
ズボラな私と、爆発した芍薬
時間潰しにふらりと寄った改札横の花屋は、あいにく「芍薬祭り」の真っ最中だった。
あいにく、というのは、最近ハマっている韓国ドラマのせいで私の脳が著しくロマンチックにバグっていたからだ。主演の男が女に芍薬の蕾を贈り、それがやがて開き、香りに惚れ惚れする。
そんなベタな名シーンを見たばかりの私は、これを「神の導き」と解釈し、韓国女優の顔をして、その大きな蕾を連れて帰ることにした。
そもそも私にとって「花を買う」とは、その瞬間から自分以外の生命のケツを持つということだ。
買った野菜を冷蔵庫の奥でパサパサに変異させ、炊飯器の米を放置するようなズボラな私にとっては、なかなか覚悟のいる行為だった。
「蕾から何日で開花するの?」
花より団子歴29年。植物の知識が中学生で止まっている私は、早速スマホでAIに訊ねてみる。
するとどうだ。芍薬の蕾というのは、人間の手で優しく揉みほぐしてやらないと、蜜で花びらが固まって開かないこともあるらしい。思ったより、かなりの「かまちょ」である。
手がかかる奴だな、おい。
そう毒づきつつも、我が家に招き入れた命を私の不徳の致すところで殺すわけにはいかない。常に視界に入るリビングの一等地に鎮座させ、隙あらば毎日揉んでやることにした。
出勤前には「お互い今日もそれなりにやろうな」と声をかけ、帰宅後は、疲れ果てた自分自身の凝り固まったメンタルを労るかのように、その頑固な蕾を優しく揉みほぐす。
そんな奇妙な二人三脚が数日続いた、ある朝のこと。
芍薬が、突然爆発した。
いや、爆発という表現しか見当たらないほど、それはそれは見事な大輪となっていたのだ。
前言撤回。かまちょだなんて言って悪かった。そこには思わず居住まいを正したくなるような、荘厳な美しさがあった。
顔を近づけると、甘美な香りが鼻腔をくすぐる。たまらず顔を埋めて思い切り息を吸い込んだ。ぎっしりと詰まった花びらは驚くほどふわふわで、なんだか小動物の尻を撫でているような、猛烈な愛おしさが込み上げた。
仕事から帰っても、部屋のどこかでそいつが堂々と咲き誇っている。私の乱雑な部屋に、明らかに異質な「彩り」が加わっていた。なるほど、生き物と暮らすというのはこういうことか。しみじみと、その幸福を噛み締めた。
が、それも束の間。
その翌々日には、あれほどひしめき合っていた花びらが、雪崩のようにドサリと崩れ落ちた。
「まじかよ」
思わず声が出た。あっけなすぎる。
しかし、散った花びらを拾い集めながら、私はこの数日間の妙に鮮やかだった生活のことを考えていた。
朝起きて、会社へ行き、それっぽい議論をして、帰宅する。テンプレートのような毎日をただ消費し、立ち止まることすら忘れていた私にとって、あの「かまちょ」の変化に一喜一憂する時間は、間違いなく乾いた心に水をあてがってくれていた。
そういえば、九州に住む私の祖母も、狂ったように花を愛する人だった。
実家の周りはいつも色とりどりの季節の花で溢れていた。頻繁には会えなかったけれど、帰省するたび、私は車を運転して祖母を九州中の花畑へと連れ出した。
助手席の祖母は、花畑に着くといつも「こんな綺麗な花、今まで生きてきて一度も見たことない!」と歓声をあげた。
デートで男を喜ばせる港区女子さながらのセリフだが、それが本当かどうかなんてどうでもよかった。孫を喜ばせようとしてくれるその気持ちと、「一番気に入った苗」を嬉しそうに抱えて帰る少女のような背中を見るのが、何より好きだった。
やがて祖母は足が悪くなり、遠出どころか歩くことすらやっとになった。それでも、庭のガーデニングだけは頑なにやめなかった。
今なら、その理由が少しだけわかる気がする。
自分の足で遠くへ行くことは難しくなっても、自分の手で水をやり、手をかけたものが、刻一刻と変化していくのをすぐ近くで目撃すること。それはきっと、残された日々のなかで、自分が確かに生きているという強烈な実感だったのだろう。
花を迎え、茎を斜めに切り、水を替える。
ただ通り過ぎていく時間を、この手で少しだけ引き留めて、その変化をじっくりと味わうために。
ズボラな私も、これからは少しだけ、花のある景色のなかで生きてみようと思う。

