
私の、わたし。
私は、人の名前が覚えられない。
芸能人もスポーツ選手も、頻繁に顔を合わせる知人の名前ですら、実はちょっと怪しい。
「昨日見たドラマが面白くて」
「なんていうドラマ?」
「医療系」
「誰が出てるの?」
「前にネットニュース、結婚!」
「誰と?」
「刑事ドラマに出てた人!」
いつだってこんなふう。
話したいことはたくさんあるのに、伝えたかった気持ちは、いつも途中で置き去りになる。
それでも仕事となると、そんな呑気なことは言っていられない。
大事な会議で、自分の会社の商品名が出てこない。
電話口で、肝心の名称が出てこない。
営業先で、相手の名前が出てこない。
一瞬の沈黙。
すべてが止まり、頭の中が白くなる。
伝えたい言葉は、泡のように消えてなくなる。
……どこにも見当たらない。
どうすれば、必要な名称がすぐに取り出せるのか。
紙やデータを、どう分けて並べるか。
最短で辿り着ける方法は……
「名前が出てこない」
そう思うより先に、その光景が頭に浮かぶ。
──リーダーの話す姿、みんなの顔、8階の会議室。
ページの右上、比較表のすぐ下。
共有ドライブ、会議資料フォルダ。
「なんでそんなに早く見つかるんですか!」
後輩は驚く。
名前は出てこなくても、覚えてる。
必要なものは、誰よりも早く取り出せる。
それでも、今日も備える。
頭の中にないものは、外に置く。
すぐ取り出せる形で、側に置く。
情報は、きれいに整えておく。
会社の人たちは、知らない。
ドラマの名前を探そうと、子供と一緒にスマホを覗きこむ。
画面に出てきた名前に目が止まる。
「〇〇〇〇!」
声が、ぴったり揃う。
それだけで笑いが止まらない。
伝えたいことがなんだったのかすら忘れて、他愛もない会話は延々と続く。
そんな時間は嫌じゃない。
それでも、すらすら名前を言いたい。
なのに、鍵がかかって取り出せない。
なんで私は、名前だけが出てこないんだろう。
昔からそうだった。
廊下の向こうから歩いてくる友達。
歩き方や仕草、シルエットの揺らぎ。
顔はぼやけて見えないけど、私の頭の中には、友達の顔がはっきりと浮かぶ。
誰よりも先に、手を振り合図を送る。
名前は、呼ぶ必要もなかった。
「なんで、あんな向こうからわかったの?」
その言葉は、今も残っている。
「〇〇社長の眼鏡の掛け方どう思う?
絶対わざとだよね」
「〇〇社長って、眼鏡かけてましたっけ?」
「冗談だろ、いつもかけてるじゃないか。
あんな特徴的な眼鏡に気づかないとかないだろう」
「そうでしたっけ?」
目を閉じる。
体格、しぐさ、動き方の癖。
相手の特徴はすぐに思い浮かぶ。
……眼鏡?
父の顔が、浮かぶ。
「ねえ、」
肩をトントンと二回叩く。
父が振り向き、こちらを見る。
「男の人、呼んでるよ。あそこ」
向こうを指差す。
背が高い人。
座っている人。
走っている人。
笑っている人。
それで伝わった。
父の目が、きらっと光る。
目を曇らせる。
目を伏せる。
目尻が上がる。
目尻が下がる。
私はいつも、父の顔を見ていた。
父は、耳が聞こえなかった。
工作の授業で、木の板に絵を描いた。
家にある端材を指差し、付けてと父に伝える。
私は、船を漕ぐジェスチャーをする。
父は頷き、危ないからあっちに行ってなさいと、手をパタパタ動かす。
しばらくして様子を見に行くと、箒の柄が、バッサリと切られていた。
驚いて首を振る。
箒じゃない!
あのジェスチャーは、オールのつもりだったのに。
父は、端材を指差し首を振る。
箒の柄を握って見せて、にっこり笑う。
私もつられて、笑ってしまう。
「何を笑ってるの!」
お母ちゃんに叱られた。
そんなことも、あったっけ。
休みの日はいつも、「行こう」と父を誘った。
「どこへ」とも聞かず、父は笑顔でこたえる。
大きな自転車と小さな自転車。
二台の自転車で、あてもなく向かう。
私はあっちへ行こうと向こうを指差し、こっちだよと父は手招きをする。
自転車を、ゆっくりと漕ぐ。
気がつけばまた、いつもの海。
海を見て、釣り人を見て、自転車を押しながら、ゆっくりと歩く。
時折、目を合わせ、微笑み、また歩く。
山を指差し、波を眺めて、また歩く。
ウミネコの声、波の音、ペダルの回る音、そして、二人の靴音。
父との会話は、今日のことか、昨日のことか、明日のことか。
朝か、昼か、夜か。
それだけで、足りていた。
色なら、唇の赤、白い歯、髪の黒。
葉っぱの緑、花びらは黄色にピンク。
空の青、海の青。
指を差し、父の瞳だけを見つめていた。
……なあんだ。
見ているものが、
ただ違っただけだったんだ。
わたしは、私。
昔も今も。