メインコンテンツへスキップ
見出し画像

だから、「大したことない」と傷を隠す ─14時46分のとろろそば

     あの日は中学校の卒業式だった。午前中に卒業式があって、学校で部活の後輩としばらく長話していたので、家に着いたのは14時ごろだったと思う。学校に残る卒業生はどうやら私たちが最後らしく、クラスの友人は仙台の街中へ繰り出し、各々の卒業を祝うように楽しんでいた。
     家に着いて、母は私に「遅かったね」と声をかけ、昼食を作ってくれた。忘れもしない、とろろそば。これは一生忘れない。

     3月11日、14時46分。

     私は昼食を食べ終え、後輩からもらった色紙を眺めながら、母親と談笑していた。と思う。その瞬間、地面から突き上げるような大きな揺れがきて、母がたちまちリビングにある大きな姿見を押さえた。地震の時、母はいつもこうするので、初めは特に驚きはしなかった。だがその日の地震は収まらず、ぐわんぐわんとしばらく揺れが続いた。戸建ての石膏ボードの壁が地震によってずれ、壁紙がびりびりと裂けていく様子を見た母が、「テーブルの下に隠れなさいっ」と私に言い、事の重大さを悟った。すぐさまダイニングテーブルの下に隠れ、母の足元を見ながら、こわい、大きい揺れだ、友達は大丈夫だろうか?と短く多くのことを考えた。すると、上からねばねばした何かが垂れてきた。先ほど食べたとろろそばのつゆだった。
     母があの日のことを回顧するときはいつも、まるで電車に乗っているようだった、と形容する。私がどんな揺れ方をしていたかあまり記憶に残っていないのは、食後の器からとろろそばのつゆが溢れ、それがテーブルの下にまで垂れてきたという強烈な記憶があるからだ。それによって色紙の下半分は滲んでしまい、文字は読めなくなっていたため、地震の前に一読しておいて良かったと思った。
     兄は2階で寝ており、廊下のケージで吠えていた犬を抱えて、リビングへのろのろとやってきた。兄が「なんでライこっちに連れてこないの」と文句を言い、「ちょっとそれどころじゃないよ」と母が返す。あの日は、その後も揺れが何度も襲ってきた。

     あれから数日経っても、ライフラインは復旧しなかった。何より復旧に時間がかかったのは水道だった。2週間もかかった。「水が出るから今のうちに水を貯めておこう」と、ウォーターサーバーの空きタンクに水を入れ始めて数秒後、すぐにそれは泥水になった。家の近所で水道管が破裂したのだという。とても落胆した。普通の生活がいかに幸せなことなのか、このとき身に沁みて感じた。便利な生活しか知らない当時15歳の私は、猛烈にいらついて、まだ家の風呂に入れない悲しさに暮れて、終わりの見えない被災生活に、耐えきれなくなってきていた。それでも、ただ生きるということをした数週間だった。

     高校の入学式は、4月にも起きた大きな余震のせいで、2週間ほど後ろ倒しになった。私たちの代は中学を卒業した直後に被災し、高校入学前であった。ゆえに頼れる先生がおらず、心が辛くても吐き出せなかった生徒もいる、と保健だよりに書いてあった。同級生には、家族や友人が津波に流され、亡くなった人もいた。ぼんやりと、その保健だよりは、そういう人たちに向けて書かれたものだろうと思った。

     私は高校入学後、放送部に入部した。部活紹介で、まるでプロのアナウンサーのように話す先輩を見て衝撃を受け、入部を決めた。別にアナウンサーになりたいとは思わなかったが、声で何かを表現するというその世界に惹かれた。実際にやってみるとそれは非常に面白く、のちに私は朗読部門で多少の賞をもらうほどのめり込んだ。この放送コンテストでは、原稿を読むだけでなく、音声や映像でドキュメントやドラマ制作をして競う部門もある。こうした大会に出場すると、必ず小さな紙に審査員からの一言メモのような講評を数枚いただく。それを参考に、次の大会ではこうしよう、などと作戦を練ることもある。ある大会で、1つ上の先輩たちの作品に、とある講評が書いてあった。

     『被災者の気持ちを考えなさい』

     先輩たちが提出した作品の部門は忘れてしまったが、作品の最後に、震災の日の夜空に無数の星が煌めいている、という場面があった。あの日は街中が停電し、車のテールライトしか灯りはなかった。確かに、星空がよく見えた。仙台の街は、地方ではありながらも、夜に星空が見えるほど暗くはない。だからこそ、星空に照らされた街が、とても不自然で、不気味だった。それをただ、感じたそのままに伝えようとした。それは、被災者を馬鹿にするようなものでは決してなく、私たちが普段気づかないことを、素直に伝えようとしたものだった。先輩の中には、実際に津波の被害に遭った人もいた。そうでなくとも私たちは全員、紛れもなく、3.11の被災者だったのだ。
     これを書いた審査員が誰かはわからない。わからないようになっている。でも、先輩たちは憤っていたし、私たち後輩の中でも、やはりそれは話題になり、なんて酷い講評なんだという話になった。被災中の私たちが、星空を見て、星が綺麗だという感想だけを抱いたわけではない。今日の夜をどう越そうか?食べ物は?飲み水は?トイレはどうする?いつ、元に戻る?私の家族は皆近くにおり、すぐに無事が確認できたが、そうでない生徒もいた。先輩たちは、あの日を美談にするつもりなど、これっぽっちもなかったに違いない。
     なんて表面的な講評だろう、とあのとき思った。あの震災を、辛くて悲しくて、とっても大変だった、と、そんなふうにしか表現してはいけないのか、と思った。これを書いた審査員も同様に、宮城県で被災したはずだ。なぜ、そんなフィルター越しの世界しか許されないのか、10代の私たちには到底理解できなかった。

     そして数年後、私は東京の大学に進学した。非営利組織を研究するゼミに入り、実際に同期3人と石巻まで赴き、そこにあるNPO団体に取材をしたこともあった。すでに震災から5年ほどが経過していたが、ひしゃげたままのシャッターがそのままになっていたり、胸の位置ほどにもなる津波の痕が、ビルの壁に染み付いていたりした。震災はまだ終わっていないのだと、その風景が、私たちに訴えてくるようだった。
     よその大学と合同ゼミをした際には、被災者にとって何が支援になるのかを話し合う場面があった。学生は20名ほどいたが、実際に被災したのは私だけだった。その話し合いはまるで教科書通りで、血の通った温度感は私には感じられなかった。星空を見て綺麗と思ってしまった先輩たちとは違う、美しい支援の話が飛び交った。「本当にそう思っているの?」というのが私の本音で、口から出たのは「偽善」という言葉だった。しまった、と思ったが、私の言葉にぎょっとする大きな目が忘れられない。私はまだ、震災について何か思っていることがあるのだと思った。震災を経験しなかった外の人間に対して、必要以上の敵意のようなものを感じていた。同じ思いをしろというわけではない、いや、でも、そうだったのかもしれない。うまく咀嚼できない思いを行ったり来たりしながら、どうすればこの気持ちが昇華されるのかわからなかった。

     30歳を過ぎた今、それが昇華されたかどうかわからない。あまりにも時間だけが過ぎ、私自身の人生にもいろんな山や谷が訪れた。いつの間にか消化されてしまったのかもしれない。仙台出身だと言うと、未だに「地震大変だったでしょう」と言葉をかけられるが、「いえ、うちの被害は大したことなくて。津波も来なかったですし」と自分の思いや経験は思い出すことなく、表面的な言葉だけをさらさらと紡いでしまう。
     でも、あの日、私や家族、私の周りの同級生、先輩、先生、とにかく被災した大勢の人たちは、傷つけられたのだと思う。その傷を見せないように、外の人たちと話すときは、多くは語らない。少なくとも私は語らないようになってしまった。「大変だったでしょう」と言いながら向けられるわずかなその視線の動きに、「被災者の気持ちを考えなさい」と言われたときのようないらだちや居心地の悪さを感じてしまうからだ。

     今でも、蕎麦屋でとろろそばの名前を見ると、テーブルの上から垂れてくるねばねばしたつゆのことを思い出す。まだ割り切れない私の気持ちが、とろろのようにねばついて、「大したことない」と笑みを浮かべながら、あの日に舞い戻る。


     
     

    mana

     
     
    暇さえあればずーっと何か考えてる(疲れる) 日常で引っかかったことについてエッセイを書いています 仙台出身|東京在住|夫婦2人と猫1匹暮らし

    あなたへのおすすめ