を受けると言った。
でも、本当は受けるつもりなどなかった。
だけど、このまま何も変わらないのなら……。
相手の人は何も悪くない。
きっと幸せにしてくれる人だった。
そう思った。
だからこそ、断る理由が見つからなかった。
返事はまだしていない。
最後まで言えなかった。
「好きな人がいます」と。
言ってしまえば、あまりにも惨めな気がした。
その人は、自分の気持ちを、
何ひとつ知らないのだから。
冬美は目を閉じる。
あの日の縁側。
雪の日の足跡。
雨宿りした東屋。
夜通し雨漏りを見張った夏。
熱を出した朝、
何も言わずにお粥を運んできてくれた人。
思い出そうとしなくても、
これまでの時間は勝手に胸へ浮かんでくる。
「馬鹿ですね……」
小さく笑う。
笑ったはずなのに、
目の奥だけが熱かった。
もう一枚、短冊を取る。
今度は、迷わなかった。
筆をゆっくり走らせる。
書き終える。
読み返す。
自分の顔から何かが一粒だけ、
文字のそばへ落ちそうになった。
慌てて袖で拭う。
この一枚だけは、
破りたくなかった。
静かに乾かして、
机の端へ置く。
足元には破かれた短冊がいくつも散らばっていた。
拾い集める。
紙片の中には、
もう読めなくなった願いが残っている。
全部まとめて、ごみ箱へ入れる。
蓋を閉める。
音が、思っていたより大きく響いた。
机の上には、
たった一枚だけ、
明日、笹へ結ぶ短冊が残っていた。
冬美は灯りを消した。
暗くなった部屋で、
その一枚だけが、
窓から差し込む月明かりを、静かに受けていた。
翌日、七夕の夜、わたしたちはいつものように、社務所の縁側に並んで座った。冬美が、笹に結ぶための最後の短冊を手に取り、そこに何かを書き込んでから、それをわたしに見せずに笹の枝へ結んだ。
「何を書いたんですか。」
「秘密です」
彼女はそう言って、少し寂しそうに笑った。そして、静かにこう言った。
「来年も、お会いできますか」
その一言に、前夜のごみ箱で見た紙片の記憶が重なった。彼女がどれだけの言葉を書いては破り、その末に、この短い一文だけを選んだのかを思うと、わたしはうまく返事ができなかった。
ただ「はい。」とだけ、
それだけを、絞り出すように答えた。
翌朝。
境内には昨夜の短冊が風に揺れていた。
掃除を始めると、冬美は一本一本、ほどけそうな短冊を結び直していた。
願い事が読めないように、
そっと裏返して結ぶ。
「全部結び直すんですか。」
「はい」
「風で飛んでしまう子もいますから」
そう言って笑う。
その横顔を見ながら、
わたしは昨夜の「来年も」という言葉を思い出していた。
誰かの願いを守る人が、自分の願いだけは誰にも見せずにいる。
そのことが、どうしようもなく胸に残った。
それから数日が過ぎた。
秋の気配が少しずつ境内に降り始めた頃、わたしは掃除をする冬美の姿を見つけた。
冬美はしばらく箒の柄を見つめていた。
掃き集めた落ち葉を一度寄せては、また散らばった葉を拾い直す。
その動きだけが、やけにゆっくり見えた。
「お断りしました」
彼女は顔を上げないまま言った。
風が吹いて、境内の銀杏が一枚、二人の間へ落ちた。
わたしは返事ができなかった。
言葉を探すほど、何を言っても遅すぎる気がしたのだ。
「理由は……聞かないんですね」
その声は責めるようでもなく、どこか諦めたようでもあった。
「聞いてしまったら、答えなければいけなくなる気がして。」
ようやくそれだけ口にすると、冬美は小さく笑った。
「そう、ですね」
それ以上、わたしたちは何も話さなかった。
箒が落ち葉を掃く音だけが、静かな境内に繰り返し響きわたっていた。
五章
真実は、埃をかぶった箱の底で、誰かに見つけられるのをただ待っている。
縁談の件があってから、わたしは掟の根拠を確かめずにはいられなくなった。
最初は、単に自分を納得させるための作業だった。神社に伝わる古い記録を読み直し、地域の郷土史を調べ、祖父の話に出てきた「隣の郡の神社」の名前を思い出そうとした。だが、神社に残る記録には、掟についての詳しい由来は、どこにも書かれていなかった。
次に向かったのは、県立の図書館だった。地域史のコーナーで、明治から昭和にかけての神社関係の資料を、片っ端から当たっていった。何度も通ううちに、職員の女性と顔見知りになり、彼女の紹介で、県の古文書館にも足を運ぶことになった。
古文書館の職員に、千早神社の掟の話をしたところ、思いがけない反応が返ってきた。
「その掟……たぶん歩き巫女の話と混ざっている可能性がありますね」
「歩き巫女、ですか。」
「江戸時代、各地を巡って神楽や祈祷をしていた女性たちです。神主との関係を禁じた記録は、意外と残っています」
「神主と……。」
「詳しくは、ご自身の神社の記録を探された方がいいでしょう」
この時、初めて知ったのは、「歩き巫女」という存在だった。
神楽や占いを生業にしながら諸国を巡る女性たち。
神社を訪れては奉納を行い、ときには神主の屋敷に泊まることもあった。
そして、その中には神主と恋に落ちる者も少なくなかった。
その話をたどって、わたしは同業の宮司仲間へ片っ端から連絡を取るようになった。
研修会や神職の集まりで顔を合わせる人間に、遠回しに「うちのような掟を持つ神社を知らないか」と尋ねて回った。ほとんどは「聞いたことがない」という返事だったが、一人の年配の宮司が、「うちの祖父が、似たような話をしていたことがある」と教えてくれた。
彼の祖父の代に、近隣の神社の宮司同士で、そうした掟についての情報を交換していた時期があったらしい。その宮司から、当時の記録が、うちの神社の蔵に一部移されているかもしれない、という思いがけない手がかりを得た。
結局、答えは、最初からずっと自分の足元にあった。
六年目の冬、蔵の屋根の修繕をきっかけに、奥の木箱を整理することになった。長年放置されていた木箱を、氏子総代の数人と一緒に、一つ一つ開けていった。冬美も、記録係として手伝ってくれていた。
箱の中には、江戸時代の帳簿や、当時の祭祀の記録が数多く残されていた。その中に、他の帳簿とは明らかに紙質の違う、一冊の手記が紛れ込んでいた。表には何も書かれておらず、最初は誰も気に留めなかった。冬美がふと、それを開いてみたいと言い、わたしが許可を出した。
最初の数ページは、当時の宮司(代々の記録では「神主」と記されていた)の日々の所感が綴られているだけだった。しかし途中から、明らかに私的な、切実な調子の文章に変わっていく。
そこには、ある年、諸国を巡る歩き巫女が、村の祭りの奉納のために、この神社を訪ねてきたときのことが、詳しく記されていた。
春の終わり、一人の旅巫女が社を訪れた。
名をお鈴という。
祭りが終わり、雨が続いたため、
神主は数日の逗留を許した。
最初は境内の掃除を手伝うだけだった。
やがて夕餉を囲み、
夜更けには神楽の話をし、
神主は気づけば、
彼女が笑うたびに、
その声を探すようになっていた。
手記には、二人が親しくなっていく様子が、初めはただの世間話として、次第に、隠しきれない情のこもった言葉として、綴られていた。
手記の最後には、こうも書かれていた。
「われらの選びしことを、後の世に禁忌として伝えるなかれ。ただ、われらが神社を守るために、自らの意志で選んだ道であったことを、忘れずにあれかし」
冬美がそれを読みながら、次第に表情を変えていくのを、わたしは隣で見ていた。
「悠介さん、これ……」
彼女が指した箇所を、わたしも一緒に読んだ。
半年以上かけて図書館や古文書館を巡り、宮司仲間に連絡を取り続けてきた末に、ようやくたどり着いた答えが、そこにあった。
そこには、旅の巫女と神主が結ばれることを禁じたのは、神の怒りではなく、その時代の現実的な法度だったことが記されていた。
もし知られれば、神主は詮議を受け、神社の立場さえ危うくなる。
だから神主は、お鈴を引き留めることができなかった――。
言い伝えられてきた「宮司と巫女が結ばれれば、神社は七代先まで災厄に見舞われる」という掟は、
そもそもの由来が、誤って伝わったものだった。
つまり、後世に伝えられてきた「宮司と巫女が結ばれれば、神社は七代先まで災厄に見舞われる」という言葉は、神の怒りとは、そもそも関係のないものだった。それは、当時の現実的な法度(旅の巫女と神主の密通を禁じた、寺社奉行と吉田家の取り決め)を恐れて、ある神主と、ある歩き巫女が、自らの意志で選んだ「別れ」の記憶だった。時代が下るにつれて、その現実的な事情は忘れられ、代わりに「神の怒り」「七代先までの災厄」という、より恐ろしく、より曖昧な言葉に置き換えられていったのだろう。
さらに言えば、その古い御法度が対象としていたのは、諸国を旅する「歩き巫女」との関係であって、神社に正式に奉職する巫女との関係を、そもそも禁じたものではなかった。にもかかわらず、後の世の人々は、その区別をなくし、「宮司と巫女」という言葉だけを残して、掟の対象をいつのまにか広げてしまっていたのだ。
祖父が話していた、峠道で事故に遭った宮司と巫女のことも、わたしは改めて考え直した。あの事故が、本当に掟のせいだったのか、それとも、ただの不幸な偶然だったのか。手記を読んだ今も、その答えは分からない。ただ、少なくとも、掟の根本にあったのは、呪いではなく、二人の人間の切実な選択だったという事実だけは、確かなものとして、わたしの中に残った。
この事実を知ったとき、わたしは、これまでの長い間、自分が何を恐れていたのか、分からなくなった。神の怒りでも、災厄でもなく、わたしはただ、遠い時代の御法度の記憶を、確かめもせずに、自分自身の恐れの理由にしてしまっていたのだ。
六章
橋は見えなくても、人は渡れる。
七年目の七夕は、朝から雨だった。
夕方になっても雨は止まず、空は厚い雲に覆われていた。天の川は、当然、見えるはずもなかった。祭りの片付けを終え、参拝客もすべて帰った後、わたしは一人、社務所の縁側に立って、雨に濡れる境内を見つめていた。
「今日は、会えないな…」
誰に言うでもなく、そう呟いた。古文書の内容を、まだ冬美には詳しく伝えていなかった。伝えるべきかどうか、この七年間の意味をどう受け止めればいいのか、自分の中でまだ整理がついていなかった。
そのとき、境内の向こうから、傘を差した人影が近づいてくるのが見えた。冬美だった。彼女は、雨の中、いつもの縁側に向かって、ゆっくりと歩いてきた。
「雨でも、来てくれたんですか。」
「悠介さんが、一人で待ってると思ったので」
彼女はそう言って、傘をわたしのほうに傾けた。雨粒が、傘の布地を叩く音が、静かに響いていた。
「あの、古文書のことなんですが」
「あの日、一緒に読んでから、ずっと考えていました」
彼女はそう言って、静かにうなずいた。
「掟は、間違って伝わっていたみたいですね。本当は、誰かに禁じられたわけじゃなくて、二人が自分たちで選んだことだったって」
「そうです。」
「じゃあ、わたしたちも、選べるんですね。誰かに禁じられているわけじゃないなら」
わたしは、その言葉に、七年分の答えを見た気がした。だが同時に、祖父の言葉も、峠道の事故のことも、完全に消えてなくなるわけではないことも分かっていた。真実を知ったからといって、これまで積み重ねてきた恐れが一瞬で消えるわけではない。ただ、その恐れを抱えたままでも、前に進むことはできるはずだった。
「七年間、怖かったんです。」
冬美は黙って聞いていた。
「神様を恐れていたつもりでした。」
「毎晩、本殿で祝詞をあげるたびに、同じことを祈っていました。どうか、この人を好きになりませんように、と。」
「でも違いました。」
「本当に怖かったのは、自分で選ぶことでした。」
「祖父の言葉を理由にして、掟を理由にして、
ずっと逃げていました。」
「渡れるかどうかを恐れるのは、もう終わりにします。」
冬美はしばらく黙っていた。
それから、小さく息をついて笑う。
「……悠介さんって、本当に天邪鬼ですよね」
「え?」
「好きにならないように祈ってたなんて」
少しだけ目を細めたあと、傘で顔を隠す。
「ずっと、好きだったくせに……」
悠介は何も言えなかった。
冬美は困ったように笑って、
「もっと早く言ってくれたらよかったのに……」
そう呟いた。
「天の川は、今日は見えませんね」
冬美が、傘の下から夜空を見上げて言った。
「橋は、空だけに架かるものではありません」
彼女はそう言って、傘を持つ手とは逆の手を、静かにわたしのほうへ差し出した。
わたしは、しばらくその手を見つめた。
彼女の手は、雨を受けた空気のせいか、少し冷えて見えた。
伸ばせば届く。
それだけの距離だった。
あと一寸だけで届く距離が、七年間でいちばん遠かった。
祖父の声が、雨音の向こうで聞こえた気がした。
「疑って確かめるには、代償が大きすぎる」
指先が止まる。
本当に怖いのか。
怖いのは神なのか。
それとも、自分が選ぶことなのか。
ゆっくりと息を吸う。
七年間、答えを先延ばしにしてきた時間が、その一息の中に溶けていくようだった。
わたしは手を伸ばした。
彼女の指先が、わずかに震えた気がした。
その温もりが伝わった瞬間、不思議なくらい、胸の奥から恐れだけが静かにほどけていった。
「わたしも選びましたよ」
悠介が冬美を見つめる。
「悠介さんが答えを出すまで待つことを」
雨粒が、傘の布と縁側の板を叩く音だけが、しばらくの間、静かに響いていた。神様に許しを求める必要はなかった。わたしたちは、宮司と巫女という役割を担った、ただの人間として、その夜、初めて自分たちの意志で、隣り合う場所を選んだのだった。
わたしの胸には、小さな痛みが残っていた。祖父の顔が、峠道の話が、七年間かけて確かめた真実とともに、まだどこかで、わたしの選択を見つめている気がした。幸せの中に、まだ拭いきれない何かが残っていることを、わたしはあえて、隠さないでおこうと思った。
終章
渡り終えた橋の跡にも、まだ足音は残っている。
朝、社務所で湯を沸かす音が聞こえる。
神社の裏手にあったあの巫女寮は、今はもう空いている。
「悠介さん、お茶入りましたよ」その声で一日が始まる。
あれから、また何度も七夕を迎えた。
あの日の選択が、神社にどんな影響を及ぼしたのか。七代先まで災厄が降りかかるという言い伝えが正しかったのか、それとも最初から誤って伝えられたものだったのか、それを証明する方法は、今のわたしたちにはない。ただ、あの雨の七夕から数年が経った今も、千早神社は、変わらずこの土地に根を張り続けている。
境内では、今年も七夕祭りの準備が始まっていた。
朝早くから笹が運び込まれ、氏子たちが色とりどりの短冊を机の上へ並べていく。毎年のことなのに、その光景を見ると、夏が来たのだと実感する。
昼過ぎになると、学校帰りの子どもたちが、競うように境内へ駆け込んできた。
「ねぇねぇー、七夕も書いていいー?」
「もちろん。いいですよ。」
筆を受け取った子どもたちは、思い思いに願い事を書き始める。
「サッカーが上手になりますように」
「ケーキ屋さんになれますように」
「おじいちゃんが元気になりますように」
まだ漢字の書けない子は、一文字ずつ声に出しながら、一生懸命に筆を動かしていた。
その様子を見守っていると、不意に、小さな女の子がこちらを見上げた。
「宮司さんは、願い事を書かないの?」
少しだけ返事に迷ってしまう。
昔のわたしなら、何を書いただろう。
神社が無事でありますように。
皆が健やかでありますように。
それとも――。
そんなことを考えていると、少し離れたところで短冊を結んでいた冬美が、こちらを見て微笑んだ。
その笑顔を見て、自然と答えが口をついて出た。
「昔は書いていました。」
「そうなの?じゃあ、今は?」
「今は……願うより、守りたいものの方が増えました。」
女の子は首を傾げたまま、「ふーん」と興味なさげに、他の子どもたちの方へ戻っていき、また夢中になって短冊を書き始めた。
風が吹き、笹がさらさらと音を立てる。
色とりどりの短冊が一斉に揺れ、その音は、どこか川のせせらぎにも似て聞こえた。
ふと、七年前の短冊を思い出す。
「来年も、お会いできますか」
たった一行の願いに込められていた、あの頃の想い。
今では、その願いを書いた本人が、子どもたちの短冊を一本一本、丁寧に結び直している。
短冊が風で飛ばされないように。
誰かの願いが、空まで届くように。
わたしたちはもう、願い事を書く必要がなくなった。
願うべきことは、あの雨の夜、すでに叶えてしまったからだ。
それでも、七夕が近づくたび、わたしは夜の境内を見上げてしまう。
晴れていれば天の川を。
雨が降っていれば、雨の匂いを含んだ夜の空を。
そして、今でもふと、祖父の話や、あの峠道の事故のことを思い出す夜がある。真実を知った今も、その記憶は、わたしの中で完全に消えることはない。ただ、その記憶を抱えたまま、隣に冬美がいてくれることを、わたしは何よりの支えにしている。
あの古文書は、今も本殿の奥に、丁寧に保管してある。
氏子総代とも相談し、これを機に掟についての言い伝えを、正しい形で伝え直すことにした。「宮司と巫女は恋をしてはならない」という禁忌の言葉ではなく、「かつて二人の人間が、神社と村を守るために、自らの意志で選んだ道があった」という、もうひとつの伝説として。
秋彼岸の日、祭事を終えたあと、わたしは祖父の墓へ向かった。
祖父の墓は、神社の裏山を越えた先の共同墓地にある。子どもの頃、何度も祖父に連れられて来た場所だった。
墓石を洗い、線香にライターで火をつける。
白い煙が、静かな空へゆっくりと昇っていった。
手を合わせても、すぐには言葉は出なかった。
長い沈黙のあと、ようやく口を開く。
「……ようやく、分かったよ。」
祖父が話してくれた掟も、峠道の事故も、祖父なりに神社を守ろうとして信じていたものだったのだろう。
だから、祖父を責める気持ちはなかった。
「でも、わたしは選びました。」
子どもの頃は、祖父の言葉は絶対だった。
大人になった今でも、間違っていたとは思わない。ただ、あの人もまた、自分が信じたものを守ろうとしていただけだった。
それが正しいのかどうかは、まだ分からないけれど、もう恐れだけに従って生きるつもりはなかった。
風が吹き、木々が静かに揺れている。
祖父が何と答えるかは分からない。
それでも、不思議と叱られている気はしなかった。
墓前を離れようとしたとき、後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、冬美が小さな花束を抱えて立っていた。
「ご挨拶しても、いいですか」
わたしは黙って頷いた。
冬美は祖父の墓に手を合わせ、静かに目を閉じた。
秋風が吹き抜け、落ち葉が足元を転がっていく。
墓参りからの帰り道、わたしたちは神社のことでも、掟のことでもなく、夕飯は何にしようかと話しながら山を下っていた。
そんな何気ない時間が、わたしは何よりも尊かった。
そして、小さな川に架かる石橋が見えてきた。
子どもの頃、祖父と何度も渡った橋。
悠介は立ち止まる。
「悠介さん、どうしました?」
冬美が振り返る。
「……昔、この橋を渡るたびに、祖父が言っていたことを思い出してね。」
「『橋はな、渡る前によく確かめろ。でも、確かめた橋まで渡らなかったら、それはただ臆病なだけだ』って。」
橋の下では、細い川が静かに流れている。
悠介は少し黙ったあと、川の上流の方を見つめて、再び口を開いた。
「昔は、“石橋を叩いて渡れ”ってことだと思ってた。」
冬美も橋を見下ろす。
「今なら?」
悠介は静かに答える。
「ようやく、分かった気がするよ。」
冬美は黙って聞いている。
「橋は、向こう岸へ行くためだけじゃない。渡った人が、また帰って来られるように架けるものでもある。」
悠介は一歩踏み出す。
「だから、渡ることを怖がるなって。」
そう言って二人で橋を渡る。
振り返ると、橋は思っていたより短かった。
渡れなかった七年間のほうが、ずっと長かった。
神社へ戻ると、夕暮れの境内には誰もいなかった。
風だけが笹を揺らしている。
冬美は社務所へ向かい、
わたしは一人だけ本殿へ上がった。
鈴を鳴らし、深く礼をする。
祝詞を唱える。
あの日、
言葉が詰まって最後まで読めなかった祝詞は、
今夜は最後まで自然に口をついて出た。
神様は、
何も答えなかった。
何も変わらなかった。
だからこそ、
わたしは少しだけ安心した。
神様は最初から、
橋を渡るかどうかを決める存在ではなく、
渡ろうとする人を、
静かに見守っていただけだったのかもしれない。
ふと、六年目のあの夜のことを思い出す。
祝詞が唱えられず、神前で初めて涙を流した夜。
あのとき流した涙は、恐れの涙だった。
今夜、目の奥が同じように熱くなりかけて、わたしは小さく笑った。
同じ涙でも、こんなに違うものかと思う。
あのときは、何かを失うことを恐れて流した涙だった。
今は、何も失わずにここに立てていることが、ただありがたかった。
灯明の火が揺れる。
七年前と同じ火のはずなのに、今夜は少しだけ、優しく見えた。
氏子の中には、わたしたちの選択を理解できない人もいたのかもしれない。
人が右を向けば、自分たちは左を向いたのかもしれない。
それでも、誰かが示した道ではなく、自分たちで選んだ道を歩いていることだけは、後悔していなかった。
参拝客の中には、今でも「本当に、七代先まで災いが起きるんですか」と、興味半分で尋ねてくる人がいる。そのたびに、わたしは冬美と目を合わせ、少し笑いながら答えることにしている。
「さあ、それは、わたしたち次第だと思います。」
その答えに、正解があるとは思わない。ただ、少なくとも今のところ、この神社に大きな災厄が降りかかったという話は聞いていない。むしろ、あの雨の七夕から、境内には以前より柔らかい空気が流れているように、わたし自身は感じている。
あの日、雨で天の川は見えなかった。
それでも、わたしたちは橋を渡った。
それを教えてくれた人が、今も隣にいてくれることを、わたしは何よりの幸いだと思っている。渡り終えた橋の跡にも、まだ足音が残っているように、
わたしたちが越えてきた七年間もまた、これからの日々の中に、静かに刻まれていくのだろう。
振り返れば、ただただ不器用な七年間である。
けれど、その不器用さがあったからこそ、わたしたちは自分たちの橋を渡ることができたのだと思う。
七夕の夜ごとに空を見上げるたび、わたしは思う。
あの日渡った橋は、天の川ではなく、人の心に架かる橋だったのだと。
橋を渡ったから、幸せになれたわけじゃない。
橋を渡ったあとも、毎日は変わらず続いていく。