
歌は、歌わなくても上手くなるのか?
めちゃくちゃ久しぶりにカラオケに行くと、「あれ? 俺、前より上手くなってない?」と思うことがある。
あまり声は出ていないのだが、「なんか、前よりも表現できてる気がする」。
だが、「やってないのに上手くなる」ということは基本的にない。野球の練習をしてないのに野球が上手くなる、ということがないように。
もしそんなことが普通にあるのなら、「練習ってなに?」という話になる。
じゃあ、あの感覚は何なのだろう。調子が良かっただけなのか。あるいは、「久しぶりに歌ったわりには……」というフィルターが無意識的にかかっていて、そう感じただけなのだろうか。
ずっと謎に思っていたのだが、ある時ふと、こんな風に思った。
「『上手くなった』のではなく、『楽器が変わった』のではないか」と。
歌い手にとっての楽器とは、言うまでもなく「自分自身」である。
前の楽器では上手く表現できなかったものが、別の楽器を使うと、それがうまくハマった。そういうことなら、あってもおかしくない。
とはいえ、歌っているのは「同じ自分」。……いや、そうでもないかもしれない。確かにどちらも「自分」なのだが、「『同じ』自分」ではない。
僕たちの体の細胞は、毎日入れ替わっている。皮膚などは1か月くらいで入れ替わるらしいし、骨でさえ4年もあれば入れ替わるそうだ。そういう意味で、僕たちはいつだって「同じ自分」ではない。
そのうえ、僕たちは生きている中で、いろんな経験を蓄積する。たとえば今日、ある人と出会い、楽しい時間を過ごしたとする。その経験を経た僕はもう、その経験をする前の僕には戻れない。僕たちは日々、変わっているのだ。
そしてその経験は、記憶の中だけでなく、細胞の一つひとつにも何らかの形で刻まれるのではないだろうか。その細胞もまた日々入れ替わったり、自己増殖したりしながら、僕たちの体を変化させる。
そうだとすれば、「一年前の自分」と「今の自分」が「別の楽器」だと言っても、そんなに間違ってはいないだろう。
「歌声」とは、そんな一つひとつの細胞を含めた、心身の振動のことではないか。体の全体、細胞の一つひとつのありようが、その人の声、すなわち空気の振動を生む。だからその人の歌声は、その人の生きてきた全歴史を内包している可能性がある。
だとすれば、歌手というのはいい仕事だなあと思う。あらゆる経験が、歌声を通して、表現の幅を広げることにつながるのだから。もちろんそれは歌手に限ったことではないけれど。
「プロの歌手が歌う舟唄よりも、漁師の歌う舟唄のほうが心に響く」みたいな話を聞くこともある。それに共感できるのは、僕たちが歌声の中に、歌い手の経験や、心のありようを感じ取る感性を持っているからだろう。
……ずいぶんと回り道をしてしまった。
というわけで、僕は多分、歌が上手くなったわけではない。ただ「自分」という楽器が変化して、それがたまたま、歌った曲にハマったのだろう。
でも僕としては、「たまたまハマった」のではなく、「表現の幅が広がった」と思いたいところである。そう思えば、これから何か嫌なことがあっても、ちょっとだけ受け入れやすくなる気がする。