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秘密と嘘

    第1話 監督


    山王メディアHDの社内ホールは、外から見える赤坂の華やかさとは違い、静かだった。
    壁際には黒いスーツの社員たちが並び、前方のスクリーンには、まだ何も映っていない。
    やがて照明が落ちた。
    スクリーンに、三つのロゴが順に浮かんだ。
    山王メディアHD。
    神楽グループ。
    浅草出版グループ。
    谷村は、その三つ目のロゴを見たところで、背中の奥が冷えるのを感じた。
    原作の名を、知っていた。
    作者の名も、知っていた。
    そして、その作品を最後に、谷村透は編集部を離れた。
    離れた、ということになっている。
    スクリーンが暗転する。
    次に映ったのは、宇宙だった。
    太陽系は、天の川銀河の中を高速で移動している。地球は太陽の周りを回り、月は地球の周りを回る。誰もが、太陽を中心だと思っている。
    けれど、本当の中心は、いつも少しずれている。
    太陽もまた、完全な芯ではない。惑星に引かれ、わずかに揺れながら進んでいる。
    完璧な理論の中にも、細かなブレがある。
    そのブレが、ものを変えていく。
    星の映像が、海へ変わった。
    水の中で、小さな生き物が揺れている。やがて魚になり、陸へ上がり、森の中を何かが走る。
    「生き残るものは、最初から強かったものではない。変化に気づき、形を変えたものだけが、次の時代へ進む」
    ナレーションが、静かなホールに落ちた。
    偶然に生まれた小さな違いが、ある時代には弱点になり、別の時代には武器になる。
    宇宙の大きさの前では、人間の計画など、あまりにも小さい。
    それでも人は、計画を立てる。会社をつくり、資産を持ち、権利を守り、未来を選ぼうとする。
    スクリーンの中で語られているのは、映画の設定だった。
    けれど谷村には、それが会社そのものの話に聞こえていた。
    不動産という資産を持っていること。
    IPや権利、特許を持っていること。
    人材を抱えていること。
    技術を持っていること。
    それらは、持っているだけでは力にならない。
    変化を感じ取り、眠っている資産を組み替え、別の価値に変える力がいる。
    だが、力は使い方を間違えれば重荷になる。
    守るべき資産は、時代が変われば、眠ったままの負債にもなる。
    谷村は、暗いホールの中でスクリーンを見つめていた。
    これは、映画の冒頭だった。
    企業買収でも、事業再編でも、株主の圧力でもない。
    そのもっと前にある、変化そのものについての導入だった。
    それとも、山王メディアHDと神楽グループと浅草出版グループが、これから自分たちに向けて語ろうとしている、別の物語なのか。
    スクリーンの光が、谷村の横顔に揺れていた。
    やがて映画は終わった。
    最後の台詞が消え、黒い画面にエンドロールが流れはじめる。
    白い文字が、ゆっくりと下から上へ昇っていく。
    誰もすぐには席を立たなかった。
    拍手が起こるには、少しだけ間があった。
    赤坂は、時間によって顔を変える。 
    朝の赤坂は、人がまばらだった。夜通し開いていた店は扉を閉ざし、古い店の前では白い前掛けの男が水を撒いている。タワーの入口から犬を連れた女が出てきて、ホテルからはスーツケースを引いた男が眠そうに歩いていく。
    坂の下から聞こえていた子どもの声が、いつのまにか消えるころ、閉まっていた店の前に人の気配が戻りはじめる。
    搬入口には台車が止まり、紺のスーツの男が腕時計に目を落とす。黒いジャケットの若い男は、電話をしながら台本の端を押さえていた。
    やがて古い店の灯りとタワーの窓明かりが、同じ坂の上に重なりはじめる。 
    日にちが変わる頃、鮨屋の暖簾の横にある階段から、女の笑い声と男たちの低い声が降りてきた。
    やがて明かりが揺れ、スーツ姿の男たちが、若い女を囲むようにして姿を見せる。
    女は、仕立てのいいコートを羽織っていた。
    身体の線を見せる服ではない。
    それでも階段を降りてきた瞬間、通りにいた数人の視線が彼女へ流れた。
    暖簾の奥から、白い前掛けの大将が顔を出した。
    女に気づくと、何も言わずに、深く頭を下げた。
    女は笑みだけを返し、男たちに囲まれたまま通りへ出た。
    黒いハイヤーが、ゆっくりと通りに入ってきた。
    鮨屋の前は狭く、車を寄せる余白がなかった。
    運転手は少し先まで進み、地下の入口の前で、静かに車を止めた。
    タクシーを待っていた男が、声をかけようとして、言葉を飲み込む。
    ハイヤーの運転手も、後部座席の扉に手をかけたまま、わずかに姿勢を正した。
    その時、地下のライブハウスの扉が閉まった。
    低い音が、階段を伝って地上まで上がってくる。
    ギターケースを背負った女が、ぺたんこパンプスで階段を駆け上がってきた。
    背後で、地下の扉が重く閉まった。
    息を切らしていた。けれど、顔だけはまだ、地下の明かりの中に残っているようだった。
    誰かに見られているとは思っていない。
    それが、かえって目を引いた。
    スーツ姿の男のひとり、ドラマのチーフプロデューサーが、その場で足を止めた。
    なぜ目が留まったのか。本人にも、すぐにはわからなかった。
    ただ、さっきまで二階にいた女とは、まったく違っていた。
    完成された華やかさではない。視線を受け止めるための笑顔でもない。
    階段を駆け上がってきたその女は、胸にかかったギターケースの紐を直しながら、誰に向けるでもなく、ふっと頬をゆるめた。
    ハイヤーに乗りかけていたコートの女が、それに気づいた。
    扉に手をかけたまま、少しだけ振り返る。
    「約束、忘れないでくださいね」
    甘えるような声だった。
    だが、その一言だけが、夜の空気を冷たくした。
    赤坂大学大学院メディアデザイン研究科の最上階に、高松玲司の研究室があった。
    窓の外には、まだ人の気配が残っている。
    だが、この部屋の中だけは、奇妙なほど静かだった。
    部屋に入ると、まず古い紙の匂いがした。
    湿気を吸った台本。
    背表紙の割れた専門書。
    何度もめくられた企業レポート。
    そこに、壁際のモニターが放つ青白い光が混ざっていた。
    書棚には、分野ごとに小さな英語のラベルが貼られている。
    Media Industries、Cultural Policy、Broadcasting Studies、Entertainment Business。
    その隣に、Urban Development、Financial Markets、Tourism Strategy、Performing Arts。
    日本語の専門書の隣に、海外大学出版局の分厚い英語文献が混じっている。
    分類は、普通の学問領域とは少し違っていた。
    高松の研究室では、放送も、都市開発も、観光も、金融も、すべて同じ棚に置かれていた。
    編集者は、この研究室に入るたびに同じ感覚を覚える。
    ここは取材場所ではない。
    誰かの頭の中に、靴を脱がずに踏み込んでいるような場所だ。
    一方の壁には、海外大学院の学位記と、ハリウッド女優の大きなポートレートが飾られていた。
    大学教授の研究室には、少し不釣り合いなほど、印象の強い写真だった。
    高松玲司。
    七十一歳。
    元テレビマン。
    赤坂大学大学院メディアデザイン研究科教授。
    老いはある。
    だが、目だけが古びていない。
    入ってきたのは、出版社の編集者だった。
    四十代前半。
    手には録音機と、赤い付箋だらけのゲラ。
    高松玲司の自叙伝を担当している男だった。
    「先生。最終章ですが……」
    編集者は、慎重に言葉を選んだ。
    「この見出し、本当にこのままでいいんですか」
    高松は返事をしない。
    赤鉛筆の先が、新聞記事の余白をなぞっている。
    小さな音が、部屋の静けさに妙にはっきり響いた。
    編集者はゲラの一ページを開いた。
    そこには、太字でこう書かれている。
    ――海外アクティビストから「監督」と評された男。
    「この部分です」
    編集者はゲラを少し持ち上げた。
    「アクティビストから“監督”と呼ばれた、という表現です。かなり強いです」
    高松は、ようやく赤鉛筆を止めた。
    「向こうがそう言った」
    研究室の中央には、大きな作業机が置かれていた。
    その上には、五つのレポートが並んでいる。
    作業机の左側には、『マスメディア集中排除原則下におけるメディア企業再編モデルの検討』と『統合型リゾート誘致に伴う都市再開発基本構想』。
    右側には、『コンテンツファンド設立準備報告書』、『映像IPの海外展開および資本提携戦略』、『都心地価上昇に伴う土地流動化と再開発可能性』が並んでいた。
    どれも、表紙だけを見れば独立した研究資料に見えた。
    大学院の研究室に置かれていても、不自然ではない。
    編集者の仕事からは少し遠く、教授の幅の広さに、まずは感心した。
    ただ、少し実務寄りに感じた。
    学問のための資料というより、どこかの企業や自治体に提出する前の報告書に近い。
    編集者は、そう思った。
    けれど、それ以上の違和感までは、言葉にならなかった。
    反対側の壁には、ディスプレイが並んでいた。
    そのうちの一枚に、英語の速報が流れた。
    Wildcard Investments announces strategic capital and business alliance with KAGURA America.
    ワイルドカード・インベストメンツが、神楽グループの米国法人、KAGURA America と資本業務提携を結んだ。
    高松玲司は、その一行を見ても表情を変えなかった。
    驚いたのは、向かいの椅子に座っていた編集者の方だった。
    「先生、これ……」
    高松は返事をしなかった。
    壁の別の画面では、米国の投資ニュース番組が始まっていた。
    画面の左上に、LIVE NEW YORK の文字が出ている。
    スタジオの椅子には、ワイルドカード・インベストメンツの代表が座っていた。
    背後の大型モニターには、KAGURA America のロゴが映っている。
    司会者が尋ねた。
    “Is Dr. Takamatsu only an outside adviser?”
    ワイルドカード・インベストメンツの代表は、目を丸くした。
    “Only?”
    わざと驚いたように、両手を少し広げる。
    スタジオに小さな笑いが起きた。
    代表は、その笑いが収まるのを待ってから、肩をすくめた。
    “No, no. If he were only an adviser, I would be sleeping much better.”
    司会者が笑う。
    代表も笑った。
    “Dr. Takamatsu is not only an adviser.”
    そこで、代表は片手を上げ、親指と人差し指で小さなハートを作った。
    カメラに向けて、にこりと笑ってみせる。
    スタジオに、また笑いが起きた。
    代表は、その笑いが収まるのを待った。
    口元にはまだ笑みが残っていた。
    だが、その目だけは笑っていなかった。
    “He is our director.”
    編集者は、その言葉を頭の中で「監督」と訳し直していた。
    高松玲司は、画面を見なかった。
    翌朝、浅草出版では、まだ誰もそのニュースの意味を正しく理解していなかった。
    編集部の朝は、いつも通りに始まっていた。
    机の上にはゲラが積まれ、校正紙には赤字が入り、会議室の前では若い編集者が作家への電話をかけている。エレベーターが開くたびに、紙袋を抱えた営業や、眠そうな顔の編集者がフロアへ流れ込んできた。
    受付横の壁には、新刊案内のポスターが何枚も貼られている。
    その中央に、宮坂さゆりの顔があった。
    元アイドルにして直木賞作家。
    かつてファンから「さゆりーぬ」と呼ばれていた彼女は、いまでは浅草出版が最も手放せない看板作家になっていた。
    彼女の小説は、電子書籍で火がつき、紙でも売れた。物語の熱は、やがて本の外へこぼれ出し、浅草の街を巻き込んで、今年で二回目となる浅草フェスティバルを生んだ。
    その原点にあったのが、宮坂さゆりの小説だった。
    そのポスターの前を、谷村透が通り過ぎた。
    ゲートを抜け、奥へ消えていく背中を見送ってから、若い編集者が小さく言った。
    「飛ばされたらしいですね」
    隣の男は、宮坂さゆりのポスターを見たまま答えた。
    「人事異動の時期じゃないのに、コンテンツ室だからな」
    「じゃあ、噂通りなんですか」
    年上の男は、すぐには答えなかった。
    若い編集者は、さらに声を落とした。
    「編集者っていうより、犯人探ししてる刑事みたいだったって聞きました」
    年上の編集者は、そこで初めてポスターから目を離した。苦笑しようとして、途中でやめたような顔だった。
    「余計なことまで読むんだよ、あいつは」
    若い編集者は笑いかけたが、年上の男の声が思ったより低かったので、口を閉じた。
    その頃、編集部より少し奥のコンテンツ室では、谷村透が自分の席に着いていた。
    壁際のテレビでは、朝の経済ニュースが流れていた。
    神楽グループ、ワイルドカード・インベストメンツと資本業務提携。
    あわせて、社外顧問制度を廃止へ。
    アナウンサーの声は、淡々としていた。
    「神楽グループは、米国の投資ファンド、ワイルドカード・インベストメンツとの資本業務提携を発表しました。あわせて、グループ各社に置かれていた社外顧問制度を順次廃止し、経営判断の透明化を進めるとしています」
    誰も、そのニュースに反応しなかった。
    コンテンツ室の社員にとっては、大企業の組織改革にしか見えなかった。
    だが、谷村透だけが、手を止めた。
    社外顧問制度を廃止へ。
    その言葉だけが、画面の中で妙に浮いて見えた。ただの制度変更なら、朝のニュースでわざわざ大きく扱う必要はない。
    社外顧問は、役員ではない。
    社員でもない。
    だから、名前が表に出ないまま、会社の最後の判断に触れることがある。
    そして、消すときも同じだった。
    誰かの名前を書かずに済む。
    谷村は、そういうやり方を一度見たことがあった。
    谷村の実家は、尾張の織物屋だった。
    曾祖父の代に、親族がアパレル会社を興し、一族の仕事は、生地を織る場所から、服を売る場所へ少しずつ伸びていった。
    子供服がよく売れた時期がある。
    胸元に人気のキャラクターをひとつ載せるだけで、同じ生地でも、同じ縫製でも、値段も動きも変わった。
    ただ、それを大手流通の棚に並べるには、別の力が要った。
    名前の出ない顧問が、最後に話を通す。
    それは、悪いことではなかった。
    顧問がいたから、尾張の小さな織物屋の生地が、全国の売り場へ届いた。
    版権元との話も通り、親族の会社も大きくなった。
    誰かが損をしたわけではない。
    むしろ、皆が助かった。
    名前の載らない人間ほど、最後の一言を持っていくことがある。
    ガバナンス強化。
    透明化。
    説明責任。
    どれも、きれいな言葉だった。
    谷村は、マウスに置いた指を動かさなかった。
    きれいな言葉で片づけられる痛みを、彼は知っていた。
    その直後だった。
    社内ポータルの端に、小さな通知が表示された。
    浅草フェスティバル、メインステージ出演順変更のお知らせ。
    谷村は、その通知から目を離さなかった。
    周囲では、まだ誰も気づいていない。
    壁際のスクリーンには、浅草フェスティバルに関する投稿が、タイムライン形式で流れていた。反応数の多い投稿だけを拾い上げ、画面は次々と切り替わっていく。
    雷門の前で、五人組の女性アイドルグループがサビだけを踊っている。
    別の投稿では、ライブ終わりのメンバーが、汗を拭きながら笑っていた。
    「ここまで来たからには、絶対にメインステージに立ちたいです」
    投稿された動画には、白い文字が流れていた。
    優勝すれば、隅田川沿い特設メインステージへ。
    上位に残れば、浅草花やしき内ホールのライブ枠。
    さらに別の投稿では、浴衣風の衣装を着たグループが、浅草の路地で人形焼きを分け合っていた。
    画面の隅では、社内で「DJ」と呼ばれている若い社員が、人形焼きをかじりながら、流れてくる投稿に軽口を挟んでいた。
    「浴衣風衣装、強いですね。浅草感あります。あ、人形焼き分け合ってる。こういうの、引用つきやすいんですよ」
    DJは、口元についた餡を親指で拭いながら、軽い声で続けた。
    「雷門前のサビ動画、ライブ後コメント、人形焼き。今伸びてるのはこのへんです。夢を語るか、浅草っぽい絵を出すかですね」
    周囲の社員が、少しだけ笑った。
    だが、谷村は笑わなかった。
    彼の視線は、通知の下に添付された修正版リストへ落ちていた。
    二十時から二十一時。
    浅草側、隅田川沿い特設メインステージ。
    会場に人が集まり、配信を見る人も増える時間だった。
    秋の夜のステージとして、照明も映える。
    川面に返る光も、客席に揺れるスマートフォンの明かりも。
    そこにあった名前は、消えていた。
    浅草出版グループ推薦。
    シンガーソングライター。
    赤坂のライブハウスを中心に活動。
    その三行は、別の時間帯へ移されていた。
    代わりに、日本で本格展開を予定する新人韓国アイドルグループの名前が入っている。
    備考欄には、こう記されていた。
    経済産業省関連コンテンツ海外展開支援事業・重点配信枠。
    谷村は、その一行をしばらく見つめた。
    当初のリストに、経済産業省の名前はなかった。
    「まあ、補助金が入ってるなら、口も出ますよね」
    人形焼きをかじりながら、DJが言った。いつもの軽い声だった。
    誰も反論しなかった。
    補助金が入った事業なら、役所の意向が入る。海外展開という名目なら、海外向けに見栄えのする出演者を置く。理屈としては通っていた。
    谷村も、そこまでは分かっていた。
    だが、DJは画面を見たまま、ぽつりと言った。
    「でも、外された子を、昨日、僕が赤坂で観てきました」
    谷村の指が止まった。
    軽口の続きだと思っていた空気が、そこで切れた。
    「誰が」
    「うちの会社、推薦のシンガーですよ」
    谷村は、DJの顔を見た。
    「おまえ、撮ってるな」
    DJは、人形焼きの袋を机の端へ押しやった。
    モニターに、前夜の赤坂が映った。
    ステージの端に、彼女が映っている。
    足元まで映った瞬間、DJは画面を止めた。
    「赤坂で見たとき、ヒールじゃなかったんです。ぺたんこのパンプスでした」
    谷村は、画面を見た。
    「それがどうした」
    少し冷たい言い方になった。
    自分でも分かった。
    「でも、客席から見ると、大きく見えたんです。背が高いとか、そういう意味じゃなくて。小さい箱なのに、ステージの上で、ちゃんと目を引いてました」
    DJの声から、いつもの調子が少し消えていた。
    谷村は、もう一度、画面の中の彼女を見た。
    派手な衣装ではない。
    大きな看板を背負っているわけでもない。
    それでも、ステージの端に映っただけの動画なのに、視線が戻った。
    DJは、もう一つ別の動画を開いた。
    「でも、この子、スペイン語いけるんですよね」
    谷村の指が止まった。
    「スペイン語?」
    「前に見た配信です。南米のファンっぽいコメントを拾って、普通にスペイン語で返してました。」
    室内の空気が、少しだけ変わった。
    DJは、何でもないことのように続けた。
    「海外展開っていうなら、韓国だけじゃないですよね」
    谷村は、もう一度、備考欄を見た。
    経済産業省関連コンテンツ海外展開支援事業・重点配信枠。
    理屈は通っているように見えた。だが、その理屈で彼女を外す理由は、どこにも書かれていなかった。
    谷村透は、画面を閉じなかった。
    そのとき、コンテンツ室の入口に、静かな気配が立った。
    谷村が顔を上げると、宮坂さゆりがそこにいた。
    コンテンツ室の社員たちが、少しだけ背筋を伸ばす。
    その中で、DJだけが小さく手を振った。
    「さゆりーぬ」
    語尾にハートマークが見えるような声だった。
    さゆりは、慣れた笑みでそれを受け流した。
    その笑みには、元アイドルの華やかさがまだ残っていた。
    人前に出ることに慣れた者の余裕も、そのままだった。
    けれど、彼女の視線はDJには留まらなかった。
    その笑みの向かう先だけは、最初から決まっていた。
    谷村だった。
    浅草フェスティバルは、今年で二回目だった。
    最初の年は、まだフェスティバルという名前だけが少し大きかった。
    浅草の夜を歩くナイトツアーと、作品の読者を集めたトークイベント。
    商店街の数軒が協力し、東京都の後援も受けて、どうにか形になった小さな企画だった。
    宮坂さゆりの小説から始まったそれは、まだ浅草という街を巻き込むには小さすぎた。
    それが今年は違う。
    隅田川沿いに特設ステージが組まれ、出版社だけでなく、街の店、観光関係者、芸能事務所、配信会社まで巻き込んでいる。
    その上で、作品のドラマ化まで発表されることになっていた。
    だから彼女は、ここへ来られた。
    浅草出版への挨拶。
    浅草寺への報告。
    関係者として顔を出すこと。
    どれも、きちんとした理由だった。
    けれど、その理由を一枚ずつ剥がしていけば、最後に残るものはひとつしかなかった。
    谷村に会うための名目が、ようやくできた。
    「これから、浅草寺へご挨拶に行ってきます」
    さゆりーぬは、何でもないことのように言った。
    谷村は、すぐには答えなかった。
    やがて、彼女を見たまま言った。
    「原作者が、わざわざここまで来る必要はない」
    「元担当の編集者には、挨拶しておきたかったので」
    さゆりは答えた。
    谷村は返事をしなかった。
    さゆりも、それ以上踏み込まなかった。
    雷門から仲見世へ向かう人の流れは、夕方になっても途切れなかった。
    土産物の袋を提げた観光客が笑い、浴衣姿の若い女たちがスマートフォンを掲げている。
    揚げ饅頭の匂い、店先の呼び声、遠くで鳴るシャッター音。
    浅草は、まだ昼の熱を残していた。
    その熱から、ほんの少し退いた場所に、茶室があった。
    畳の上に座ると、外の音は急に遠くなった。
    茶の湯気が、ゆっくりと立っていた。
    チーフプロデューサーは、茶碗を前にして、深く頭を下げた。
    「本日は、貫首様にお時間をいただき、誠にありがとうございます」
    その言葉に、向かいの僧は、かすかに目元を緩めた。
    「その呼び方では、少し堅うございますな」
    チーフプロデューサーは、顔を上げた。
    僧は、若い女優と宮坂さゆりの方へ、静かに視線を移した。
    「お嬢さん方もおいでです。今日は、住職でよろしい」
    女優は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
    宮坂さゆりも、静かに頭を下げる。
    チーフプロデューサーは、もう一度、深く礼をした。
    「では、住職。本日は、よろしくお願いいたします」
    それから、隣に座る二人へ視線を移した。
    「こちらが、今回主演をお願いしております、女優の横山まそらさんです」
    女優は、両手を畳につき、静かに頭を下げた。
    「本日は、よろしくお願いいたします」
    「そして、こちらが原作者の宮坂さゆり先生です」
    宮坂さゆりも、丁寧に礼をした。
    「お時間をいただき、ありがとうございます」
    住職は、二人に向かって、穏やかに頷いた。
    「ようこそお越しくださいました。まずは、どうぞ一服なさってください」
    しばらく、茶室には、茶碗を置く小さな音だけがあった。
    女優は、目の前の茶碗を見つめていた。
    淡い泡が、器の中で静かに揺れている。
    それから、少しだけ首を傾げた。
    「すみません。薄茶というのは……お抹茶の点て方の違い、ということでしょうか」
    住職は、責めるでもなく、静かに微笑んだ。
    「抹茶でございます。ただ、濃く練るものを濃茶、さらりと点てるものを薄茶と申します」
    女優は、少し安心したように、茶碗へ目を戻した。
    「では、こちらは薄茶なんですね」
    「はい。今日は、皆さまにまず、気楽に召し上がっていただければと思いまして」
    その言葉で、茶室の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
    チーフプロデューサーは、その沈黙を待ってから、姿勢を正した。
    「本日は、山王メディアHDならびに制作チームを代表して、浅草フェスティバルと、ドラマ化企画の件で、正式にご挨拶に参りました」
    住職は、黙って聞いていた。
    「フェスティバル当日、隅田川沿いの特設ステージで、作品のドラマ化を発表する予定です」
    住職は、茶碗に目を落としたまま、静かに言った。
    「お話は、寺務方から伺っております」
    チーフプロデューサーは、静かにうなずいた。
    「ありがとうございます」
    住職は、穏やかな声で続けた。
    「庶民の娯楽が、息づいてきた町です」
    住職は、そこで少しだけ微笑んだ。
    「だからこそ、その良さを、どうぞ広めてください」
    チーフプロデューサーは、茶碗には手を伸ばさなかった。
    ひと呼吸置いてから、静かに言った。
    「承知しました」
    住職は、静かにうなずいた。
    「浅草らしく、賑やかにおやりください」
    チーフプロデューサーは、正座のまま、深く頭を下げた。
    「ありがとうございます。必ず、浅草らしい形にいたします」
    顔を上げたとき、横山まそらと目が合った。
    ほんの一瞬だった。
    彼女は、何も言わなかった。
    ただ、茶碗を持つ指先だけが、わずかに緩んだ。
    赤坂の夜に交わした約束が、そこでようやく形になった。
    谷村の私用携帯が震えた。
    画面に出た名前を見て、谷村は少しだけ眉を動かした。
    編集部にいた頃の先輩だった。
    「谷村、悪い。いま少し動けるか」
    「何ですか」
    「宮坂先生の件だ。浅草寺のご挨拶が終わる時間なんだが、こっちが抜けられなくなった」
    「担当でしょう」
    「作家先生の原稿が今日〆切なんだ。席を外せない」
    谷村は黙った。
    「俺が行く必要はないでしょう」
    電話の向こうで、先輩が少しだけ息を吐いた。
    「宮坂先生が言ったんだよ。谷村さんなら、場所も分かるからって」
    谷村は、しばらく返事をしなかった。
    「どこに迎えに行けばいいんですか」
    「雷門の近くで待ってる。詳しい場所は送る」
    「分かりました」
    谷村は通話を切った。
    画面が暗くなってからも、しばらく携帯を見ていた。
    知っている店だった。
    昔、彼女を一度だけ連れてきたことがある。
    当時の宮坂さゆりは、まだ酒を飲める年ではなかった。
    暖簾をくぐると、奥の席から笑い声が聞こえた。
    宮坂さゆりがいた。
    鰻の膳を前に、薄いグラスを手にしていた。
    谷村が席につくと、店のテレビからニュースが流れた。
    『映像制作会社の北辰映像社について、海外投資ファンド、ワイルドカード・インベストメンツが、発行済み株式の十二パーセントを取得したことが分かりました』
    谷村は、箸袋に指をかけたまま動きを止めた。
    店の奥では、焼き場から脂の落ちる音がしていた。
    甘辛いタレの匂いが、湯気と一緒にゆっくり流れてくる。
    座敷の端では、年配の客が徳利を傾け、誰かが小さく笑った。
    その中で、テレビの声だけが、妙にはっきり聞こえた。
    「ゆかりんの会社のニュースです」
    さゆりが、薄いグラスを置いて言った。
    谷村はテレビを見た。
    羽黒ゆかり。
    さゆりと同じ時期にアイドルとして活動していた、北辰映像社創業者の孫娘だった。
    画面には、北辰映像社の古い社屋が映っていた。
    灰色の外壁に、年季の入った社名板がかかっている。
    派手なビルではなかった。
    だが、古い番組のエンドロールで、その社名を見たことのある人間は多いはずだった。
    羽黒ゆかりの祖父が、一代で大きくした会社だった。
    『ワイルドカード側は、経営陣に対し、保有資産の活用と映像IP事業の再編を求めているものとみられます』
    「前にも、同じようなことがありましたよね」
    さゆりは、テレビから目を離さずに言った。
    谷村は、箸袋から指を離した。
    「知っているのか」
    「ゆかりんから、少しだけ」
    さゆりは、薄いグラスの縁に指を添えた。
    氷が、かすかに音を立てた。
    「アイドルの頃、楽屋で一度だけ聞いたんです。家のことで、少し揉めてるって」
    谷村は黙っていた。
    「そのときのゆかりん、笑ってました。いつも通りに。周りには、何でもない顔をして」
    さゆりは、少しだけ目を伏せた。
    「でも、目だけ全然笑ってなかった」
    谷村は答えなかった。
    宮坂さゆりは、人前で笑う仕事をしてきた女だった。
    笑顔を求められる場所で、笑顔を返すことを覚えてきた。
    疲れていても、怖くても、腹が立っていても、カメラの前では表情を崩さない。
    そういう仕事の中で、彼女は人の笑顔に敏感になっていた。
    だからこそ、笑っている人間が本当は笑っていないときの顔を、よく知っている。
    さゆりたちがアイドルだったころ、北辰映像社は海外アクティビストに大きく揺さぶられたことがある。
    その渦中で羽黒ゆかりが何を見ていたのか、さゆりはすべてを知っているわけではない。
    ただ、忘れられない顔というものはある。
    テレビの中では、アナウンサーが淡々と読み上げていた。
    画面が切り替わった。
    スタジオでは、明るい色のスーツを着た女性アナウンサーが、パネルの横に立っていた。
    「ここからは、いま注目の企業ニュースです。北辰映像社の株式を十二パーセント取得した、ワイルドカード・インベストメンツ。その代表が、番組の取材に答えました」
    横の男性司会者が、少し大げさにうなずいた。
    「北辰といえば、昔の名作ドラマも多いですし、キャラクター事業もありますからね」
    「そうなんです」
    アナウンサーは、手元のフリップをめくった。
    保有資産。
    映像IP。
    再編。
    どれも、きれいに整えられた言葉だった。
    だが、その言葉の下で、誰かの家が揺れる。
    誰かの名前が消える。
    誰かが、笑ったまま目だけを殺す。
    谷村は、テレビの音だけを聞いていた。
    神楽の次は、北辰。
    偶然にしては、順番がよすぎた。
    画面の中に、ワイルドカード・インベストメンツの代表が映った。
    白い壁を背に、男は柔らかく笑っていた。
    「日本のみなさん、こんばんは」
    流暢な日本語だった。
    スタジオから、小さな驚きの声が上がる。
    「日本語、お上手ですねえ」
    司会者が明るく言った。
    代表は、少しだけ首を傾けて笑った。
    「ありがとうございます。日本の映像文化には、長く関心を持ってきました」
    その発音には、ほとんど癖がなかった。
    丁寧で、穏やかで、どこにも敵意が見えない。
    だからこそ、谷村には嫌だった。
    代表は、笑顔のまま続けた。
    「北辰映像社には、素晴らしい資産が眠っています。長年、多くの方々に愛されてきた作品、キャラクター、制作ノウハウ。それらを、もっと広い市場へ届けるべきだと考えています」
    司会者が、感心したようにうなずいた。
    「眠っている資産を活用する、ということですね」
    「はい。会社の価値を、正しく評価するということです」
    谷村は、箸を取らなかった。
    正しく評価する。
    人が守ってきたものを、彼らはそう呼ぶ。
    「谷村さん、そういう顔、昔からしますよね」
    「どんな顔だ」
    「ごはんを食べているのに、もう別の事件の中にいる顔」
    谷村は、ようやく箸を取った。
    「悪かった」
    「謝ってほしいわけじゃないです」
    さゆりーぬは、重箱の端を見ながら言った。
    「ただ、変わってないなと思って」
    谷村は答えなかった。
    変わっていない。
    その言葉は、責めているようにも、懐かしんでいるようにも聞こえた。
    「昔も、そうでしたよね。何か見つけると、急に黙る」
    「そうだったか」
    「そうでした」
    さゆりーぬは、少しだけ笑った。
    「だから、分かります。いま、もう普通のニュースじゃなくなったんですね」
    谷村は、箸を止めた。
    さゆりーぬは、それ以上踏み込まなかった。
    谷村も、説明しなかった。
    説明しなくても、分かることがある。
    昔から、二人の間にはそういう沈黙があった。
    浅草の夜は、何事もなかったように続いていた。
    店の奥では、焼き場から脂の落ちる音がしている。甘いタレの匂いが、湯気と一緒にゆっくり流れてくる。
    だが谷村だけは、もう同じ景色には戻れなかった。
    北辰映像社は、狙われている。
    そして目の前には、その変化に誰より早く気づいてしまう女がいた。
    谷村は、そこで初めて携帯を取り出した。
    さゆりーぬは、谷村のそういう癖をよく知っていた。
    何かに引っかかったとき、谷村は急に口数が減る。相手の話を聞いていないわけではない。
    その場にいながら、もう別の場所へ行ってしまうのだ。
    昔からそうだった。
    検索欄に、アクティビスト、北辰映像社、そして羽黒ゆかりの名前を入れる。
    ただの検索ではない。AI検索だった。
    昔、アクティビストが北辰を揺さぶった頃には、こんなものはなかった。
    新聞記事、業界紙、噂話、誰かが持ってくる紙の資料。
    あの頃の人間は、そういうものを一つずつ拾い集めるしかなかったはずだ。
    だが、画面に並んだ答えを見て、谷村は違和感を覚えた。
    画面の奥で、同じページをめくっているような気がした。
    まるで、誰かが先に結論を書き、あとから記事がそこへ集まっていったように見えた。
    谷村は、検索欄に言葉を足した。
    北辰映像社。
    ギャラクシー・キャピタル。
    ワイルドカード・インベストメンツ。
    AI検索の画面が、数秒だけ白くなった。
    やがて、いくつかの表が並んだ。
    ギャラクシー・キャピタルが過去に株式を取得した会社。
    ワイルドカード・インベストメンツが近年、株式を取得した会社。
    その後に送られた公開書簡。
    株主総会で出された役員選任案。
    保有資産の売却提案。
    事業再編を求める声明。
    谷村は、画面をゆっくり下へ送った。
    二つのファンドの投資先は、思ったほど重なっていなかった。
    むしろ、うまく離れているように見えた。
    食品。
    不動産。
    映像。
    出版。
    地方銀行。
    古い製造業。
    どちらも、眠っている資産を持つ会社に近づいている。
    だが、同じ会社の株を同じ時期に持つ例は多くない。
    それなら、偶然だと言える。
    それなら、別々の投資判断だと言える。
    谷村は、さらに画面を下へ送った。
    だが、数少ない重なりのある会社では、必ず何かが起きていた。
    公開書簡。
    役員候補の提案。
    不採算事業の切り離し。
    保有不動産の活用。
    旧来の経営陣に対する説明要求。
    保有比率は、どれも決定的な数字ではない。
    会社を支配するには足りない。
    けれど、会社を揺らすには十分だった。
    谷村は、箸袋にかけていた指を止めた。
    十二パーセント。
    テレビで読まれた数字が、耳の奥に戻ってきた。
    多すぎない。
    少なすぎない。
    騒ぎを起こすには、ちょうどいい数字だった。
    北辰映像社は、狙われても不思議のない会社だった。
    旧作の権利。
    海外に出せる映像IP。
    都内に残る土地。
    古いスタジオ。
    創業家が守ってきた株式。
    外から見れば、眠っている資産はいくらでもある。
    だから、アクティビストが入ってくること自体は分かる。
    彼らの言うことが、すべて間違っているわけではない。
    だが、画面に並んだ過去の事例は、別のことを示していた。
    北辰映像社は、もう盤面に乗せられている。
    そして、誰かが次の一手を待っている。
    谷村は、暗くなりかけた携帯の画面に、自分の顔が映るのを見た。
    浅草の夜は、何事もなかったように続いていた。
    だが、谷村だけは、もう同じ景色には戻れなかった。

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