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10年前の旅日記②

    ラビーニャさんはこの時兄を亡くした。生活は困窮し、アメリカ憎しの思いが募った。彼らは日本の後援による独立を期待した。戦争が始まり、日本軍がやってきた。しかし、生活は変わらず、おまけに大本営から「食料は現地調達せよ」との命令が出ていたため、日本軍は食糧をかき集めるようになり、フィリピンの人々は食べる物に苦労し始める。(元来食糧が豊かな国ではなく、現在でもコメを輸入している。)
    各地で抗日ゲリラが活動し始め、日本軍はこれに苦しむようになる。日本はゲリラに対抗するためのフィリピン人組織「マカピリ(愛国同志会)」を旧サグダル党員を中心に結成させ、ゲリラの摘発にあたらせた。ラビーニャさんはそのマカピリのメンバーの一人だった。
    日本軍はマカピリのメンバーをスパイとして用いた。身元を隠すために麻のバッグを虚無僧のように被り、日本軍の前に並ばせられたフィリピン人たちの前に現れ、「こいつは親米派ゲリラだ」と指を指す。指を指されたフィリピン人は連行され、激しい拷問を受けるか処刑される。

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    マカピリの密告者

    ラビーニャさんもその活動に加わった。中には悪い奴もいて、日頃から気に入らなく思っていた人物に対し、彼がゲリラでないのにもかかわらず指差したらしい。次第にマカピリはフィリピン人にとって憎悪の対象となった。
    戦争が終わった後、彼らマカピリのメンバーは村人たちに袋叩きにされ、ラビーニャさんの父は彼の眼前で、銃床で顔の形が変わるほど殴られ殺された。彼自身も殺されかけたが、後ろ手に縛られた状態で湖に飛び込み、対岸まで泳いだ後、数ヶ月に渡って山中に潜伏した。

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    豚でも運ぶかのような扱いを受けるマカピリのメンバー


    群集心理の熱狂が冷めたのを見計らい、村に帰った。戦前の村のような朗らかな雰囲気は消え失せ、どこか疑心暗鬼な目をした村人たちの姿がそこにあった。その後、村人たちは誰も戦時中のことを口にしたがらなかったいう。
    いかに憎んでいたとは言え、マカピリをリンチの末に殺害した側も、人を殺めた罪悪感に苛まれていた。とはいえ肉親を売った彼らに対する恨みもまた残っていた。小さな村が長きに渡って鉛色の空気に包まれていたことだろう。

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