
教員と子どもが、共に育つ学校へ
安心して
「分かりません」
「助けてください」
と言えない環境で、人は本当に成長できるのでしょうか。
Googleが行った「プロジェクト・アリストテレス」という調査があります。生産性の高いチームに共通するのは、優秀な個人が集まっていることではなく、次のような環境があることでした。
分からないと言える。
助けを求められる。
異なる意見を出せる。
失敗を隠さず報告できる。
一人で抱え込まず相談できる。
これは、Googleが学校教育の正解を証明したという話ではありません。
ただ、組織がどうすれば力を発揮できるのかを考えるとき、学校という組織にも重ねて考えられる視点だと思います。
1.心理的安全性は「何をしてもよい」ことではない
「心理的安全性」という言葉が広まるにつれて、誤解も広がっているように感じます。
心理的安全性とは、何をしても許される環境ではありません。
意見を尊重することと、すべての行動を認めることは違います。
安心と責任は、対立するものではなく、両立するものです。
心理的安全性とは、失敗しない環境ではありません。
失敗しても、そこから学び直すことができる環境です。
もう一つ、混同されやすいのが「心地よさ」との違いです。
心理的安全性が高い組織では、耳の痛い意見や、自分とは異なる考えも交わされます。
衝突がないことが心理的安全性なのではありません。
違いがあっても、その人が関係から排除されないことが大切なのです。
問題をなかったことにせず、安心して話し合える。
必要なルールは、目的から共有する。
失敗を責めるのではなく、次に生かす。
そうした土台があって初めて、人は「分からない」と言えるようになります。
2.まず、職員室の心理的安全性を取り戻す
若手が「分かりません」と言える。
ベテランも助けを求められる。
管理職に異なる意見を示せる。
実践の失敗を、隠さずに共有できる。
困っている教員を、個人の力量不足として片づけない。
問題が起きたとき、責任追及よりも背景を検証する。
管理職は、答えを与えるだけでなく、対話を支える。
こうした職員室をつくるために、自分たちに問いかけることができます。
このルールは、何を守るためにあるのか。
本当に全員で統一する必要があるのか。
教員の判断に委ねられる範囲はどこか。
やめても困らない仕事は何か。
今回の失敗から、組織として何を学べるか。
教員を信頼するとは、教員を一人で判断の責任に立たせることではありません。判断できる裁量を認め、その結果を組織で受け止め、共に学ぶことです。
裁量を与えることと、個人に丸投げすることは違います。
丸投げは、結果の責任を個人だけに負わせます。
裁量は、判断は個人に委ねながら、その結果を組織で引き受けます。
この違いを曖昧にしたまま「先生の判断に任せます」と言えば、それは信頼ではなく、責任からの撤退になってしまいます。
3.教員の自律性が、子どもの主体性を育てる
20代の頃、私は「分かりやすく、楽しい授業」をつくることに力を注いでいました。
教え方が上手いとされる先生の実践をまねて、手順をできる限り丁寧に示し、子どもが「できた」と感じられる瞬間を、できるだけたくさんつくろうとしていました。
その方法自体が間違っていたとは思いません。
ただ、同じように教えても、できる子はできる、苦手な子は苦手なままという状況が変わらないこと。
授業ではできていたはずのことが、時間が経つと忘れられてしまうこと。
そうした場面に、何度も出会いました。
そのとき気づいたのは、私は子どもに考えさせているつもりで、実は正解へ向かう道筋を、最初からすべて用意していたということです。
子どもがつまずかないように、失敗する前に、失敗しない方法を教えてしまっていた。
教師の技術で授業を成立させることに、限界があったのです。
そこから私は、子どもたちの意欲を高め、自分から学ぶ力を育てることが大切だと考えるようになりました。
しかし、これは指導技術を変えるだけでは足りません。
教員と子どもの関係そのものを、変える必要があります。
教員が、子どもに応じて教材や方法を工夫できる。
正解を教えるだけでなく、問いを共有できる。
教員自身が試行錯誤する姿を見せられる。
失敗した実践を、子どもと一緒に振り返る。
教員と子どもが、共に学ぶ関係をつくる。
教員が自分らしく教育できる学校は、子どもも自分らしく学べる学校になる。
この転換は、日々の関わり方の中に表れます。
指示する関わりから、選択肢を示す関わりへ。
正解を与える関わりから、問いを共有する関わりへ。
結果だけを評価する関わりから、成長の過程を振り返る関わりへ。
失敗を減点する関わりから、失敗から学ぶ関わりへ。
全員を同じにする関わりから、違いを生かして協働する関わりへ。
日常の場面でできることは、決して大がかりなものではありません。
学習方法や表現方法を、子どもが選べる場面をつくる。
「できたか」だけでなく「何を工夫したか」を尋ねる。
子どもが安心して助けを求められる仕組みをつくる。
学級の約束を、目的から子どもと話し合う。
ここで大切なのは、すべてを子どもに委ねることではありません。
横の関係とは、大人が責任を手放すことではないのです。
大人が必要な責任を引き受けながら、子どもの考えや選択を、学びをつくる大切な要素として扱うことです。
4.学校の成果を、数字だけで測らない
ここまでは、学校の中の話をしてきました。
しかし、学校を変えようとするとき、学校の努力だけでは変えられないこともあります。
学力や数値による評価を、否定する必要はありません。
ただ、数字は成長の一側面にすぎません。
挑戦したこと、協働できたこと、立ち直れたこと、誰かの役に立てたこと、自分を理解できたこと。
数字で測りにくい力もまた、教育の成果です。
数字を見える化するだけでなく、数字に表れない成長も言葉にして共有する。それも、学校が果たす大切な説明責任です。
学校が数値による説明を求められる背景には、保護者や地域、行政からの期待もあります。だからこそ、学校だけに変化を求めるだけでは、この構造は変わりません。
学校に失敗しないことを求めながら、学校に挑戦を求めることはできません。教員の試行錯誤を支えるには、保護者や地域、行政もまた、「間違えない学校」だけを求めないことが必要です。
5.学校・家庭・地域で「小さな引き算」を始める
学校を一度に変えることはできなくても、
一つのルールを問い直すことはできます。
一つの指示を、問いかけに変えることもできます。
一人で抱えている仲間に、「手伝えることはありますか」と声をかけることもできます。
一つの不要なルールを見直す。
一つの仕事をやめてみる。
一つの場面で、子どもに選択を委ねる。
一つの失敗を、責任追及ではなく対話で振り返る。
一人で抱えている教員に、声をかける。
すべてを一度にやる必要はありません。
今の自分の立場で、一つだけ選んでみてください。
教育現場の「がんじがらめ」は、一本の大きな縄でできているのではありません。善意と不安から結ばれた、小さな縄が積み重なってできています。だからこそ、一つずつほどいていくことができます。
結び|教員と子どもが共に育つ学校へ
子どもたちに、自分で考え、選び、挑戦する人になってほしい。
そう願うなら、まず教員自身が、自分で考え、選び、挑戦できる環境をつくらなければなりません。
教員の自己犠牲によって子どもを育てるのではなく、教員と子どもが共に学び、共に育つ。管理によって失敗を防ぐのではなく、対話によって失敗を学びに変える。
教育現場の「がんじがらめ」を解き放つことは、教員を楽にするためだけの改革ではありません。それは、子どもたちが自分らしく学び、生きていける社会をつくるための、教育そのものの再設計なのです。