文章が書けなかったのは、「生き方」が変わったからなのかも
ワーホリでメルボルンへ来て、もうすぐ1年が経つころ。
最近はどうしてか、以前のように文章が書けなくなり、そのことに、かなり戸惑いを感じていた。
「感性が鈍ったのか?」
「日本語を使う機会が減って、文章力が弱まったのか?」
いったい私はどうしてしまったんだ、と
モヤモヤを抱えながら、日々を過ごしていた。
そんなことを考えていたある時、
日本にいる友人が、私からの手紙を読んだ後、
「文章が英語っぽくなってた!」と、返信をくれた。
そんなことを言われたのは初めてで、私は全くの無意識だったので、とても驚いた。
何通か手紙のやり取りをしていた親しい友人がそう言うのだから、きっと何らかの変化があったのだと思う。
私はその出来事をきっかけに、もしかして
「文章が浮かばなくなった」のではなく、「文章を書くときの自分が変わったのに、書き方だけが以前の自分のままだった」からなのでは? と考えるようになった。
既に自分がモードチェンジしていたのに、
以前の自分のまま向き合おうとして、ギャップが生じていたような状態。
具体的に、文章そのものや書く姿勢がどう変わったのか、自分の予測でしかないけれど、こんなことが思い浮かんだ。
【以前の自分】は、自分の内側に深く深く潜って、向き合いながら書くようなスタイル。
「自分を知ること」に熱心で、相手にもどんなことを届けられるか、意味を持たせることに重きを置いていた。その分、ある程度の完成形を求めて、肩に力が入っていたと思う。
一方で、【今の自分】は、良い意味で?肩の力が抜けて、自分への興味が以前よりも薄れているというか、私は私。まあ、なんとかなるかという感じが少しあって、自分の内側をずっと観察し続けなくてもよくなった、という感じに近いだろうか。
それは、おそらく人との関係性や距離感にも影響していて、
「自分の内側を深く知ることで、自分を守る」
という方法から、今は「人との距離を適切に取ることで、自分を守る」ことが少しずつできるようになってきた気がする。
だから、全部を自分の内側に持ち帰って、
分析しなくてもよくなったのだと思う。
「あの人はああ言ってたな。私はこう感じたな。まあ、そういうこともあるよね」くらいで、出来事をその場に置いておくような感じ。
→日本語より感情を直接的に表すのが多い英語。
→多国籍で多様な人たちが共存している社会。
→細かい説明ができない分、言葉以前の感覚を頼りに過ごすことが増えたこと。
そんなことが気づかぬ間に影響して、
内省や説明よりも、感覚的なコミュニケーションの方に、比率が大きく自然と移り変わっていったのかもしれない。
「以前のように文章が書けなくなった」ことをきっかけに、自分との向き合い方、人との距離の取り方、コミュニケーションの仕方などの“生き方” もいつの間にか、変化していたことにも気づいた。
それによって文章にも影響が出てくるなんて、驚きだった。
ーー
今の私には、今の私の書き方がある。
無理に前の自分に戻らなくてもいい。
そう思ったら、
「最近、文章が浮かばないなぁ」と思っても、
悲観的になりすぎず、自分が変化したサインとして一旦捉えてみて、
まずは、今の自分から出てくる言葉を、
そのまま書いてみたいなと思えた。
ーー
そして、もしかしたら、
文章に限らず、変わった自分に、昔のやり方を当てはめようとしていたことって、案外あるのかもしれないな。
そんなことを思って、今回シェアしてみました🍃
