
『八日目の蝉』を思い出す、蝉の声が消えた夏の終わり『童神〜私の宝物〜』聴いてみて🎵
ごきげんいかがですか。
まめです。
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フォローでのご縁に感謝いたします。
夏の終わり
『八日目の蝉』という物語について。
あらためて考えてみました。
長くなりましたが…
読んでいただけたら嬉しいです。
1. 蝉の声が消えた夏の終わり
蝉の声が、聞こえなくなってきました。
朝も昼も、あれほど大きく響いていた声が、
いつの間にか遠くなっています。
蝉が鳴かなくなった静けさの中で、
私は角田光代さんの小説『八日目の蝉』を
思い出していました。
小説を読んだときや、ドラマを観たとき。
映画を観たときに。
同じ物語に触れているのに、
そのたびに、心に残る人物や場面が、
少しずつ違っていたように思います。
小説を読んだときに強く残ったのは、
野々宮希和子が秋山恵理菜を
連れて逃げ続ける姿でした。
恵理菜は、希和子に誘拐された乳児です。
希和子は彼女を「薫」と呼び、
自分の子どもとして育てます。
罪を抱えながらも、
希和子は薫を守ろうとします。
逃亡の途中で「エンジェルホーム」と
呼ばれる共同生活の場に身を寄せ、
その後、薫を連れて小豆島へ渡ります。
島では、周囲の人々と関わりながら、
つかの間の家庭のような時間を過ごしました。
その暮らしは、
決して正しいものではありません。
けれど、希和子にとっても薫にとっても、
そこには笑い声や食卓があり、
誰かに見守られている感覚がありました。
蝉が鳴いているあいだ、
私たちは、夏の中にいます。
暑さも光も騒がしさも、
当たり前のように、そこにある。
声が途絶えたとき、初めて私たちは、
それを聞いていたことに気づきます。
なくなってから、存在の大きさを知る。
人は、そこにあるものを
「いつでもある」と思ってしまいがちです。
誰かがそばにいることも、
声をかけられることも、
季節が巡ってくることも。
でも、ある日、なくなる。
昨日まであったものが、今日は、もうない。
『八日目の蝉』で、
希和子と薫の逃亡生活が終わる場面にも、
そんな喪失が感じられます。
小豆島の写真館で撮られた、
母と子のような一枚。
島で過ごした時間。
薫が希和子を「ママ」と呼んだ声。
それらは、希和子が薫を連れて
逃げたという事実によって、
単純には語れなくなってしまいます。
それでも、薫の中には、
あの時間の感触が残っていく。
蝉の声が消えたあと、
耳の奥に残る音のように。
「なくなった」と言われるよりも、
「なくなっていることに気づく」ほうが、
寂しいのかもしれません。
今年の夏は、戻ってきません。
同じ場所にいても、同じ人がいても、
去年の夏と今年の夏は違います。
私たちの中に、異なる記憶が
積もっていくからです。
季節の終わりには、
いつも何かしら失うものがあります。
2. 『八日目の蝉』への考察
『八日目の蝉』という題名を思うとき、
私は「生き残る」ということに
ついて考えます。
七日で終わるはずだったものが、
もう一日続いている。
みんながいなくなったあとにも、
自分だけが残っている。
それは、幸せなことなのでしょうか。
それとも、残された人だけが背負う、
静かな寂しさなのでしょうか。
八日目には、七日目までとは
違う景色があります。
その一方で、一緒に景色を
見るはずだった人は、もういない。
だから「八日目」という言葉には、
希望と孤独が同時にあるのだと思います。
生きているからこそ、見える景色がある。
同時に、生きているからこそ、
失ったものを思い出すこともある。
物語の中で、「八日目」を
生きることになるのが成長した恵理菜です。
恵理菜は、幼いころに
希和子から「薫」と呼ばれて育ちました。
保護されたあと、
実の両親のもとに戻り、成長してからは、
自分が誘拐された子どもであることや、
希和子との過去に向き合うことになります。
自分を産んだ実の母親と、
幼い自分を連れて逃げた希和子。
どちらも、恵理菜にとって
簡単には切り離せない存在です。
希和子は、恵理菜を奪った人です。
けれど同時に、幼い時間を抱き、守り、
愛情を注いだ人でもありました。
この二つの事実は、
どちらか一方だけに
決められるものではありません。
だから余計に、恵理菜の苦しみは
深いのだと思います。
「本当の母親は誰なのか」と問うだけでは、
彼女の中に残る記憶を説明できない。
小豆島での暮らしや、
そこで出会った安藤千草との関係、
写真館で撮られた写真。
そうした断片が、恵理菜の中で
ひとつの過去として残っています。
千草もまた、母親との関係や過去に
傷を抱えた人物です。
小豆島での出会いは、
恵理菜が自分の過去を見つめ直すうえで、
重要な意味を持ちます。
その過去は、幸せだったとも、
不幸だったとも、簡単には言い切れません。
愛情と罪悪感、安心と喪失が、
同じ記憶の中に重なっているからです。
反対に、希和子が身を寄せた
エンジェルホームの女性たちも、
それぞれに傷や孤独を抱えていました。
誰かを守りたいという思いが、
必ずしも正しい形になるとは限らない。
誰かに必要とされたいという願いが、
いつの間にか別の人を傷つけることもある。
『八日目の蝉』には、
そうした人間の弱さが描かれています。
愛したかった人、愛されたかった人。
守りたかった人、守られたかった人。
そして、失ったものを抱えたまま、
それでも生きていかなければならない人。
角田光代さんの作品には、
人の心の中にある、
簡単には言葉にできない部分が
描かれているように感じます。
誰かを思う気持ちが、
いつの間にか別の形に変わってしまうこと。
正しさだけでは、人の心を救えないこと。
過去から逃げようとしても、
過去は自分の中に残り続けること。
希和子は、薫を連れて逃げることで、
過去から離れようとしました。
ですが、逃げた先にも、過去はついてきます。
恵理菜が成長したあとも、
小豆島で過ごした時間は消えません。
それは、希和子にとっても
恵理菜にとっても、
人生の一部になってしまったからです。
小説、ドラマ、映画に触れたとき、
私は物語の出来事だけを
追っていたのではありません。
登場人物たちの痛みや迷いを見ながら、
自分の中にも似たような感情がないか、
そっと探していたのだと思います。
「あのとき、別の言葉を選べていたら」
「あのとき、もう少しだけ優しくできていたら」
そんなふうに、過ぎた時間を
何度も振り返ってしまうこと。
人は過去を変えられません。
ただ、過去の意味を少しずつ
変えていくことはできるのかもしれません。
恵理菜が自分の過去を知り、
希和子との時間を思い出し、
やがて自分の人生を歩こうとする姿には、
その可能性が表れているように感じます。
あの出来事があったから、
今の自分がいる。
あの痛みを知ったから、
誰かの痛みに気づける。
あの別れがあったから、
今そばにいる人を大切に思える。
すぐには、そんなふうに
考えられないこともあります。
考えたくない日もあります。
それでも、時間が経ったあとで、
過去の中に別の光が見えることがある。
『八日目の蝉』を思い出すと、
私は、そんなことを考えます。
もしかすると、
「八日目」とは、終わったはずなのに、
まだ続いている時間なのかもしれません。
希和子との暮らしが終わったあとも、
恵理菜の中では、その時間が続いている。
母親との関係に傷ついたあとも、
恵理菜は自分の人生を生きていく。
失ったものを抱えながら、
それでも、今日を生きている時間。
私たちは、みんな、それぞれの「八日目」を
生きているのかもしれません。
何かが終わったあと。誰かと別れたあと。
昔の自分には、戻れなくなったあと。
それでも、次の日は、やってくる。
戸惑いながら、ときには立ち止まりながら、
私たちは、今日という日を生きていきます。
八日目は、
特別な一日ではないのかもしれません。
ただ、昨日までとは違う景色を見ながら、
それでも、生きている一日。
夏の終わりに、蝉の声が消えても、
季節は、次へ進んでいきます。
蝉にとっては、
成虫として地上で活動する時期が
終わったあとにも、幼虫として土の中で
過ごした長い時間がありました。
恵理菜にとっては、希和子と過ごした
幼い時間が終わったあとにも、
その記憶を抱えて生きる時間がありました。
終わったからといって、
すべてが消えるわけではない。
むしろ、終わったあとに残るものが、
人の人生を形づくっていくことがあります。
そう考えると、
八日目は優しいものに思えます。
⬇️やさしい母の歌声😿🌌
3. 蝉の生涯
ここで少し、蝉の生涯について
触れてみたいと思います。
蝉は、私たちが耳にする
「鳴いている期間」だけを
生きているわけではありません。
日本で身近に見られるアブラゼミ、
ミンミンゼミ、クマゼミなどは、
卵から孵ったあと、幼虫として
土の中で数年間を過ごします。
ただし、幼虫期の長さや羽化の時期は、
種類や地域、気温などによって異なります。
海外には、幼虫期を
十数年にわたって過ごし、
十三年周期や十七年周期で
地上に現れる周期ゼミもいるそうです。
幼虫は、地中にもぐり、
植物の根から道管液を吸いながら成長します。
何度か、脱皮を重ね、
その期間は蝉の生活史の大部分を占めます。
十分に成長すると、
地上へ出て、木や草などに登り、
背中の殻を割って羽化します。
羽化したばかりの蝉は、
体も翅も柔らかく、色も淡い状態です。
しばらく動かずに過ごし、
体や翅が固まると、
成虫として飛び立ちます。
成虫の蝉は、種類によって
異なる鳴き声や活動時期を示し、
繁殖相手を探します。
大きな鳴き声は、
主に、雄が雌を呼ぶためのものです。
私たちが夏に聞く騒がしい声は、蝉にとって、
繁殖のための大切な呼びかけなのです。
成虫として地上で過ごす期間は、
種類や気温、天候などによっても
違ってきます。
日本で身近に見られる蝉では、
一般に数週間程度とされることが
多いものの、個体差があります。
そのため、
「蝉は、地上に出てから一週間で死ぬ」
「蝉は、七日しか生きない」
という表現は、蝉全体に、
当てはまる正確な説明ではないのです。
成虫期間が比較的短いことを
象徴的に表した言い回しとして
広まったものと考えられます。
蝉は、地中で過ごす幼虫期を含めれば、
数年、種類によっては、
十年以上にわたる生活史をもつ生き物です。
そう考えると、蝉の声は単純に
「短い命」の象徴というより、
長い成長の時間を経たあとに訪れる、
限られた季節の音なのかもしれません。
鳴いていた時間だけが、
蝉のすべてでは、ありません。
鳴くまでの沈黙も、
また、その生涯の一部です。
『八日目の蝉』という題名も、
蝉の短い地上生活だけを見ていると、
少し違った意味に感じられるかもしれません。
七日で終わるはずの命が、八日目まで残る。
けれど、蝉の生涯を知れば、
地上で鳴いている時間の前にも、
長い沈黙の時間があることがわかります。
人の人生も、
目に見える出来事だけで
できているわけではありません。
誰にも知られない時間。
言葉にならない記憶。
表面には現れない痛み。
そうしたものを抱えたまま、
人はある日、声を上げたり、
誰かを求めたり、誰かを守ろうとしたりする。
希和子が薫を抱いて逃げた時間も、
恵理菜が過去と向き合う時間も、
物語の中で描かれた出来事だけではない。
その前後にある長い沈黙や迷いがあってこそ、彼女たちの選択が生まれたのだと思います。
蝉の声が夏の終わりに消えていくとき、
私たちは、その声だけでなく、
声が聞こえなかった長い時間にも
思いを向けることができます。
鳴いていた時間だけが、蝉のすべてではない。
同じように、誰かの人生も、
目立つ出来事だけが、
その人のすべてではないのです。
4. おわりに
季節は、何かを
持っていくだけではありません、
記憶や匂い、誰かと過ごした時間、
ふと蘇る言葉を残していきます。
そして、今日のように、
「蝉が鳴かなくなったな」
という、小さな気づきも残していきます。
蝉が鳴いているときには、夏の中にいた。
蝉が鳴かなくなった今、
私は夏を思い出しています。
音が消えたことで、記憶の中の蝉は、
かえって大きく鳴き始めました。
夏の暑さ。夏の空の色。夕方の光。
遠くから聞こえていた蝉や子どもたちの声。
もう戻れない時間だからこそ、
鮮明になるものがあります。
『八日目の蝉』の中で、
恵理菜の記憶に残る小豆島の風景も、
きっと、それに似ているのだと思います。
海の光。島で過ごした時間。
希和子に抱かれていた感覚。
それらは、失われたあとも、
恵理菜の中から消えることはありません。
正しさだけでは整理できない記憶がある。
愛情だけでも、罪を消すことはできない。
それでも、人は過去を抱えながら、
次の日へ進んでいく。
蝉が鳴かなくなった静かになった街の中で、
私は夏の終わりを知りました。
今、角田光代さんの『八日目の蝉』を
思い出しながら。
蝉の声が消えたからこそ、
聞こえてくるものがあります。
過ぎてしまった時間のこと。
もう戻れない季節のこと。
大切だった人のこと。
それでも、今日を生きている自分のこと。
過去のすべてが消えてしまうわけではない。
それでも今、夏の日の思い出の音が
耳をを澄ませば、蝉の声とともに
聞こえてくるような気がしています。
大切なお時間をつかい
ここまで読んでくださって
ありがとうございました☺️
季節の変わり目は、
心も体も揺らぎやすいものです。
どうか無理をなさらず、
ご自分のペースで、お過ごしください。
読者さまの心の中には、
どんな夏の音が残っていますか?
蝉の声が聞こえなくなったあとも、
読者さまの心に夏の思い出の音や光が
残っていますように……✨

5. 自分におめでとう
継続できているのも、
読んでくださるみなさまのおかげです🍀
ありがとうございます🕊️

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