
「ここが痛いんだよ」 プール遊びの始まり 4歳の息子が教えてくれたこと
「ここが痛いんだよ」
朝、リビングで涙を流しながら、4歳の息子が
胸にこぶしを当てて言った。
始まりはこれから暑くなっていく5月のことだった。
幼稚園のリュックを開けると「プール遊びのお知らせ」と書かれたプリントを見つけた。すっかり水着を着る機会がなくなっていた私は、水着とタオルさえあればプールに入れるだろうと思っていたのだ。
プリントに目を通して、驚いた。
今の時代はラッシュガードにサンダルまで必要なのか。それに加え、ゼッケンを付けなければならない。揃えるものが意外に多くて、ため息がでた。
感覚過敏の息子は水着を着ないかもしれない。それでも、もしかしたらという期待を込めて、来年も着られるように大きめの水着を買いにいった。
その日の夜、ゼッケンを付けた水着を息子に見せると、興味津々な様子で駆け寄ってきた。
「幼稚園でプールの日に着るんだよ」
息子は手触りを確かめるように水着に触れ、はにかみながらこちらを見つめてきた。
「わかった」と一言。
本当に理解しているのだろうか。
6月になり水着と水遊び用のTシャツを毎日持たせた。
けれど、帰宅した息子の水泳かばんを確認すると、Tシャツと水着は乾いたままだった。
まだ水遊びは何回もある。「まぁ、いいか」とあまり気にしないようにしていた。
肌が焼けるような暑さが続いたある日。
息子を幼稚園に送迎すると、担任の先生から「Tシャツを着て、登園してみませんか?」と提案された。
やはり息子は着替えを嫌がっていたようだ。水遊びやプール遊びに参加せず、園庭に立てられたテントの下で色水を作って遊んでいると聞いた。
本人が楽しいならいいかと思う一方、ちょっとぐらいみんなと遊んだらいいのに、と願ってしまう。
「お家からTシャツだけでも着てこられたら、そのまま水遊びができるかもしれません」と先生が言った。
家ではシャワーを浴びられるのに、何で幼稚園ではできないのだろう。
モヤモヤした気持ちを振り払うように「わかりました」と返事をした。
息子に目を向けると、少し離れたところで様子をうかがうように私たちの話を聞いていた。
翌朝。キッチンで息子のために朝食を準備する。
「今日はTシャツを着て、幼稚園に行こうね」
リビングのソファーでゴロゴロする息子に声をかけた。
「うん。じゃあ8時に着替えるね」と機嫌のよさそうな声が聞こえた。
私は息子に朝食を食べるよう促し、登園準備を進める。
キッチンでお弁当のおかずを詰めながら時計を見ると、すでに8時を過ぎていた。
「もう時間ないよ。体温も測らなくちゃ」
そう言ったが、息子は動かない。
「手伝うから、早く着よう」
Tシャツを手に持ち、着せようとすると息子は逃げ回った。
「やだ、やだ」
このやりとり、何十回続くのだろう。
もう、これ以上遅くなったら駐車場が混んでしまう。田舎にある幼稚園近くの道は車同士がすれ違うのもハラハラするほど狭いのだ。運転が苦手な私にとって、混雑する前に狭い駐車場に車を停めるのが重要だった。
「ねぇ、早く着て」
息子は無反応だ。普段は自分からTシャツを着るのに、何でだろう。
「……」
そういえば、幼稚園で先生と話しているとき、じとっとした目で見つめてきた息子の姿を思い出した。
……あっ、Tシャツを着たらプールに入らないといけないと気づいているのだ。
気配を消して息子に近寄り、後ろからさっと首にTシャツを通した。
すると息子は、苛立ったようにすぐに脱ぎ捨てる。
「もう、いい加減にして」
声に驚いた息子の目元から、大粒の涙がポロポロとこぼれた。
しまった……。きつく言いすぎた。
少し頭が冷静になった私は、しゃがんで目線を合わせる。
「なにが嫌なの?」と優しく落ち着いた声で聞いた。
「ここが痛いんだよ」
息子は握りしめたこぶしを胸に当てて言った。
一瞬、何を指しているのかわからなかった。
身体を確認するが、どこにもぶつけたような跡はない。
表情から嘘をついているようにも見えない。
でも、必死に何かを伝えようとしているのはわかる。
もう一度、息子を観察する。
「どこが痛いの?」と私は息子の目をまっすぐに見つめた。
息子が握りこぶしの親指を立てて、心臓をトントンとつついた。
「……」
もしかして、心が痛いってこと?
その瞬間、息子の涙とジェスチャーの意味がつながった。
そういえば、息子は初めてのことが苦手だった。他の子にとっては何でもないことでも、息子にとっては胸が苦しくなるほどつらいのかもしれない。
私は息子を泣かせて何をしているのだろう。
息子は和室に走っていき、重ねた布団の上にダイブして、シクシクと泣いていた。
週3回、息子の付き添いで幼稚園に通っていた頃は、周りの空気や視線に心がすり減っていた。なぜ、私は忘れていたのだろう。
子どもの気持ちがわからない親にはなりたくなかったのに。気づけば、自分の都合ばかり息子に押し付けている。
ふと時計が目に入った。
このままでは幼稚園の門が閉まってしまう。
泣いている息子の背中に声をかけた。
「ごめん。ママは気持ちがわかっていなかったね。もう、Tシャツは着なくていいよ。体操服を着ていこう」
そう言うと、息子は目を見開き、嬉しそうに微笑んだ。
それからは安心したのか、すんなりと自分で着替えた。さっきまでの重苦しい雰囲気が嘘のように穏やかになった。
幼稚園までの狭い道も、苦手な駐車も不思議と怖さはなく、落ち着いて運転できた。
車のドアを開けて、息子と手をつなぐ。園庭を歩いていき、教室の入り口に立つ先生に声をかけた。
「おはようございます。Tシャツ、着られませんでした」
息子とつないだ手に力が入る。
「そうですか、しょうがないですね」と先生が頷きながら、微笑んだ。
肩の力が抜けた。それほど頑張らなくてもよかったのだ。
ニコニコ笑顔で登園する息子の背中を見つめる。
理解していなかったのは私だった。
穏やかな風を感じながら、深く息を吸う。
私は軽やかな足どりで車に戻った。