
すれ違う「ハロー」の行方
買い物袋を下げて歩く帰り道って、いつもより少しだけ足取りが重くなりますよね。
それでも、通り抜ける風が心地よかったりすると、それだけで「今日もいい一日だったな」なんて思えたりします。私たちの日常って、そういうささやかな感情のパズルでできている気がするんです。

その日、家へ続く道すがら、小さな橋にさしかかりました。
人が二人、ちょうどすれ違えるか合えるかというほどの、本当に小さな幅の橋です。
すると向こうから、一人の男性が歩いてきました。ひと目で中東系と分かる風貌の彼は、私の姿を認めると、すれ違いざまに「ハロー!」って気さくに声をかけてくれたんです。
その言葉の響きに、ふっと心が軽くなりました。
私も笑顔で「ハロー」と返し、お互いにほんの少しだけ体を傾けて、狭いスペースを譲り合います。
見知らぬ者同士が、ほんの一瞬だけ地平線を共有したような、あの独特の温かさ。これだから、日常の小さな挨拶はやめられないんですよね。
ところが、人間万事塞翁が馬、とはよく言ったものです。

そのすぐ後、今度は一人の白人の高齢女性がこちらに向かって歩いてきました。先ほどの心地よい余韻がまだ残っていた私は、彼女と目が合った瞬間、ごく自然に、そしてごく普通に「ハロー」と声をかけました。
ですが、次の瞬間に訪れたのは、予想もしない「静寂」だったんです。

彼女は私と確実に目が合っていました。それなのに、まるで「何も見なかった」とでも言うように、不自然なほど素早くプイッと顔を背けたんです。そして、そのまま無言で私の横をすり抜けていってしまいました。
狭い橋の上に、私の「ハロー」だけが、行き場を失ってぽつんと取り残されてしまったわけです。
その瞬間、胸の奥に「ちくっ」とした痛みが走りました。

そこから、じわじわと広がっていくモヤモヤ感。
顔を背けられるほどのことを、私はしたのかな?
声が小さすぎたのかな、それとも、アジア人の私に挨拶されるのが嫌だったのかな、とか。

一度こういう思考のループにはまると、心って勝手にネガティブな理由を探し始めちゃうんですよね。せっかくの買い物帰りの気分は、すっかり曇り空になってしまいました。
挨拶を無視されるのって、自分の存在そのものを一瞬だけ「透明人間」にされたような、なんとも言えない切なさがあります。
家に着いて、買ってきた食材を冷蔵庫にしまいながら、私はそのモヤモヤの正体をじっと見つめてみました。
そもそも、私はなんであんなに傷ついたんだろう。
答えはすごくシンプルでした。私、彼女に「返事」を期待してたんですよね。
「こちらが気持ちよく挨拶を投げかけたんだから、相手も同じように返すのが筋でしょ」という無意識のルールを、相手に押し付けていたんです。
つまり、私の挨拶は純粋な好意であると同時に、相手からの承認を求める「見返り付きのギフト」になっちゃっていたのかもしれません。
そう気づいたとき、ふっと心の荷が軽くなりました。

考えてみれば、彼女が挨拶を返さなかった理由なんて、彼女の側にしかありません。ものすごく機嫌が悪かったのかもしれないし、深刻な考え事をしていて上の空だったのかもしれない。あるいは、めちゃくちゃシャイで、見知らぬ東洋人から突然声をかけられてフリーズしちゃっただけ、という可能性だってあります。
それって「彼女の課題」であって、私が思い悩む必要のない領域なんですよね。
他人の反応はコントロールできません。そこに過度な期待を持つのをやめるだけで、人間関係の風通しって劇的によくなるものです。
それに、挨拶を無視されたからといって、私の価値が下がるわけでは決してありません。あの橋の上で、私は自分の意思で、世界に対して親愛の情を示した。それだけで十分じゃないですか。
挨拶って、相手から返事をもらうための道具じゃないんですよね。自分が「私は今日、世界に対して機嫌よく生きていますよ」と表明するための、いわば自分自身の心のチューニング。自分の心が上を向いているから、声を出す。相手がどう受け取るかは、おまけみたいなもの。
次にあの狭い橋を渡るときも、きっとまた誰かとすれ違うはずです。
もしまた無視されちゃったら?
そのときは、「おーい、私のハロー、どこへ行った?」って心の中で苦笑いしながら、橋の下を流れる川にでも流しちゃえばいいんです。
私はこれからも、私自身のために、心地よい「ハロー」を投げかけ続けようと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ちなみに、写真と本文は関係ありません…。
撮影場所:フライブルク
機材:Nikon + ズームレンズ