
「帰っておいで、ここにいるよ」〜からだと心を育てる愛のごはん
私の大好きな家族へ
ともだちへ
そして、見つけてくれたあなたへ
【はじめに】
「帰っておいで、ここにいるよ」
その言葉を、いつも胸の中に持っていました。
声に出すことより、ただそこにいること。キッチンに立っていること。ごはんを作っていること。それが私の「帰っておいで」だったのかもしれません。
私には、帰る場所がなかった。
子どものころの話です。だから大人になって家族を持ったとき、体が知っていたんです。帰ってこられる場所を作ることが、何より大切なのだと。意識してそう決めたわけじゃなくて、ただ、そうせずにはいられなかった。
5人の子どもを育てました。
子どもたちは、そんな私を「ママえもん」と呼びます。痒いところに手が届くというか、困ったときにはすぐ気づいて、なんでもやってくれる。言えばすぐに対応してくれて、ごはんはなんでも出てくる。まるでドラえもんのポケットみたいだから…だそうです。
私がしてきたことは、難しいことじゃありません。毎朝キッチンに立って、ごはんを作って、「いってらっしゃい」と送り出して、「おかえり」と迎える。ただそれだけのことです。
言葉にするなら、「生活をととのえる」こと。生きるための活動。地味だけど、一番大切なことだと思っています。
でも、からだと心を育てるのは、毎日のごはんだと信じていて。食卓に温かいごはんがあれば、そこが帰る場所になる。その積み重ねが、家族というチームをつくっていく。
30年間、そうして生きてきました。
ある日、ふたりの友人に言われました。
「まりさんがやってきたのは、“家庭内チームビルディング”だね」
「“主婦の職業化”だね」
聞いた瞬間、嬉しくて、胸の奥がぱっと明るくなりました。実は、心のどこかで、私もそう思っていたからです。
考えてみたら、7人分の毎日の食事と健康管理。1週間先まで見通した仕込みと献立。家計のやりくり。学校と行事のスケジュール管理。そして、性格も得意も全部違う5人を、一人ひとり観察しながら育てること。主人を、そばで支えることも。
これを会社でやったら、何人がかりの仕事なんだろう。
それに、経営者は10年先を考えると言いますが、私もそうでした。この子が大きくなった時、どんな大人になるんだろう。何かあった時、誰が支えになってくれるか。今日のごはんを作りながら、その先の姿を、いつも思い描いていました。
そう思ったら、じわじわと心に染みてきました。そうか、これが私の30年だったのかと。私は「何もしてこなかった人」じゃなくて、家族というチームをずっと経営してきた人だったのかもしれない、と。
このエッセイは、そのことを書いたものです。
毎日のごはん作りに疲れてしまったあなたへ。子育ての真っ最中で、しんどいあなたへ。子育てが終わりに近づいて、少しだけ寂しいあなたへ。50代になって、これからどう生きようかと思っているあなたへ。
特別な才能も、立派な家も、いりません。
帰ってこられる場所は、作れます。
あなたのその毎日が、いつか誰かの帰る場所になります。
この文章が、あなたの小さなヒントになれば嬉しいです。
よかったら、湯気の立つキッチンの椅子に座るつもりで読んでください。温かいコーヒーでも飲みながら。
あなたも、ここに帰ってくるつもりで。
【幸せは、食卓にあった】
一生のうち、何回ごはんを食べるんだろう。そう思うことがあります。
3食食べたとして、365日、30年。数えてみたら、気が遠くなるほどの回数になります。
その1回1回が、美味しくて幸せだったら。食べるたびに、誰かの笑顔があったら。なんて豊かな人生なんだろうって。
食卓に幸せがある、とずっと信じてきました。
5人の子どもを育てながら、毎日が戦争のような日々もありました。朝から晩まで動き続けて、ゆっくり座る時間もないくらいで。
それでも「幸せだな」と思える瞬間が、ちゃんとありました。
炊きたてのごはんの湯気。塩麹に漬けておいた鶏肉が、ほろりとやわらかく焼けたこと。「今日のごはん、おいしかった」のひとこと。末娘が笑ってくれた。愛犬のコロが初めてお座りを覚えた。
小さなことばかりです。でもその小さなことが、確かに今日の幸せで、明日また笑える理由になるんですよね。
私が30年間ずっと続けてきたことがあって。
どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、朝ごはんを作ること。子どもたちを「いってらっしゃい」と送り出すこと。夜、「おかえり」と迎えること。
たったそれだけのことかもしれません。でも毎日それが続くと、子どもたちの中に「ここには帰れる」という感覚が育っていくんです。言葉じゃなくて、体で覚えていく。
食卓に毎日温かいごはんがある。それが、チームの土台になると思っています。
私はよく「小さな幸せを見つけるのが得意ですね」と言われることがあります。
答えはいつも同じで、「そうしないとやってられなかったから」だと思うんです。
5人育てながら、全部を完璧にやろうとしたら壊れてしまう。だから「今日のよかったこと」を数えることが、自然と私の生き方になっていきました。怒ってしまった日も、うまくいかなかった日も、それより先に「今日もあったな」を見つけるようにしてきて。その積み重ねが、今の私を作ってくれた気がしています。
【体が元気なら、なんでもできる】
「また耳が痛い」
小さいころの私は、そう言い続けていました。幼少期から中耳炎を繰り返し、病院が生活の一部になっていて。中学生になっても、高校生になっても耳の調子が悪い日が続いて。そして中学と高校で、片耳ずつ手術を受けたんです。
手術が終わったとき…片耳の音が消えていました。
それから私の世界は少し変わりました。
聞こえない側の声からはうまく拾えない、三半規管も弱くて立ち上がった瞬間にふらっとすることも多くて。体調が思わしくない日が当たり前のようにそこにある。
でも不思議なことに、聞こえなくなった分だけ、見える力が育っていった気がして。相手の表情を読む。声のトーンを感じる。言葉にならないものを、目と感覚で受け取る。耳が不自由になって初めて気がついた、もう一つの「聴く力」でした。
そんな体で5人の子育てが始まりました。夜泣きがひどい夜が続いて、やっと眠れたかと思ったらまた泣き声が聞こえてくる。頼れる人のいない、孤独な夜が長く続いて…。
それでも、私には「好き」があったんです。小さいころから赤ちゃんが大好きで、保育士になるのが子どものころからの夢でした。だから子育ては、大変だったけれど、楽しかった。しんどいより、好きが勝っていました。
【母から受け取ったもの】
母は、感情の起伏が激しい人でした。子どものころの私には、その厳しさが怖くていつも顔色をうかがっていて。「今日のお母さんはどっちだろう?」と玄関に入る前から空気を読んでいたんです。
「ちゃんとしなさい」「人に迷惑をかけちゃダメ」。いつもそう言われて育ちました。私はどこかで苦しかった。「ちゃんとする」より「そのままのわたし」を見てほしかったのです。だから自分が親になった時、母とは違う育て方をしたかった。子どもは自由でいい。のびのびとしてていい、と。
大人になってから、ようやくわかりました。母は母なりに、一生懸命だったのだと。「しっかり育てなければ」その気持ちがあの厳しさになっていたのだと。元々私は自由が大好き、天真爛漫、興味があることは何でもやってみたい。母とは相性がよくなかっただけ。
事実にはいつも多面性があります。ひとつの出来事も時間が経てば違う色に見えてくる。そして母から、大切なものを受け取っていたことにも気がついて。
食卓には、いつも手作りのものが並んでいて。おやつも手作りで。体の弱かった私を、食で支えてくれていたのは、母だったんです。
【食べることがすべての土台だった】
自分の子どもたちには、丈夫な体を作ってあげたかった。体が弱いと、それだけでしんどいんです。やりたいことがあっても、体がついてこない。だから食べることで、からだをつくることが、私の子育ての一番の柱になっていきました。
体が元気なら、なんでもできる。これは理想じゃなくて、私自身が体で学んできたことです。
体力があれば挑戦できる。失敗しても立ち上がれる。また明日へ向かえる。美味しいものが食べられて、楽しいおしゃべりができる。それだけで十分幸せなのです。
ひとつだけはっきり言えることがあります。体にいいことに魔法はありません。麹も発酵も待つ時間が美味しさを作ってくれる。毎日の食事が少しずつ積み重なって体と心を作る。手軽さと即効性では体は変わらないんです。
そして、主人のことも少しお話させてください。会社を経営していて、結婚したころは、私の料理とは正反対の、ジャンクフードが好きな人でした。
だから私は、何年も前からタネを撒いてみました。まずはなんでも私がやってみる。麹も、発酵も、私が楽しそうに仕込んで、美味しそうに食べてみる。それを見ているうちに、自然と取り入れてくれるようになるんです。無理にすすめたことは、一度もありません。
そうして、私と暮らして30年。今こうして元気で働き続けていられるのは、私のごはんのおかげだと、本人がそう話してくれています。
まずやってみる私と、石橋を叩いて渡る慎重な主人。正反対だからこそ、お互いを補い合えました。お金を稼ぐのは主人。土台を作って、陰で支えるのは私。役割が違うだけで、どちらも家族というチームの仕事。
こうして今思うのは、あのころの苦しさは、全部今の私をつくるためにあったんだということ。
無駄なことは、何ひとつなかった。
【キッチンに立ち続けた30年】
目が覚めた瞬間から、もう始まっています。
ベッドの中で、今日のごはんを考えています。お弁当は何にしよう。夕ごはんは何が食べたいかな。起き上がる前から、頭はキッチンにあるんです。
朝のキッチンには、匂いの順番があります。出汁の湯気、炊きたてのごはん、塩麹に漬けた肉が焼ける甘い匂い。その匂いの中にいると、頭も体も自然と動き出すんです。
それなのに、苦しくないんです。得意なことだから。夢中になれるから。キッチンは、私にとって一番自分らしくいられる場所でした。
子どもたちが学校から帰ってくる時間が近づくと、なんとなくキッチンに立ちたくなります。玄関のドアが開く。その瞬間から、子どもたちは喋り始めるんです。
「ママ〜今日ね…」「ママ〜聞いてよ…」「もう疲れた〜」
カバンを降ろす前から、言葉があふれてくる。私はキッチンに立ちながら、聞いています。手を動かしながら、聞いています。
いつの間にか、キッチンが家族の溜まり場になっていました。みんながキッチンの近くにいたがっていた。私がそこにいるから。
帰ってこられる場所を作ることは、特別な何かじゃなかった。毎日キッチンに立ち続けること。ただ、そこにいること。それだけのことだったんだと思います。
その30年が家族の「帰る場所」になっていたとしたら、それが私の一番大切な仕事でした。
〜子どもはこうして育った〜
一人ひとりが自分で立てるように育てた。家族はチームだけど、個人事業の集まり。
【「いってらっしゃい」という魔法】
あの朝のことは、今でもはっきり覚えています。
次男が自転車で学校へ向かった、いつもと変わらない朝でした。「いってらっしゃい」と送り出して、玄関の扉が閉まって。
その後、電話が来たんです。車と事故にあった、と。
現場に駆けつけたとき、次男は無傷でした。自転車は大破していたのに、本人はかすり傷一つなくて。無事でいてくれたことへの安堵と、何か見えない力への感謝が、同時にこみ上げてきました。
「おかえり」と言えた。
その一言の重さを、あの日ほど感じたことはありませんでした。
子どもたちを送り出すとき、私はいつも同じ気持ちで「いってらっしゃい」を言ってきました。
行ってきなさい、ではありません。「いってらっしゃい」です。
この言葉には、「帰っておいで」が含まれています。行ってきてもいい。でも、ここに帰ってきていい。何があっても、ここがあなたの場所だから、そういう気持ちを込めて、ずっと言い続けてきました。
子どものころ帰る場所がなかった私には、「おかえり」と言ってもらえることがどれほどのものか、痛いほどわかるんです。
言ってもらえなかった子どもだったから、言える大人になりました。
人は、帰る場所があるから挑戦できます。失敗しても「おかえり」と言ってもらえる場所があるから、また「いってらっしゃい」と出かけていけるんだと思います。
【「早くしなさい」を言わなかった理由】
私は子どものころ、「早くしなさい」とよく言われました。急かされるたびに、焦って、萎縮して、なんだか悲しい気持ちになっていて。だから自分が親になったとき、最初から心に決めていました。あの言葉は、使わないようにしよう、と。
でも「言わない」と決めるだけじゃ足りません。子どもが自分で動けるように、仕掛けをたくさん作ることにしました。
カバンの置き場所、タオルの位置、本の場所。全部、子どもが自分で取りやすいように工夫して。成長に合わせて、家のほうを変えていくんです。
「やりなさい」と言わずに、仕掛けで。
忘れ物をしても、私は届けません。困るのは子ども自身で、次は自分で考えるようになりますから。失敗させてあげることも、親の大事な仕事だと今でも思っています。
「早くしなさい」を言わないことは、子どもをひとりの人間として信じること。どの子も0歳のころから、ずっとそう思っていました。
【見ている、でも待つ】
私には続けてきたことがあります。
子どもたちをよく見ること。でも、口出さないこと。
「見ている」と「口出す」は、似ているようで全然違います。見ているのは愛情で、口出すのは不安から来ることが多い。私はその違いをいつも意識してきました。
5人の子どもたちは、本当にそれぞれまったく違う。だから「この子はこういう子だ」と決めつけず、いつも観察していました。
とはいえ、私もいつも待てたわけじゃありません。
長女が中学3年生のとき、県立高校の合格点数がギリギリで自信をなくし、受験直前に「安全校」へ志望先を変えてしまったんです。
心配でたまらず、職員室へ相談に行きました。
その時、担任の先生がこう言ってくださいました。
「義務教育を終えて進む今が、子どもが“自分で選ぶ人生の第一歩”。悩む・揺れる・考える。その経験こそが自立につながります。どの道を選ぶかよりも、“自分で決めること”が大切なんですよ」
その言葉に、不安がすっと軽くなりました。今は娘を信じて、見守る時なんだ、と。
長女はその後、自分で高校を選び、大学を選び、自分の意思で就職活動をやめ、フリー漫画家の道へ進みました。どんな選択も、その子らしい大切な道になるんです。
「見ている、でも待つ」。それを私は、娘と先生に教えてもらいました。
転んでも大丈夫。失敗しても大丈夫。帰ってくる場所はここにある。
そう信じていたから、待てたのだと思います。
【夢中で走り続けた日々のこと】
「いつも楽しそうですね」と、よく言われてきました。
大変なことも山のようにありました。母がパーキンソン病を患って、介護と子育てが重なった時期もあります。学校の行事も、母の通院も、夜泣きも、全部同じ時期に重なって。夢中だったから、しんどさを感じる余裕もなかった。
それでも、ごはんだけは作っていました。母の通院の日も、眠れない夜が明けた朝も、気づけばキッチンに立っていて。今思えば、湯気の立つあの場所が、私をかろうじて支えてくれていたのかもしれません。
なぜ続けられたのかと聞かれたら、答えはたぶん、これです。
『なんだかんだ言っても、面白がっているから』
思い通りにいかないことばかりでした。思い通りにしようと思うことを、やめました。それでも目の前のことを、どこかで面白がっていた。ピンチも騒動も、振り返れば全部ネタです。
辛さを消す魔法はないけれど、面白がる力は、自分の中で育てられる。あの日々が私にくれたのは、それだったのかもしれません。
その場所に、ちゃんといた。それだけは、確かなことだと思っています。
【きょうだいは、チームになる】
子育てで一番得意だったことを聞かれたら、兄弟の間のこと、と答えると思います。
5人いれば、5人それぞれに感情があります。嬉しいことも、悔しいことも、寂しいことも、それぞれ違うタイミングでやってきます。その一つひとつの気持ちを大切にすること。それはたぶん、私が一番心を注いで、一番工夫してきたことです。
弟や妹が生まれるとき、決めていたことがあります。
長男にとって、突然現れた弟は「ママを取られてしまった」存在です。それまで一人っ子として私の愛情をぜんぶ受け取って育ってきたのだから、当たり前の気持ちです。
だから下の子が生まれてからの3ヶ月、私は上の子に愛情を存分に注ぎました。
心のコップが愛でいっぱいになると、あふれた分が、自然と下の子への優しさになっていくんです。誰に言われなくても、自分から弟をのぞきこんで、可愛がるようになる。
それから、「お兄ちゃんだから」「お姉ちゃんだから」は言いませんでした。私自身がそう育てられ、嫌だったからです。その子は、お兄ちゃんである前に、ひとりの人間。だから家では、それぞれを名前で呼びました。
そして5人もいると、一人ひとりとゆっくり向き合う時間は取れません。だから、作りました。
子どもたちが小さかったころ、よく「今日はママをひとりじめできる日だよ」と言って、その子とふたりだけの時間を作っていました。特別なことはしません。ふたりで出かける、ふたりでおやつを食べる。それだけで、子どもの顔がぱっと明るくなる。
ふたりの時間に伝える言葉も、決まっていました。
「あなたを一番愛してる」
5人全員に、そう言ってきました。「他の子には内緒ね」と言いながら。ひとりずつと向き合うその瞬間は、本当に、その子を一番愛していました。
兄弟の関係を、私はとても大切にしました。大きくなった時のことを、いつも考えていたからです。兄弟の間に信頼関係があれば、大人になって何かあったとき、安心していられる。帰る場所が、親のところだけじゃなく、横にも増えていく。
それがチームです。
そして今。社会人になった3人は、それぞれ別の会社に所属しながら、お互いの強みを活かして、一緒に副業もしています。同じ食卓を囲んで育ったチームが、大人になって、本当に一緒に仕事をしているんです。
チームは、仲良しが土台じゃない。それぞれの感情が大切にされた積み重ねが、チームをつくると思っています。
それから最後に、これだけは言わせてください。
子育ては、時には間違えます。でも、大丈夫。ママも1年生なんです。子どもと一緒に育っていけばいい。助けてもらいながらで、いいんです。
【帰ってこられる場所をつくる】
子育てが落ち着いてきた今、気づいたことがあります。
私がずっとやってきたのは、「帰ってこられる場所をつくること」だったんだと思います。それは子どものためだけじゃなかった。夫のためでもあり、友人のためでもあり、そして、私自身のためでもありました。
私には、子どものころ帰る場所がなかった。だから作った。ただそれだけだったんです。
帰ってこられる場所には、条件があります。「そこにいる人がご機嫌でいること」だと思っています。
お母さんが笑っていれば、家の空気は明るくなる。これは子育て中に、何度も体で感じてきたことです。「自分の機嫌をよくしておくことも、お母さんの大事な仕事」だと、子育ての途中で気づきました。
私の場合は、お花です。ほぼ毎日、家にお花を飾っています。テーブルに小さな花があるだけで、家の空気が少しやわらかくなって、私はご機嫌でいられるんです。
笑っているところ、楽しそうなところに人は集まってくる。
それが帰る場所の正体だったのかもしれません。
【キッチンに、みんなが集まってくる】
「ママのごはん食べると痩せちゃう、笑」
社会人になった子どもが、帰ってくるたびに、そう言って笑うんです。
上の3人は、リモートで自由に働ける仕事をしています。だから、帰りたいと思ったときに、帰ってこられる。「ママのごはんが食べたい」と言って、ふらっと帰ってくる。気づいたら、みんなが私のごはんを食べに集まってくるんです。
麹と発酵の、からだに優しいごはん。お腹いっぱいでも、体が軽くなっていくみたいで。すっきりした顔で、また自分の場所へ帰っていく。
上の子たちが帰ってくると、まだ学生の弟と妹と、よく喋って、よく笑っています。年が離れていても、まるで友だちみたい。そこに子どもたちの友だちも加わって、「ごはん食べていきなよ」が当たり前になって。大集合の食卓に、美味しいごはんとおしゃべりが、いつまでも続きます。
私はキッチンで手を動かしながら、その声を聞いています。
何も気を使わなくていい場所。素の自分に戻って、リセットできる場所。ここがみんなにとって、そういう場所になっているのだとしたら、それが30年の答えなのかな、と思います。
朝5時、まだ家族が眠っている時間。キッチンの灯りをつけて、仕込みを始める。ほうれん草をゆでて、塩麹に鶏肉を漬けて、ごはんを炊いて、生姜麹を仕込む。湯気が立って、いい匂いがしてくる。その時間が、私はたまらなく好きなんです。
最近、気づいたことがあります。私の「食べたい」は、「作りたい」であり、「食べさせてあげたい」なんです。大切な人たちの顔を思い浮かべながら作って、美味しそうに食べてもらう。それが、何よりも好き。私の「好き」には、いつも相手がいるんです。
ごはんは、ただの食事じゃありません。
「あなたのために作ったよ」「おかえり」「ここにいるよ」、言葉にしなくても、ごはんがそれを伝えてくれる。
私の「帰っておいで」は、ずっと、キッチンから立ちのぼる湯気だったんです。
2024年の夏、手帳にこんな夢を書いていました。
「私の夢。隠れ家。美味しい料理とお酒。ここで、私の大切な人たちが繋がっていく。そんな場所。私はここで待ってます」
書いてから、まだ2年もたっていません。気づいたら、夢はもう、叶っていました。
【おわりに――50代の今、人生はもっと楽しい】
振り返ると、どの場面も宝物でした。つらかったことも、うまくいかなかったことも、全部含めて、今の私をつくっています。
50代の今が、一番楽しいです。若いころより自由で、余裕があって、自分のことが少しずつわかってきて。何より、子どもたちが大人になって、対等に話せるようになったことが嬉しい。
正直に言うと、「私には何もない」と感じていた時期が、長くありました。でも、あるとき気づきました。
土台は、目立たないんです。
家がしっかり建っているのは、見えない土台があるから。私は背景だったんじゃなくて、土台だった。家族や友人が安心して生きていくための、見えない土台。
もしあなたが今、「私には何もない」と感じているなら、思い出してください。あなたが毎日支えているものの上に、誰かの人生が建っています。
あなたが今日も誰かのために作ったごはんは、その人の体になっています。あなたが送り出した「いってらっしゃい」は、誰かの背中を押していて。あなたが待っていてくれたから、「帰ろう」と思えた人がいます。
特別なことは、何もしなくていいんです。
毎日続けることが、一番の贈り物です。
一生のうち、何回ごはんを食べるんだろう。数え切れないその1回1回に、小さな幸せを見つけてきたのが、私の30年でした。
最後に、家族へ。
この文章のほんとうの宛先は、あなたたちです。
私を「ママえもん」と呼んでくれる、5人のあなたたちへ。いつも帰ってきてくれて、ありがとう。「ママのごはんが食べたい」と言って帰ってきて、よく食べて、よく笑って、また自分の場所へ出かけていく。その姿を見ることが、私の30年のいちばんの宝物です。
だんなさんへ
私たちの家、なんか、いいよね!
今の暮らしがあるのは、あなたのおかげです。ありがとう。
次男と長女は結婚し、長男も来年結婚します。新しい家族が増えるたび、大きな喜びを感じています。
お嫁ちゃんたち、婿くん。出会ってくれてありがとう。あなたたちも、もう私の子どもと同じくらい、愛おしい家族です。
みんなが帰ってくるから、このキッチンに立ち続けることができました。
そしてこれからも、ここにいます。
だから、いつでも。
帰っておいで。ここにいるよ。
そして、わたしの話を見つけてくれたあなたへ。
私と出会ってくれて、ありがとう。