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【試し読み】バリスタですから〜街角コーヒースタンドの日常〜

    あらすじ
    横浜の下町・にじいろ商店街にある小さなコーヒースタンド「MACHIKADO COFFEE」。店主である若きバリスタ・町野は、一杯のコーヒーを通して、人と人をつなぐ場所をつくっていた。

    家業の酒屋を継ぎたいと願う大学生、過酷な労働に疲れ果てたシステムエンジニア、家族の介護と仕事の間で揺れるパン職人――それぞれが仕事や人生に行き詰まったとき、不思議と街角のコーヒースタンドへたどり着く。

    町野がその人のためだけに淹れる一杯は、悩みを魔法のように解決するわけではない。それでも、香りや味、そして何気ない対話をきっかけに、立ち止まっていた心が少しずつ前を向き始める。

    プロローグ


    「アレクサ、アラーム止めて」
    ピピッと鳴り始めたアラームを、鳴り始めのうちに止める。これから本領を発揮しようとしていたアレクサは、使命を失い無言で部屋の一角に佇んでいる。
    父親に厳しく育てられたおかげで、朝には強い。まずは窓を開けて今日の天気を確認。ベッドを整え、サッとシャワーを浴び、パーカーに袖を通す。ここまで約十分。鏡を見て髭のそり残しがないか確認しながら、髪の毛をセットする。
    「よし」
    段ボールを一つ抱えて、家の鍵を閉めた。
    自宅から職場までは徒歩約五十秒。マンションを出て、目の前の橋を渡ったら、職場に到着だ。店の鍵を開け、コーヒー豆の入った段ボールを降ろす。窓ガラスに刻まれた「MACHIKADO COFFEE」の文字が、アーケードの隙間から差し込む太陽の光を集めている。今日も、このまちで、俺の一日が始まる。

    街角の後継ぎコーヒージン

    「WAKE UP!!LADEY GO!WAKE UP!!LADEY GO!」
     スマホから爆音で流れてくる推しグルの曲。どんなに尊い推しの声でも、二日酔いの頭にこのテンションは厳しいものがある。曲が流れては止めてを繰り返し、四度目のWAKE UP!が流れ始めると、母ちゃんが部屋に飛び込んできた。
     「うるさいよ!起きる気がないならその曲もう止めなさい!」
     威勢の良い声に全身が包まれ、否応なしに目がかっぴらいた。母に差し出されたスマホを受け取り、推しの声を止める。
     「ったく毎日毎日……」
     そう呟きながら部屋を出ていく母の背中を、ぼーっと眺める。秋から冬に向かおうとしている十一月の半ば。布団から引きはがしてくれたのは推しではなく母の声だった。
     時計を見ると、時刻は十時すぎ。今から爆速で準備して五分後に家を出れば、二限の授業には五分遅れで滑り込めるだろう。五秒間熟考した結果、午後の三限から出席することにした。
    洗面所で顔を洗い、ザっとメイクをする。大学に入学したばかりの頃は早起きしてそれはそれは丁寧にメイクをしていたけど、三年の後期ともなるとこんなものだ。夕飯の残りをチンして、推しの動画を見ながら食べる。朝ごはんだか昼ごはんだかわからないご飯を食べ終えて、午後の講義に間に合うように家を出た。こんなにのんびりした朝を過ごせるのも、あと一年ちょっとだ。

    家からお店につながる階段を降りると、父ちゃんが今日何度目かの配達を終えて戻ってきたところだった。店内には和から洋まで多種多様なお酒がところ狭しと並んでいる。母ちゃんは店の奥のレジカウンターで帳簿をつけていて、「今日も遅いの?」と声をかけてくる。
    「うん、今日もバイト~」
    適当に答えると、珍しく父ちゃんが会話に入ってきた。
    「お前、就職のことは何か考えてるのか。同い年の三角さんとこの子は、夏ごろからスーツ着て歩いてるのよく見かけるぞ」
    「ちゃんと考えてるよ!授業遅れちゃうからまた今度話す!」
    重たそうに酒瓶を運ぶ父ちゃんの横を、足早に通りすぎた。

     店を出ると、左側からコーヒーの良い香りが漂ってくる。うちの酒屋のお隣には、去年のクリスマスにオシャレなコーヒースタンドができた。よく言えばレトロな、悪く言えば古臭いこのにじいろ商店街には願ってもないニューフェイスの登場だった。ずっとお隣同士でやってきたタバコ屋のおっちゃんが亡くなって、空き店舗になっていたこの場所。商店街と虹川が交差する街角の空き店舗は、立地が良いこともあって、いろいろな人が内見に来た。そして最終的にこの場所にできたのがMACHIKADO COFFEEだった。
     私が初めて店主のまっちーに会ったのは一年と少し前。ヒグラシの鳴き声が聞こえ始めた夏の終わりだった。物件の改装工事が始まるにあたって、ご丁寧にうちに挨拶に来てくれたのだ。父ちゃんと母ちゃんはすでに面識があったようで、たまたま居合わせた私は突如現れた黒髪さわやか高身長好青年にこれでもかというくらい身構えた。おっちゃんが守ってきたタバコ屋を、この若者が引き継げるのか。商店街の先輩として斜に構えてじっくり彼を観察したけど、「良ければぜひ」と差し出されたコーヒーが、人生で飲んだどのコーヒーよりも美味しくて、街角の未来はこの兄ちゃんに託そうと決めた。
     MACHIKADO COFFEEがオープンしてからは、毎日コーヒーの香りとまっちーの笑顔に見送られながら通学している。今日もまっちーはいつも通りのさわやかな笑顔でコーヒーを入れ、私に気づくと「みっちゃん!行ってらっしゃい!」 と声をかけてくれた。

     三十分ほど電車に揺られ、十分ほど歩くと大学に到着する。一、二年の時に人並みに単位は取得しているので、三年になってからは比較的時間割に余裕がある。年々早まる就活解禁によって、同級生たちは三年の夏からインターンや選考に追われていた。二限をキャンセルしたおかげで三限まではまだ少し時間がある。学食のサークル仲間がいつも座っている席に行くと、同期や後輩たちがお昼を食べていた。
    「満子おつかれ!二限サボったっしょ~」
     同期で一番仲の良い琴音が、二限のレジュメを渡してくれた。
    「サボりじゃなくて戦略的休息ね。ありがと!」
     琴音の隣に座ると、同期と後輩しかいないと思っていた輪のなかに、久々に見る四年の先輩が混ざっていた。偏差値が下の上ぐらいのうちの大学からは珍しく、大手企業に内定した経営学科の悠人先輩だ。同期たちはみんな前のめりで先輩の就活体験談に耳を傾けている。アウトドアサークルというのは名ばかりで、夏と冬に一度ずつキャンプ場でBBQをする以外はただの飲み会しかしていないうちのサークルから、どうやって大手に通用するガクチカをひねり出したのかはとても興味があった。だけど久しぶりに会って思い出す。この人は人当たりが良くとにかく口が上手い。体験談を聞いたところで真似できる芸当ではないと思い、琴音からもらったレジュメにぼんやりと目線を落としていた。
     「ミツは?就活どうなん?」
     私が輪に入っていないことを察して話を振ってくれる社交性に大手内定の片鱗を感じたが、ここはそっとしておいてほしかった。
    「いやぁ、まぁ、人並に?」
    「うそつけ!夏インターンも行ってなかったじゃん!」
    同期から言い逃れ不可なツッコミが入る。
    「あぁ!もしかして実家の酒屋さん継ぐの?」
    先輩の言葉に、同期たちは「たしかに」とか「その手があったか」とか「就活しない選択肢あんのうらやましい~」とかなんとか好き勝手盛り上がっている。
    「まぁそんなとこですかねぇ。私次の授業E棟なんで、そろそろ行きますね」
     テキトーに話を切り上げ、そそくさと学食を出た。

     授業を二コマ受けて、大学の最寄駅にある居酒屋に向かう。バイトはほとんどうちの大学の学生で編成されているこの店で、私は入学当初からお世話になっている。今日は週の真ん中ということもあって人はまばらで、早めに退勤させてもらった。この店の最高なところは、まかないとして好きなお酒を一杯飲んで帰れるところだ。家に帰れば山のようなお酒があるけど、仕事を終えた直後に飲むこの一杯がたまらない。とはいってもあまり高いお酒はNGなので、うっかり手が滑って少しジンが多くなってしまったジントニックを、焼き鳥丼と一緒に美味しく頂いた。

     終電で駅に着き、改札を抜けると、商店街の端まで伸びる古びたアーケードが迎えてくれる。二十一年もこのまちにいるともう日常の一部だけど、友達が遊びにくるとみんな「すごーい!」、「めっちゃレトロ!」と喜んでくれるから悪い気はしない。アーケードの下を歩いて、家へたどり着く。お隣さんの電気は消えているが、うちの店は半開きのシャッターから灯が漏れている。シャッターをくぐって店に入ると、朝と同じ服を着た父ちゃんが明日の配達の準備をしていた。
    「ただいま」
    「おう。遅かったな」
     「うん、バイトだった」
     「そうか」
    段ボールを持ち上げようとする曲がった背中に声をかける。
     「手伝うよ」
    父ちゃんの背中がやけに小さく見えて、無意識に段ボールに手を伸ばした。

    ぺチン

    あ、やっちゃった。父ちゃんは優しく、だけど確実に私の手を叩いた。
     「いらん。中途半端に手を出すな」

     父ちゃんに叩かれたのは二度目だ。一度目は高校二年生の時。私は日に日に小さくなっていく父ちゃんと母ちゃんの背中が心配で、そして純粋に生まれ育ったこの店が大好きで、三者面談で卒業したらお店を継ぎますと宣言した。緊張したけど、やっと言えた。緊張から解き放たれて隣に座る母ちゃんの顔を見たら、これまでに見たことのない、驚きとショックが入り混じったような顔をしていた。
     その帰り道、母ちゃんは私が何を話しても空返事で、帰りにお刺身を買って帰ろうと約束していた魚屋さんの前もスルーして、まっすぐ家に帰った。私はその理由がわからなくて、喜んでもらえると思っていたのに喜んでもらえなかったことがショックで。家に帰ると、いつものように配達の準備をしている父ちゃんがいて、私は母ちゃんからもらえなかった期待通りのリアクションを引き出そうと喜々として父ちゃんに宣言した。
    「父ちゃん、私、高校卒業したらこの店継ぐから!今日三者面談で先生にも話してきた」
     私の言葉を聞いた父ちゃんは、母ちゃんと同じ、いや、それ以上に悲しそうな、悔しそうな顔をしていた。
     三者面談の結果が思いもよらぬ方向に転んだけど、気難しい父ちゃんが二つ返事でOKするわけもないかと思い、私の本気を見せようと積極的に店を手伝おうとした。だけど二人は今まで以上に私がお店を手伝うことを嫌がるようになって、配達予定の酒瓶が入ったケースを運ぼうとしたら、父ちゃんにパチンと手をたたかれた。
    「女が手を出すな」
     私は人生で初めて父ちゃんに手を上げられたのがショックで、そのまま二階に駆け上がり、自分の部屋のベッドに突っ伏して号泣した。どうして。小さい頃は、お手伝いをしたら褒められていたのに。父ちゃんと母ちゃんが必死で守ってきたお店を継ぐって言ったら、絶対に喜んでくれると思ったのに。
    私がまだ小学校に入る前、うちの店は酒の配達や販売に加えて、店内の一部で角打ちをやっていた。私はまちのおっちゃんたちが楽しそうにお酒を飲んでいる姿が好きで、子どもながらに看板娘としての自覚を持ってよくお店の手伝いをしていた。お客さんの注文を作業中の父に伝えたり、父が注いだお酒をお客さんのところへ持っていったり。おままごとの最強版みたいな気持ちで楽しくお手伝いをしていたのに、いつからか角打ちはやらなくなって、その売り上げを補填するかのように父ちゃんは配達に行くことが増えた。

    父ちゃんに初めて叩かれた日から今日まで、私はお店のものには一切手を触れないようにしてきた。だけど今日は、あの日から四年経った父ちゃんの背中がよりいっそう小さく見えて、思わず手を伸ばしてしまった。濃いめで作ったジントニックも効いているのかもしれない。だけど私は、もう二階に駆け上がって泣いたりしない。
    「中途半端じゃないよ。私は本気」
    まっすぐに父ちゃんの目を見て言う。
    「何が本気だ。毎日ダラダラして酒ばっか飲んでるくせに。そんなんで就職ができるのか」
    「就職なんてしない。だって私はお店継ぐんだもん!」
    「何のために大学まで行かせてやったと思ってるんだ!お前は普通に就職しろ!店は俺の代でたたむ」
     「いやだ!!大学行ったのも店継ぐためだもん!!そのためにちゃんと勉強しようと思って経営学科にしたんだもん!!居酒屋で働いてるのだって勉強のためだもん!」
     お互い引くに引けなくて、どんどん声が大きくなる。二階から母が降りてくるのとほぼ同時に、「こんばんは~」と言ってまっちーが現れた。まっちーのこの場には合わない爽やかで穏やかな挨拶に、沸騰していた頭が少しだけ冷えた気がした。
    「夜分にすみません。いま新メニューの試作をしていて。味見をしてもらいたいので、少しみっちゃんお借りしても良いですか?」
     父ちゃんはもう私の方を見ようとせず、作業に戻ろうとしている。何がなんだかわかっていない母ちゃんが「どうぞ」と答えて、私はまっちーと一緒に店を出た。
     「夜遅くにごめんね。声が聞こえたから、まだ起きてるかもって思って」
     そう言いながら、MACHIKADO COFFEEの鍵を開けている。お店に入ると電気は消えていて、試作していた痕跡はない。
     「あれ、試作は……?」
     「これから作る!みっちゃん、明日って朝早い?」
     「いや、明日は夕方からバイト行くだけだけど」
     「了解。じゃあ今から作るからちょっとだけお時間ください」

     MACHIKADO COFFEEは、商店街に面した側に外向きのカウンター、虹川に面した側にはガラス張りのドアがあって、そこから店内に入ると三人くらいが座れるベンチみたいな椅子がある。私は三人分のベンチを独り占めして、ドリンクをつくるまっちーを眺めた。
     「みっちゃんさ、お父さんがコーヒー好きなの知ってる?」
     「え?あぁ、たしかに朝とかよく缶コーヒー飲んでるかも」
     「違う違う。もうね、豆とかめっちゃ詳しいんだよ」
     「まじ!?お父ちゃんが!?」
     「オープンしてから、配達の合間によく飲みに来てくれるんだ。やっぱり飲み物を扱うプロだから、味の違いもよく気づいてくれて、豆トークで盛り上がってるんだよ」
    「全然知らなかった」
    父ちゃんがコーヒーに詳しいことも、まっちーとそんなに仲が良いことも。
     「多分最初はそんなにコーヒーに興味なかったと思うんだけど、お隣のお店っていうのもあって気にかけて通ってくれたんだと思う。やっぱり商店街で長年お店やってる人って、そういう繋がりを大切にしてるんだなってお父さんから学ばせてもらったなぁ」
     そんな話をしながら、まっちーはスムーズな手つきでドリンクを作っている。どうやら作っているのは、コーヒーじゃなくてお酒のような……。
     「まっちー、それ季の美じゃない?」
     「そう!さすがみっちゃん、詳しいね」
     「京都のドライジンだよね。うちでも取り扱ってるから。っていうかうちで仕入れたでしょ」
     「はい、仕入れさせていただきました。みっちゃん、お店の商品全部把握してるの?」
     「配達だけの商品は分からないのもあるけど、店頭に並んでるのはだいたいは」
     「すごいね!あんなに種類あるのに!」
     「まぁ、お酒好きだから。それにいつかまた角打ちやるときに、作れるドリンク妄想するのが楽しくて」
     「角打ち、再開するの?」
     「私がお店継げたらね。ご覧の通り大反対だったけど」
     「みっちゃん、なんでお父さんがお店継ぐの反対なのか、聞いたことある?」
     「高校の時は女だから、今日は中途半端だからって言われた」
     「そっか」
     ジンを出したと思ったら、今度はマシンでエスプレッソを抽出している。
    「まっちー、私苦いコーヒーは苦手なんだけど……」
    「砂糖も少し入れてエスプレッソシロップにするよ!まぁ騙されたと思って一口飲んでみて」
     そう言ってまっちーは、ジンの水割りにエスプレッソシロップを加えて混ぜている。そして仕上げに、トニックウォーターをゆっくり丁寧に注いだ。
    「お待たせしました」
     「お酒とコーヒーを混ぜてるってこと?」
     「まぁ簡単にいうとそんな感じかな。せっかくお隣が酒屋さんだし、コーヒーカクテルもメニューに取り入れようと思って!これはね、ジンを少し薄めることで香りを整えて、最後に炭酸を壊さないようトニックを重ねてるんだ。さ、飲んでみて」
     「いただきます」
     はじめての組み合わせに高鳴る鼓動を抑えながら、口に運ぶ。
     「美味しい!!」
     思わずまっちーの顔を見つめる。
    「でしょ?」
     コーヒーの苦みとジンのフルーティーさが絶妙な深みを醸し出している。ゆっくりと味わううちに、熱くなっていた頭と心がすっと落ち着いていった。
    「みっちゃんだったら、どうアレンジする?」
    私だったら……。そうだな。
     「今のままでも充分美味しいけど、香りにもうちょっとアクセントがあったらおもしろい、かも」
     「香りか!たしかにたしかに!ちょっと考えてみる。ありがとみっちゃん」
     こんな夜に、一緒にいてくれる人がいてよかった。私はゆっくりとこのドリンクをのんでから、ひっそりと家へ帰った。

     次の日、私は父ちゃんが配達に出た時間を見計らってバイトに行った。今のまま顔を合わせたって、きっと私たちは昨日の夜と同じことを繰りかえす。私の将来の夢は、いや、希望の就職先は子どもの頃からずっと変わらず父ちゃんの酒屋だ。今度は履歴書と志望動機を書いて、就職したいことを改めて伝えてみようか。できることをぐるぐると考えながら、その日はまかないのお酒は飲まずに帰路についた。
     MACHIKADO COFFEEの前を通ると、今日は電気がついている。そして虹川沿いの店内には、前掛けをかけた父ちゃんがいる。もうMACHIKADO COFFEEはとっくに閉店時間を過ぎているのに。
     父ちゃんに会うのはやっぱりまだ気まずくて、足早に通りすぎようとしたけど、案の定カウンターの内側にいるまっちーに見つかり手を振られてしまう。あぁ、見つかっちゃった。昨日のお礼を伝えないわけにはいかないし、私は虹川側の扉からMACHIKADO COFFEEに入る。父ちゃんは何も言わず、ドリンクを口に運ぶ。
     「これ、昨日の?」
     「うん、お父さんにも試飲してほしくて」
     「でも、お父ちゃんお酒飲まないじゃん」
     「まっちーの頼みだからな」
     「久々のお酒だったみたいで、ありがたい限りです」
     「別に弱いわけじゃないんだから、普段から飲めばいいのに」
    いつしかお酒を控えるようになった父ちゃんは、私が成人を迎えても、一緒に杯を交わしたことはない。今日のところは帰ろうと思っていたら、まっちーが私の分も試作のドリンクを出してくれた。はからずとも、父ちゃんと一緒に飲む初めてのお酒になった。
    ソワソワしながら、父ちゃんの横に座る。ドリンクは相変わらず、いや、昨日よりもさらに美味しい。
    「角打ち復活させるときはぜひメニューに加えてください」
     まっちーがにこやかに告げると、父ちゃんの空気が一変した。
     「角打ちはもうやらんね、絶対」
     いつもは無口だけど人当たりの良い父ちゃんが、これ以上聞くなという空気を全身からはなっている。私はいつもこの空気に勝てなくて、角打ちがなくなった理由も、私にお店を継がせてくれない理由も聞けずにいた。
     「え~どうしてですか?いまの若者ってレトロっぽいもの好きだから、酒屋の角打ちってけっこう幅広くお客さん来ると思うんですよねぇ。うちのお客さんも、南酒店の角打ちがあった頃はしょっちゅう行ってた、また復活しないかなぁって言ってましたし」
     ちょ、まっちー!!空気読んで、空気!
    だけど顔を見てわかった。まっちーは空気を読みに読んだうえで、私のためにわざと聞いてくれているんだ。
     「ごちそうさま」
     だけど父ちゃんは質問に答えず、ドリンクを飲み干して席を立った。その逃げ腰な態度にカッと頭に血が上る。
     「はぐらかさないでよ!なんでいつもはぐらかすの!私もう子どもじゃないよ。まだまだ頑張らなきゃいけないこと一杯あるのは分かってるけど、それでも本気だよ!お店のこと、ちゃんと話してよ」
     あぁ、もう。なんで父ちゃん相手だと、いっつも気持ちがコントロールできないんだろう。一つしかない扉をふさぎながら号泣する私に、父は堪忍したのかもう一度腰を下ろした。
     「このまま、忘れててほしかったんだ」
     父ちゃんはポツリ、ポツリと話しだした。
     「お前がまだ小学校に入る前、うちで角打ちをやってたのは覚えてるな?」
     「うん、覚えてる」
     「その時、嫌な思いをした記憶はないか?」
     いやなおもい……?予想もしていなかった言葉に戸惑う。夜になると地元のおっちゃんたちがたくさん集まってきて、みんな仕事着のまま楽しそうにお酒を飲んでいて。私は常連さんたちに可愛がられていて、時々お酒を運ぶのも手伝って。記憶のどこを探しても、嫌な思い出なんて一つもない。
     「ないよ。嫌な思い出なんて一つもない」
     「そうか」
     沈黙が続く。まっちーは私たちに背を向けて、コーヒーカップをふいている。
     「触られたんだ。一見の酔っ払いに」
     「え」
     「あの日は商店街で、七夕の装飾の飾りつけがあって、俺は少しの間店を空けた。その日に限って親父の調子が悪くて、母ちゃんは店と二階を行ったり来たりしててな。お前はよく店を手伝ってくれてたから、注文が入ったら母ちゃんに声をかけるくらいはできた。それで、お前が一人になったすきに」
     夜の商店街を、車がゆっくりと通り過ぎる音が聞こえる。
     「俺が店に帰ったら、お前は酔っ払いの膝の上に座ってて、そいつは、お前の頭の匂いを嗅いでいた」
     なに、それ……。あまりにも記憶にない話で、だけどある日を境に急に角打ちがなくなったことだけはハッキリと覚えていて。そして、それはたぶん、夏の日だった。
    父ちゃんの空になったグラスを見つめながら、見つからない記憶をぐるぐるとたどる。
     「すまなかった」
     父ちゃんが突然、土下座をした。え。まってまってまって。
    「ちょっと待ってよ。頭あげて。全然ついていけないよ。私が酔っ払いに触られたから、角打ちを止めたの?」
    「俺が甘かったんだ。俺が悪い」
    「頭上げてよ。父ちゃんは何にも悪くないよ」
     顔をあげた父ちゃんは、初めて見る、情けなくて後悔にまみれた顔をしていた。
    「角打ちがなくなった理由は分かったよ。でも角打ちをしないでお店を継ぐのもダメなの?」
     床に正座をしたままの父ちゃんを椅子に座りなおさせ、話を聞く。
    「お前には、できない」
    「なんでよ、私頑張るから」
    「そういう問題じゃねぇんだ。酒問屋や古い取引先はまだまだ男ばっかり。商店街の会合だってそうだ。どんなに時代が変わったって、酒ってのは女が肩で風切って歩ける業界じゃない。それにうちみたいな小さい専門店は衰退していく一方で、これから社会に出るお前がやるような商売じゃない。それになぁ、雨の日も風の日も、どんなに体調が悪くたって、注文がある限り酒を届けなきゃならねぇ。お前みたいなのんびりしたやつは、土日はしっかり休める会社に行って、安定した仕事に就けば良いんだよ」
     無口な父からあふれて止まらない言葉の数々。そのなかに込められている愛に気付かないほど、私は馬鹿じゃない。言葉が出てこない代わりに、涙が溢れて止まらなくなった。まっちーはカウンターの奥、客席からは見せない場所へ姿を消している。
    「ありがとう」
     ぬくぬくと生きてきた二十一年の間に与えてくれた愛の大きさを痛感して、私は十五年ぶりくらいに父ちゃんの胸に飛び込んで、子どもみたいに声をあげて泣いた。
     どれほどそうしていただろう。涙が止まり、受け取った愛にようやく感情が追い付いてきた。私だって、伝えたいことがあるんだ。
     「父ちゃんあのね、私も中途半端な気持ちでお店を継ぎたいって言ってるわけじゃないよ。爺ちゃんの姿も、父ちゃんと母ちゃんの姿もずっと見てきて、お店を守るっていうのが本当に大変なことだって、分かってるつもり。きっと私に合う会社とかに就職した方が、私らしくのんびり生きていけることも分かってる」
    言葉に詰まって、試作ドリンクを一口飲む。
    「だけどね、だけど私、あのお店が好きなの。爺ちゃんとか、父ちゃんと母ちゃんが守ってきたあのお店を、失くしたくないの。そのためなら、私歯食いしばって頑張るよ。だからお願い。お店を継がせてください」
    今度は私が父に向って深々と頭を下げる。
    「後悔するぞ」
     「それでもいい。やらなかったら、きっともっと後悔するから」
     長い長い沈黙の後、父は深いため息を吐いた。
     「卒業するまで、まずは毎日店の手伝いをしてみろ。店を継がせるかどうかはそれから決める」
     ずっと、ずっとずっと聞きたかった父ちゃんの言葉。やった。やった。やったぁ!!!
     すると、これ以上ない絶妙なタイミングで、まっちーがカウンターの奥から現れた。
    「おふたりとも、もう一杯お付き合いいただけますか?」
     そう言うとまっちーは、マシンを使ってエスプレッソを抽出し始めた。張り詰めた空気のなかに控えめに響くマシンの音が心地いい。グラスにジンと水、そしてエスプレッソシロップを入れて混ぜた後、トニックをゆっくり丁寧に注ぐ。そのキレイな所作を、父ちゃんと二人、無言で眺める。完成だ。そう思ったのに、まっちーはカウンターの奥からオレンジを取り出してきて、その皮をドリンクの上で削っている。香りづけにオレンジゼストを乗せるってことか。
    「昨日みっちゃんに、香りにもうちょっとアクセントがあったらおもしろいかもって言ってもらって、何か一工夫できないかって考えてたんです。そしたら、この前お客さんにおすそ分けしてもらったオレンジが目に入って。オレンジの皮って捨てられがちだけど、工夫すれば新しい魅力を作れるかもっていう挑戦です。良かったらぜひ」
    「町野くん、君は若いのに立派だね。ありがたく頂戴するよ」
    「いえいえ、バリスタですから」
     そういって差し出された新メニュー。口元に運ぶと、オレンジの爽やかな香りが漂ってくる。隣を見ると、父ちゃんも同じように匂いを嗅いでいる。勇気を出して、グラスを差し出す。父ちゃんは一瞬固まったけれど、カチンとグラスを合わせてくれた。人生初の、父ちゃんとの乾杯だった。

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門

     
     
    物語を書いています✒ 短編小説集『何でもないふりして生きているけれど』ほか

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