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不足感のない世界で、私は何を選ぶんだろう


    あぁ。
    不足感のない世界で出てくる自分の声を
    聞いてみたいな……


    ふと、そう思った。

    もしもそんな「不足感のない世界」に
    身を置くことができたら、
    自分の内側から一体どんな言葉や欲求が
    湧き出てくるのか、深く聴いてみたい気がしてきた。

    今の自分の声
    (言葉・意見・考え・欲求・感じ方など)は、
    間違いなく不足感からきていると思う。

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    貧乏な家だった。

    両親はよくお金のことで喧嘩していた。

    奔放で高圧的で、家庭内では"自分が一番"の父が、
    "当たり前の冷静で対等な夫婦間の話し合い"など
    出来るわけもなく、耳を貸すわけもなく、
    母が独りでやりくりに苦悩し
    頭を下げて走り回ってるのをみてきた。

    私の意見はまず否定された。嫌味を言われた。

    それが、常だった。

    そういう背景も一部含めた"環境"で、
    自分が、鋭敏に空気や人の機嫌を
    感じ取りやすい気質もあっただろうけど、
    気づけばいつの間にか、
    やりたいことを「やりたい」と言えなくなった。

    無意識のうちに、
    「どうせ無理」「もったいない」「贅沢」
    「意味ないし」「お金ないし」が、
    根付いていて、土台となり、

    「欲しい」「行きたい」「やってみたい」を
    外に出す前に自分で否定する癖がついた。

    そんな日々の中で、子どもが
    「自分の願いを口にしたら、
    さらに家族のバランスが崩れてしまうかもしれない」
    「これ以上お母さんを困らせてはいけない」
    と瞬時に察してしまうのは、
    生き延びるための切実な防衛本能だったのではないか、
    という捉え方も今ならできる。

    そして、ここで傷ついたのは「お金がなかったこと」
    だけではない、ということ。

    本当に大きかったのは、
    「自分の望みを口にしてはいけない」
    と学んでしまった
    ことなのだと思う。

    子どもって本来は親の事情など気にせず、
    「これ欲しい」「やってみたい」「行ってみたい」
    と言うもの。

    でも、それを言うたびに、
    家計の苦しさが伝わってきたり、
    親が困った顔をしたり、夫婦喧嘩が始まったり、
    母親が頭を下げている姿を見たりすると、
    幼いながらに「言わない方がいい」という学習をする。

    しかも私は、鋭敏に感じ取りやすい気質もあった。

    だから誰かに「我慢しなさい」と言われなくても、
    空気を読んで、
    自分から望みを引っ込めるようになった。

    そして、その癖は子どもの頃だけでは終わらない。

    大人になっても、「やりたい」が浮かんだ瞬間に、
    「でも無理だよね」「贅沢だよね」「もったいないし」
    「迷惑だよね」「意味ないよな」「お金もないし」
    と、自分で打ち消してしまう。

    「自分の望みを表に出していい」
    という感覚が育たなかったのだ。


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    近くに美容学校が二つほどあるため、
    よく美容学生を見かける。

    それは18歳の頃の私がなりたかった姿。

    学生たちを見るたびに、胸の奥が少し痛む。

    やはり、「やってみたけどうまくいかなかった」
    「自分で決めて挑戦したけどダメだった」
    ということではなく、

    「やれなかった」「選べなかった」
    「自分で決めることができなかった」
    その後悔は、あの子たちの親でもおかしくない年齢
    になった今でも、
    いつまでも心に残ってしまうんだなと感じる。

    かといって今からなりたいわけじゃない。
    「やって失敗の後悔」ではなく、
    「やれなかった後悔」はいつまでも残る
    という話。

    美容学生を見るたびに湧いてくるこの感情は、
    未練というより、

    「あの頃の自分、本当はやりたかったんだよね」
    「こうなりたかったよね」
    「素直に言いたかったよね」

    という18歳の自分への弔いみたいなものに
    近い気がする。

    今さら叶えたいわけではなく、
    当時の気持ちを否定せず、
    そのまま受け止めてあげるための。

    だからこれは嫌な気持ちというより、
    胸の奥の古い傷にそっと触れるような痛みに近いのだ。

    こんなふうに気づいて弔ってあげるのに、
    随分と時間がかかった。



    あの頃、私より優秀だった妹たちも
    先生や周りにも進学を勧められたけどしなかった。

    未だに「まぁ、別に学びたいことなかったし」
    とはいうけれど、私は勝手ながら
    それも「不足感から出た声だ」と思っている。


    彼女たちにだって
    もっといろんな可能性があったと私は思っている。

    もしもあの時、
    何一つ心配しなくていい潤沢な環境があったなら、
    彼女たちはどんな道を選び、
    どんな可能性を開いていたのだろう、、、
    と考えてしまうこともある。

    そして、この問いに答えはない。

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    亡母が病気になってからも
    治療費のやりくりは大変だったし、
    「お父さんにこんなこと言われた」
    「もう治療はしなくていい」
    そうやって何度も母は泣いてた。

    それを一番近くで見つめてきた私の胸の内には、
    言葉に尽くせないほどの無念さと悲しみと
    自責の念が今も残っている。


    たぶん母は、
    「こんな大病してまで安心させてもらえないこと」
    「大事にされていないと感じること」
    が悲しかったと思う。

    40年近く家計を管理してきた母なら、
    どれだけ大変かくらい分かってる。

    けど、せめて苦しみながら病と戦う自分の前だけでは、
    「なんも心配すんな」って言って欲しかった。

    病気になった人にとって、
    治療費が高いことは本人だって分かっているはず。

    だからこそ、
    「お金は気にしなくていい。」「なんとかするから。」
    その一言がどれほど支えになるか。

    実際に余裕があるかどうかとは別に、
    守ろうとしてくれる姿勢が伝わることが大きい。

    母が泣いていたのも、治療費そのものより、
    「こんな大病をしている私にまで、
    お金の心配を背負わせるんだ」
    という孤独と絶望だったのかもしれない。

    だから母は我慢をたくさんしてきた。
    辛抱ではない。我慢。

    私はそれを美徳だとは思いたくないし、
    そういう生き方はよくないのだと今も思う。


    無理を続けること。
    我慢を重ねること。
    自分を後回しにすること。

    それらを"美しいもの"として受け継ぎたくない。

    だからこそ今は、これからは、

    「心地いい」を選ぶことや、
    「撤退も悪くない」と考えることを
    大切にしたいと思っている。

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    前に"人生の棚卸し"として書いたように、
    20代や30代で体調を崩したり、
    自分がちゃんと社会の一員として馴染んで
    普通に働くことができてこなかったことも、
    経済的なゆとりの無さには影響している。

    けれど、
    子どもの頃の家庭環境やお金への不安。
    空気を読みやすい気質。
    「やりたい」を引っ込める癖。
    社会になじむことの難しさ。
    体調を崩したこと。
    その結果として働けない時期があったこと。

    そういうものが重なって、今の現実がある。

    だから、
    「全部親のせい」「環境のせい」でもないし、
    「全部自分の努力不足」でもない。


    人の人生は、
    そんなに単純な一本線ではできていない。


    何かが一つ違っていれば全く別の結果になっていた、
    という単純な因果関係では、人の人生は語れない。


    幼い頃に身を置かざるを得なかった家庭の空気や、
    持って生まれた繊細な気質。

    それらから自分を守るために必死に身につけた
    「欲求を引っ込める」という知恵。

    そして、大人になってから直面した社会との摩擦や、
    心身の限界としての体調不良。

    それら数え切れないほどの要素が複雑に絡み合い、
    網の目のように影響し合って、
    今目の前にある「現実」というカタチが作られている。


    「誰かのせい」と切り捨てることも、
    「自分のせい」と責め立てることも、

    どちらもその複雑なグラデーションを
    強引に白黒つけてしまう
    一側面に過ぎないのだと感じている。

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    実は、私は実家の負債を一部、今も抱えている。
    あと少しだけど、今の私にはそれが遠く感じる。

    借金、毎月の支払い、お金の不安、恐怖。

    これは長い間、生活の土台にあり続けたもの。

    そういう長く続いてきたお金の不安や、
    毎月の支払いに追われる感覚というのは、
    人の心から驚くほど余裕を奪い、
    視野をぎゅっと狭めてしまうものなのかもしれない。

    常に足元を脅かされているような緊張感の中にいれば、
    未来を明るく見通したり、
    のびのびと自分の声に耳を澄ませたりすることが
    難しくなるのは、当然のことだ。

    土台が揺れていると、
    人はどうしても「失わないため」の判断が増える。


    例えば、
    「何が好きか」より、「損しないか」
    「やりたいか」より、「生活できるか」
    「面白そう」より、「大丈夫だろうか」
    …そういう思考になりやすい。

    つまり、「足りない」「だから無理」が
    人生の前提だった時間がとても長い。


    だから、私が言う「不足感」は、
    通帳の残高だけではなく、
    世界の感じ方そのものなんだと思う。

    例えば、

    何かを買う時も。
    新しく始める時も。
    仕事を考える時も。
    将来を考える時も。

    まず、「足りるかな」「失敗しないかな」
    「無駄にならないかな」「意味があるのかな」
    が先に来る。

    そういう感覚が長年染みついている。


    だから私は、自分が本当に見てみたいのは、
    単に借金がゼロになった世界、
    お金の心配が無くなる世界ではなく、
    "「足りない」を前提にしなくていい世界で、
    自分は何を感じるのか "
    なんだと思う。

    単純に「お金持ちになりたい」とかいう話ではなく、
    "初めて安心できる土台の上に立ったら、
    自分は何を感じ、何を選ぶんだろう "
    という問い。

    それは、「やっと好きなことができる」
    という話だけではなく、
    「初めて、自分の本当の声が聞こえるかもしれない」
    という期待でもある。





    人って案外、「足りないから何をするか」は分かっても、
    「何も足りないと思っていない自分は、何を望むのか」
    は知らない
    ことが多い。

    私は今までは、
    不安をなくしたい。普通になりたい。
    回復したい。生きづらさを改善したい。
    そんな「不足を埋める自分の声」をたくさん聞いてきた。

    でも今の私が聞いてみたいのは、
    "もし何も欠けていないと感じていたら、
    私は何を選ぶんだろう。"
    という、自分のもっと奥にある声。

    それは、
    「〜しなければ」ではなく、「〜したい」
    「怖いから」ではなく、「好きだから」そんな声。

    不足感が私の声を歪めてきた部分はある。
    でももちろん、全部を作ったわけではない。


    ただ、もうその不足感だけを人生の軸にしたくない。


    もし、毎月の支払いを気にしなくていい。
    生活が安定している。
    「生き延びる」が最優先ではない。
    そんな世界で、

    「私は何を美しいと思う?」
    「私は何を大切にしたい?」
    「私は何に時間を使いたい?」

    その答えは、今とは少し違うかもしれない。

    不足感がなくなった世界では初めて、
    「私は本当は何が好きなんだろう」
    「何を選びたいんだろう」
    という声が聞こえてくるかもしれない。

    あるいは思いもよらないほど
    シンプルなものかもしれない。

    それは今までの人生で、
    ずっと環境や空気にかき消されてきた、
    小さな声
    なのだと思う。

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    こういうことを書くと、必ず届く言葉がある。

    改めて私の考えを書いておきたい。

    こういったことが表立って話されることが少ないのは、
    お金のことや家庭のことは
    「家の恥だから話すな」という空気があったり、
    親への罪悪感があったりして、
    言葉にしにくいからでしょう。

    でも、話題にならないことと、
    人生への影響が小さいことは全く別
    です。

    ここに至るまでのいろんなことが全部、
    一本の線でつながっています。

    私の場合、その線の始まりには、
    家庭の空気やお金に対する緊張感があった。

    だから、私にとってこの話は
    「昔話」ではなく、
    今の自分の価値観や生き方が、
    どこから生まれたのかを理解するための話
    です。

    ここで私は、
    誰かを責めているわけではありません。
    自分のことも責めも否定もしていません。

    そして、むしろ、母も苦しかった。
    毒あり父にも事情はあったのかもしれない。

    そういうことも分かった上で、それでも、
    自分はこういう生き方は繰り返したくない。

    だからこの話は、誰かを断罪するためではなく、
    自分の人生を理解し直すための材料
    なんだと思います。

    「やっぱり父が悪い」「母がかわいそう」
    「自分が悪かった」「私がダメだった」
    などで終わっていい話ではない。

    父にも母にも、私にも、
    それぞれの背景や限界があったことを踏まえた上で、

    「では私はどう生きたいのか」に視点を移すこと。


    だからこれは、親の評価の話ではなく、
    自分の人生の設計図を書き直す作業なんです。

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    そして、こういうことを書くと、

    「もっと大変な家庭はある」
    「親のせいにするな」
    「もっと貧しくても頑張ってる人もいる」
    「大変なのはみんな一緒」
    「みんな頑張っている」

    みたいな比較を持ち出す人はいるだろうけど、
    そうじゃない。

    そういう人も、そういう家庭も、
    いろんなパターンがあるだろうし、

    みんなそれぞれ複雑に積み重なっていたり、
    背景はいろいろ違う。

    私はよその家の話はしていない。

    私の話。うちの場合の話をしている。


    私がここで書いているのは、
    社会全体の順位づけではない。


    自分の人生を理解するための記録です。



    また、「頑張れば報われる」と言う人もいる。

    その言葉は、ときに、「安心できる土台」
    を持ってきた人の場所から放たれた、
    無邪気なナイフのように、
    剥き出しの傷口に触れてしまうことがある。

    その人の言う「努力の成果」は、
    実は恵まれた土台があって、
    頑張れる環境があってこそのもの
    なのだと思う。

    「頑張ればなんとかなる」なんて、
    努力が叶う前提の土台があって
    初めて成立する言葉で、その土台には、
    安心とか、支えとか、心の余白とか、
    たくさんの「見えない条件」が詰まってる。

    努力できるだけの余力、失敗しても戻れる場所、
    頑張っても大丈夫な安全があるからこそ、
    人は「信じていれば」と軽く口にできる。

    それって、本当は全然当たり前じゃない。

    これは、「だから努力は無意味だ」
    と言っているわけではありません。

    努力だけでは説明しきれない部分もある。
    ということ。

    人はそれぞれ違う土台の上で人生を歩いている。

    その違いを見ないまま一般論を語ると、
    誰かを傷つけることがある。


    もちろん、それでも社会では結果が問われます。
    収入も、仕事も、現実です。

    だから今の不足感があることも事実。

    でも、その現実だけを切り取って
    「自己責任」と言われても、
    その結果に至るまでの土台や背景が抜け落ちている。


    こういった話を、全ての人に理解してほしい
    とは思っていない。
    それは無理な話だ。

    物事や起きた事象に対して、
    理解度・解像度・捉え方は人の数だけあると思う。

    ただ、心も身体も、
    他人の痛みは本人にしか分からない。


    もちろん、事実としては正しいこともあります。

    でも、その事実は、
    目の前の人の痛みを理解したことにはならない。

    「もっと大変な人がいる」
    「自己責任だ」と言った瞬間、
    その人固有の背景や積み重ねが消えてしまう。

    どんな人にも様々な事情や背景があって、
    見せない部分も、見えない部分もある。

    自分のものさしだけ、見えている部分だけで、
    迂闊に他人の痛みをジャッジしてはいけない。
    まして、それを言葉にして安易に人へぶつけることは、
    もう通り魔的な暴力だと思う。


    昔の話。家庭の話。
    学校の話。仕事の話。
    人間関係の話。
    なかなか話しにくいことを語っている人を、

    安直に自分のものさしだけで判断し、
    それを言葉にして傷つけないでほしい。



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    「不足感のない世界で出てくる自分の声」

    その声がどんなものなのかは、まだ分かりません。

    もし聞ける日が来たなら、私は何を選ぶのだろう。

    それを知りたいと思えたこと自体が、
    今の私にとって、小さな希望です。



    【不足感に気づいた、その先】



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    【Kindle出版しました】






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    【心の記録|思考の言語化】 奥深くの感情を掬い、丁寧に解して包み込む… 私の中に光と彩りを取り戻すために。 そして…誰かの足元をそっと小さく照らす、 寄り添うような言葉でありますように。 〖記事内写真は全て自分で撮影〗

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