第5話:出発当日、元夫からの電話とチャンギ空港の洗礼
2022年秋、ついに出発の日がやってきた。
娘は期待とワクワクと、少しの不安が入り混じった様子だった。私はといえば、久しぶりの海外、しかもコロナ禍で勝手が変わっているという緊張感から、浮かれるというよりむしろ気を引き締めるモードだった。私がしっかりしないと始まらない。淡々と、ひとつひとつやるべきことをこなしていく感覚だった。
そんな出発当日、地元の空港で搭乗前に、普段まったく連絡を取り合っていなかった元夫から突然電話がかかってきた。虫の知らせだったのか何なのか。「今から海外に移住するところなんだけど」と伝えると、向こうも驚いていた。
正直、何を話したかはあまり覚えていない。娘にも電話を代わり、それでも短く終えたはずだ。……ただしこの電話、後にビザ申請で必要になった書類の準備で、思いがけず助けられることになる。もし守護霊がいるのだとしたら、この後の展開を見越して、元夫を動かしたのかもしれない、とも思ったぐらいだ。

さて、本番はここから。
シンガポール・チャンギ空港でのトランジット中、マレーシア行きの便を待っていると、マレーシアのインターナショナルスクールから連絡が入った。
日本にいるときから何度も確認していた、とある書類についてだ。「もしかしたらルール変更があったのでは?」と、視力を落としながら毎晩情報をかき集めている中でキャッチした気になる情報があった。もちろん日本を出る前に3〜4回は学校に「本当にこれで大丈夫ですか?もしかしたら違うということはないですか?」と確認を取っていた。最後の方は学校側も「だから〜大丈夫です〜」と少し呆れられるほどだった。わかってる。でも何だか嫌な予感というか、「大丈夫」と言われてもイマイチ解消されないモヤモヤがあった。
日本にいる時じゃないと用意できない書類だから、もしルール変更などがあるとわかったら出発前に教えてね、と伝えていた。出発日も、ちゃんと伝えていた。
そして、日本を離れた瞬間──「やっぱり、おっしゃる通りで、その書類は違いました」と連絡が来たのだ。
……一瞬、思考が完全に停止した。「え????」しか出てこなかった。
マレーシアにまだ着いてすらいないのに、マレーシアの洗礼を受けてしまった。頭の中は混乱していた。入学試験もまだ受けていないのに、今から心配しても仕方ないのでは?いや、入学前提で動いておかないと後で自分たちが詰む。書類のためだけに日本に戻るのは絶対に嫌だ。じゃあどう交渉してみようか……と、ぐるぐる思考を巡らせながら搭乗口で待っていた。
3〜4回も念入りに確認していたのに、それでも防ぎきれない。海外のいい加減なオペレーション、恐るべしである。
ところが、搭乗時間になっても一向にアナウンスがない。私たちの周りには同じ便のチケットを持った人たちがいるし、搭乗口に表示されている便も合っている。でも、何か変だ──近くにいた人がグラウンドスタッフに聞きに行ったのを見ていた。するとスタッフからは「わからない、ゲート番号は合ってるからいいんじゃない?」という、なんとも心もとない返答。
……いや、絶対おかしい。直感が全力で警告していた。ここは海外、想定外は常に起きる。もしかして、アナウンスなし?もしくは聞こえづらいアナウンスで、搭乗口がすでに変更されているのでは?
娘の手を引いて、制限区域内の大型案内掲示板まで小走りでダッシュ。案の定、搭乗口が変わっていた。しかも、よりによってバスで飛行機まで移動するタイプのゲートに変更されている。
「このままだと乗り遅れちゃうかも!走るよ!」
娘を連れて全力ダッシュ。心の中では「いやいや、疲れるって!久しぶりの海外で子連れなんだから勘弁してよ〜〜!」と叫んでいた。
学校からの書類の件といい、まさかの搭乗口変更ダッシュといい、チャンギ空港では開幕からフルコースの洗礼を受けたのだった。
対照的に、娘はというと。チャンギ空港のお店で、YouTubeでしか見たことのなかった日本未発売のおもちゃやお菓子を見つけては、無邪気にはしゃぎ倒していた。母が内心テンパっていることなど、露ほども知らずに。しかし、過ぎてしまえば全て思い出。経験値をひとつ積み重ねただけ。全ては肥やしだ。
なんとか無事、マレーシア行きの便に飛び乗ることができた母娘。ようやく、待ちに待った瞬間が目前に迫っている。ポジティブに気持ちを切り替え、「よし、楽しもう」と思い直した──のだが、この旅にはまだ、続きがある。
