
平成・令和ワンオペ奇譚 ──「かかあ天下」の迷宮
世の中には、自覚と現実がこれほどまでにねじれる現象があるのだろうか。
我が家の夫は、自分のことを「ごく普通のかかあ天下の妻に尻に敷かれている、哀れな夫」だと思っているらしい。
その言葉を耳にするたび、私は心のなかで、そっと広大な宇宙を仰ぎ見るような気持ちになる。
実態は、こうだ。
夫の収入はすべて夫が管理している。
そこから毎月、生活費として10万円台が私の手元に「手渡し」される。
子どもが5歳になる頃まで、夫はこのシステムに異様なこだわりを見せた。
理由はシンプル、「妻(私)からお礼を言われたいから」
引き落としの日に間に合わなくなると困るから、どんなに大変でも振り込みにしてほしいと懇願した。
しかし、夫の「感謝の言葉の回収」への情熱は勝り、毎月、厳かにその儀式は執り行われた。
思えば、結婚して一緒に住む部屋が決まったあの時から、予兆はあった。
必要な家財道具の相談をしていた時、夫は事もなげに言ったのだ。
「冷蔵庫は不要だろ」
現代において、冷蔵庫のない暮らしとは。
時は既に平成。決して明治や大正の、井戸水でスイカを冷やす時代ではない。
私の頭のなかに激しいクエスチョンマークが飛び交ったが、結局、私の独身時代の貯金から中古の2ドア冷蔵庫を買い、我が家に文明の光を灯した。
それから長い年月を経て、リビングのテレビが壊れた時のことだ。
夫はデジャヴのように、また言った。
「もうテレビなんて不要だろ」
彼の仕事部屋には2台のモニターがあり、私室には大きなモニターが鎮座している。
家事を一切しない彼は、そこでお気に入りの動画を見て優雅に一人で寛げるのだ。しかし、家事と育児とパートをワンオペで回す私には、キッチンで流し見するテレビさえ「不要」と切り捨てられる。その非対称さに、私はただ乾いた笑いを漏らすしかなかった。
夫は下戸である。
対して、私はお酒が好きだ。
子育ても家事も仕事も一人で背負うなか、夏の暑い日に、お風呂上がりの缶ビールを1本飲むことだけが、当時の私の唯一の救いだった。
20年近く、夜の街に飲みに出かけることなど許されない環境だったからだ。
だが、
そのささやかな楽しみのためにビールを買って冷蔵庫に入れておくと、
夫は不快そうにこう言った。
「こんなの飲むの? 俺は飲まないのに!」
俺が飲まないものは、この家には存在してはならない。
そんな暗黙のルールに抗うため、夏だけは冷蔵庫の奥深くにビールを隠し、こっそり飲むというスリルを味わった。
けれどある時、暗闇でコソコソと喉を鳴らしている自分の姿が急に滑稽で、そして悲しくなり、私はビールを飲むこと自体をやめてしまった。
極めつけは、子どもが小学生の頃に企画した家族旅行だ。
しぶしぶ同行するという夫のために、手配はすべて私がこなした。
当日の朝も、戦場のような騒ぎのなかで子どもの相手をしながら荷造りをし、「準備が遅い」という夫の小言をBGMに、どうにか電車に飛び乗った。
目的地の駅に降り立ち、さあこれから、という瞬間。夫は私と子どもを振り返り、こう言い放った。
「俺はぶらぶら散策したら宿に行くから、別行動ね!」
真夏の太陽がジリジリと照りつけるなか、私は水着やバスタオルの詰まった重い荷物を抱え、子どもの手を引いて、一人で海水浴場へと歩き出した。
青い海をバックに消えていく夫の背中を見送ったとき、私のなかの「普通」という概念が、音を立てて崩壊した。
夫の言う「かかあ天下」とは、一体どこの世界の言葉なのだろう。
あまりの堂々とした態度に、危うく「私が悪いのかな」と洗脳されかけていたけれど、どう考えてもあり得ない。
もし、これが本当に「かかあ天下」なのだとしたら。
私はきっと、世界で一番従順で、一番タフで、そして世界で一番「2ドア冷蔵庫」のありがたみを知っている、孤独な女王(ただし領土はキッチンのみ)なのだと思う。