
六岡資生の嘘つきな秘書 (終)
「社長」
楚乃の姿が見えなくなってしばらくしてから、声は八柳だった。
「いたのか。……どこから?」
「全部です」
「恥ずかしいところを見るなよ」
資生はきまり悪い顔をして、振り返った。
「待たせて悪かったな。行こう」
ポケットに手を入れ、踵を返した時、珍しく八柳が従わない。
「一つ、お伝えしておくべきことがあります」
資生は嫌な予感がした。
楚乃が辞めるとか、異動したいとか、そういう類のことかもしれないと咄嗟に思う。
「秘書課への異動条件として、私は灘原さんにある条件を出しました」
「条件? どんな?」
「社長に恋愛感情を持たないこと」
「彼女はすでに好きな人がいるんだからそれは……」
「灘原さんに恋人はいません。彼女が、あなたの秘書になるためについている嘘です」
資生は眉間を押さえた。
「どういうことだ……?」
「保険のつもりでした。功を奏したとは思っています。少なくとも、社長の理性の助けにはなったでしょう」
「優秀な秘書様だ」
「私は嘘つきな秘書です。私には、社長の利益が一番ですので」
「なのに、このタイミングでバラす理由は?」
八柳は少し間を置き、
「私の嘘が、二人もの人間の人生を狂わせるかもしれない。そんな重荷を背負う気はありません」
資生は再び、背を向けた。
流れがあるのかないのか、わからないような穏やかな水面を、今は見るしかない。
「永遠子様とご結婚なされば、何も問題はありません」
「わかってる。だから……」
「ただ、社長は正しい選択をするのが上手すぎて、それはそれで面白みがないとも思いまして」
「……なんだよ、勝手すぎない?」
資生は苦々しく笑う。
「一体、俺にどうしてほしいんだよ」
八柳はわざとらしく考えたふりをして、
「どうなろうと、私は社長をお支えするのみです。秘書ですので」
水曜日のレイトショー。
シアター6のいつもの席。
スクリーンの色が楚乃の顔色を様々に変えていく。
心は動きを止め、移り変わる映像をただ瞳に写すだけの時間だった。
「この映画、僕たち二人だけだよ?」
「し、社長!」
頭上から声がして、楚乃は腰を上げかけたのを資生が制す。
「隣の席を買ったんだけど」
実際には一つ一つの座席ではあるが、楚乃は詰める仕草をして、左隣に資生が座る。
「……嘘つきな秘書さん」
楚乃は資生を見たが、資生はスクリーンを見たまま言った。
「結婚はしないことにした」
「え……」
「永遠子にも僕の家族にも伝えて、今、その帰り」
「どうして……」
「自分で決めた。一生しなくてもいいかなって」
少し間があって、資生も楚乃に視線を流した。
「だから、来週もまた、隣で観ていいかな」
誰も見ていないスクリーンの物語が、光になって二人を照らしている。
楚乃は前を向き、
「…… もちろんです」
とだけ言った。
三月。
まだまだ空気は冷たいが、社長室から望めるガラス越しの空はすでに春めいている。
資生はいつものように八柳からの報告を受けていた。
「SNSで話題になりました例の新しいウェアですが、各店舗で完売が続いており、増産を急がせています」
「よかった。今夏はみんなにボーナスを多く出せそうだな」
八柳は、タブレットを閉じ、
「……遅れてきた反抗期から、はや六年」
「それ、やめてくれって何度も……。こじらせてるみたいで恥ずかしい、いい年して」
資生は決まりの悪い顔をして、口をすぼめた。
一生結婚しないかもしれないと宣言したことを、ことあるごとに揶揄して言うのだ、八柳は。
窓の外のビル群が並ぶ景色には、確かにあの頃より新しいビルがいくつか増えた。
「お言葉ですが、実際そのまま文字通りだったかと思いますが。敷かれたレールから自らお外れになったんですから。当時は混乱もありましたが……。会長が心配して経営に口を出し始めるし、奥様はヒステリックになるし」
「ごめんって。八柳にも苦労をかけたよ」
はい、まあそれはいろいろと、と八柳は否定せず、
「幸い六岡の商売に、永遠子様との婚姻がもたらす影響は限定的でしたから救われました。お二人の場合、政略結婚というよりは人情的な意味合いが強かったので」
「とはいえ、わが社も日和って土地が絡む新規開発事業からは多少手を引かざるを得なかった。利権が絡むことに手を出しにくくなったのはある」
「家業が政界や経済界に関わる家柄だったら死活問題だったでしょう。しかし、こういうお話はたいてい女性の方が風当たりが強いので、奥様のヒステリーもわからないでも……」
「母さんとは今も冷戦状態だからな。父が間には入ってくれてるけど……」
資生は軽くため息をつき、椅子を回転させる。
「……あの時は永遠子も上手く立ち回ってくれたよ。僕の勝手に、怒りもせずにつきあってくれて、あげく丸く収めてくれた」
資生と永遠子は円満に別れた。
別れたというのも語弊がある。そもそも付き合っていた認識さえなかった。いずれ結婚する、そういうものだと疑いさえなかったから。
こんな気持ちでは結婚できないと永遠子に告げた時、「そうね、プロポーズもなかったしね」と言われて初めて、資生はそういう必要があったことを思い出したくらいだった。
「永遠子様も、社長を憎からず思っておられたとは思いますが」
二人のことを周囲もそういう目で見て、そう扱ってきたのは確かで、何より当の本人たちがそうなるものだと信じ切っていた。仮に結婚したとしても大きな問題なく、うまくいっていただろう、《《それなり》》に。
「……彼女も結婚に諦めてたところはあっただろう。冷めてるというか、考えることを放棄しているというか、相手が僕じゃなくても全然よかったし、僕だったところで「うん、別に嫌いじゃないしいい」くらいで。恋だの愛だので傷つかないための防衛反応もあるんじゃないかな、と自分も含めて思う」
資生は、もとより『恋愛』に対して、その本能は働いていたように感じている。
過去に一度も、誰かを狂おしいほど想うことなどなかったし、恋愛でそんなふうになるのは恥ずかしいことだと思っていた。
八柳は、自らも窓の外に目をやって、
「社長にあてられたのか、その後ご自身で恋愛結婚されました」
永遠子は二年後、外国人の画家と結婚した。
たとえば、実はずっと好きだったが身分差がとか、駆け落ちするとか、そういった劇場的ななれそめではなかったが、資生という足かせがなくなってから永遠子も自分の心に従う自由な恋愛というものをしてみたくなったのかもしれない。
「僕との縁が切れても、黙ってても似たような家柄との結婚は用意されただろうに、永遠子が何か能動的になってみた結果だったとしたら、少しは僕の影響はあったかもなぁ。まあ、それを許された末っ子という立場は大きいと思うけど」
今もたまに顔を合わせるが、二人の子どもにも恵まれて、とても幸せそうに伺える。
「ああ、永遠子様といえば」
八柳は、本当に今思い出したようで顔を上げ、
「先日、永遠子様のご友人のアンサンブルコンサートに社長も招かれて」
「うん、行ったね」
「その時のピンクのドレスの方を覚えておいでですか」
「さっとんだろ? 永遠子の友人の友人だよ。学生時代から知ってる」
「その方、あの鶴亀ホールディングスの義理の妹さんだそうですよ」
資生は一瞬考えて、
「え、ってことは財投さんがボン銀の頭取の娘婿!? さっとんも昔は行く先々でよく見かけたけど、顔見知り程度で、実家に戻ってるのも結婚したのも知らなかったくらいだし……」
「灘原さんが「相関図を書いてみたくなる」と言ってました。あと、その方のご主人がとてもかっこよかったそうです」
「ああ、うんうん。確かにイケメンだった。なおかつ、びっくりするくらい年下なの。僕、ビビったもん。さっとんカッケェ!って」
資生は興奮に顔を綻ばせながら、
「いや、ほんとに世間って狭い」
「狭いのは社長のいる世界です」
八柳は冷静にそう言い、
「しかし、その縁のつながりこそがあなた方の財産であり、その純度を守り続けることがその階級に生まれた方々の使命なのでしょう」
純度とは言い得て妙で、それこそを生きがいだったり、よりどころにしている人間は資生の周りにはあまりに多く存在している。
そして、自身も以前はその思想を持った一人だった。
「それで今夜の会食ですが、その相関図に加わりたい方がお一人」
「誰?」
「××商事の社長がご息女を伴われるそうです。家事手伝いの三十八歳。百パーセント社長狙いですね」
「こんな『訳アリ物件』に嫁がせようなんて、かわいそうに」
そう言って、自虐的なポーズをとったが、資生は現在、三十六歳。社長職、家柄良し、見た目良し、性格良し。
「いやいや、これで独身ですよ? 社長がどんな訳アリであっても、おつりが来ますって」
八柳は続けて、
「逆に、このスペックで何か不良欠陥がない方が怖い」と言い、
「ひどい女好きはもちろん酒乱だ、変な性癖持ちだ、同性愛者だと噂されるのもごもっともです。が、その相手にされている私の身にもなっていただきたい」
渋い顔をする相棒を、資生は笑った。
「八柳が結婚すれば、とりあえずBL説は払しょくされるんじゃない?」
「それは……、私も多少責任を感じるところがありますので、社長を差し置いてというのは……」
「だったら、一生独身でも俺を恨まないでね」
「いえ、その時は見切りをつけて、お先にいかせてもらいます」
「え、それはずるくないか。いきなり裏切るな」
憎まれ口をたたきながらも、資生の笑みは限りなく優しい。
それを見て、八柳は静かに眼鏡の位置を直した。
「……先日、奥様が仰っていました」
「母さんが何? また見合い?」
八柳にしては珍しく少し迷ってから、
「いえ……、あまりに社長にご結婚の気配がないので、『資生と結婚してやってもらえないかしら』と、灘原さんに」
「それ、マジ!?」
「はい」
「聞いてない」
「……そりゃ、灘原さんからは言えないでしょう」
「まじかぁ……」
資生は天井を仰いだ。
「この六年、灘原さんも努力しました。今や、すぎるくらいに有能な秘書です。公私ともに社長を支える存在であることは誰の目にも明らかです。《《一般人》》であれ、彼女なら六岡資生の妻にもふさわしいと奥様もお認めになられたのでしょう」
「……なんか引っかかるところはあるけど」
「ちなみに、私はそれに対して、それはダメでしょう、とお答えしておきました」
「え、なんで!」
思わず資生が身を乗り出す。
「この私が、秘書の職分を超える提案に、突然もろ手を挙げて賛成する方がおかしいでしょう」
八柳は平然とし、
「まず否定する。交渉を優位に運ぶ定石です」
思わず掲げた両手のこぶしを下ろしながらも、資生はさらに手の中で力強く握りしめる。
「……できれば、この波に乗りたい。他力本願かよと笑われても……」
資生は応接セットのソファに場所を変え、そこに腰を下ろすと深く沈みこんだ。
両手で顔を覆い、その下で泣いているようにもうかがえた。
「……この六年、社長は灘原さんを完全な秘書として扱われた」
資生は何も答えず、八柳は続ける。
「……あの時点で、灘原さんを好きだから会社を捨てて一緒になるとか、バカなことを仰っていたら、事態はややこしくなって、今ここに灘原さんも、いえ、私も、そして社長もいなかったでしょう」
「灘原さんが、僕の秘書でいることを選んでくれた。それを、尊重したかっただけだよ」
「しかし、よく我慢なさったと思います。社長と秘書、毎日この近さにあって……」
「……そこは、もっと褒めて」
資生の弱弱しい声に、八柳は初めて能面を外す。
「……尊敬しますよ、心から。同じ男として」
その言葉を聞くや資生は無言で起き上がると、ソファの対面に八柳を座るように促した。
「何ですか?」
まさに悩めるポーズをとって、
「……今度さ、また動画の撮影あるだろ?」
「ウキウキワクワクの社長お待ちかねのお楽しみ行事じゃないですか」
「灘原さんさ、アウトドアを本気で楽しんでくれるからさ、それは嬉しいんだけど、最近は毎回テントで寝るって言って……。そんなとこに一人、放っておけないじゃん?」
「いや、まあ女性の一人キャンプも流行りですし、敷地内ですから放っておいても別に……」
「いや、そこは正直、一緒にテント泊したいからさ、俺も!」
「はあ……。しかしまあ、寝袋に入ってしまえば、文字通り手も足も出ないのだから問題ないのでは?」
「そうなんだけど……! 山へ行くと、ほら俺も解放された気分になるし、非日常だし、灘原さんも秘書モードじゃなくなってて、やっぱいろいろヤバいんだよ。普段の出張ならホテルで部屋もしっかり別々だから、なんとかなるけど……」
「これは余談ですが」
「え、なに?」
「灘原さんが今度、見合いをします」
「は? ……聞いてないけど」
「普段のそういう誘いは、結婚を前提にした恋人がいるという設定ではねてますが、実際のところ確かに既婚者でないので、とりあえず会うだけと粘られたら、お相手的には今後の関係上どうしても断り切れない場合があるんです。そのときは、仕事の一貫と会うだけの見合いをしてもらってることも……」
「あったの!?」
「まあ、灘原さんも独身、だからといって社長の愛人らしき素振りも雰囲気もなく、まあ、傍から見ればフリーですからね」
「……傍から見ればって、灘原さん彼氏いないよね?」
八柳は眼鏡を外し、少し疲れたように目頭を押さえた。
「それに関してはちゃんと問いただしたよ。二年前くらいに、思い切って聞いた。それまではなんかうやむやにしてたけど……」
「その時は、いないと」
「うん。でもその後、仮に新しく男ができたとして、わざわざ俺に報告するかな、とも思って」
八柳は小さくため息をついて、
「社長は、私よりよほど灘原さんの二十四時間をご存じでしょう。恋人がいたとして、その時間がどこにあるというんです」
「仕事中の時間は、何をしてるか僕にもわからないことがある。見合いしてることだって、僕は今初めて知った」
「……お言葉ですが、仕事中はほとんどあなたとご一緒でしょう」
八柳は静かに、しかし呆れを隠さずに言う。
「毎週水曜日を勝手にノー残業デーにし、映画館の年間シートを契約し、予定のない夜は家に呼んで飯を作ってもらって。その次の日には『残り物ですが』と、灘原さんが私にまで手弁当を持ってきてくださること、社長はご存じないでしょう」
「え……」
「会社のPRだと言って休日も一緒に走り、マラソン大会にも出る。傍から見れば、社長と秘書というより、もう少し別の何かに見えていることに、社長だけが気づいていない」
「……それは」
「手を出していないことが、いっそ社長らしいと思うこともあります。ただ、いつまでもこのままというのも」
八柳はそこで言葉を切り、静かに眼鏡をかけ直した。
「跡継ぎの話は、私からは申しません。それは、社長ご自身がお決めになることですので」
そこでドアがノックされた。
「失礼します。ただいま戻りました」
楚乃が顔を見せた。
楚乃は髪が伸びた。そして、声色が柔らかくなった。以前のように紺色のスーツばかりではなく、今日はオフホワイトのパンツスーツだ。春らしい優しい色のスカーフを襟元にのぞかせている。
「あ、灘原さん、おかえり。外、寒くなかった?」
「おかえりなさい。問題はなかったですか」
いつもの余裕ある笑顔で迎える資生と、八柳の方は同様にいつもの立ち姿で、すっかり眼鏡もかけている。
資生は穏やかに、八柳の名を呼んだ。
「外商を呼んでほしい。なるべく急ぎで」
「かしこまりました」
「頼んだ」
八柳は一礼し、部屋から出て行く。
それに続こうとした楚乃を、資生は呼び止め、
「その時は灘原さんも同席して。好みもあるだろうし、僕の希望より、灘原さんが喜ぶものを贈りたい」
「はい……? 私に、何かいただけるのでしょうか」
「うん、ずっと贈りたかったもの」
「何でしょう? 楽しみです」
楚乃が笑う。
今や誰もが、資生の隣にいる楚乃をことを知っている。
物静かだが、秘書になりたての頃は逆に存在感を消すことを得意としていた。
初々しかった『SONOさん』はもういないが、それ以上に灘原楚乃という人間を資生は知った。知るには十分に長い時間があって、その間にも、愛しさは深まるばかりだった。
資生の、愛しい秘書。
しかし、たまに嘘をつく。
隠れて見合いをしたりとか、結婚前提の恋人がいるとか。
「その前に、もう一度教えて」
「はい、何でしょう?」
「今、あなたに恋人はいませんか?」
終