Vol.9 ヘビースモーカーの100歳から得る教訓
「近所に90歳のヘビースモーカーがいる。だからタバコは関係ない」。
こういう話を患者さんから聞くことがあります。そして残念ながら、医療者の中にも似たような論法で患者さんに話してしまう人を、私は実際に見てきました。
これは「生存者バイアス」と呼ばれる認知の歪みです。タバコを吸って長生きした人は目に見えます。でも、タバコが原因で60代・70代で亡くなった人は、もうそこにいません。見えているものだけを根拠にすると、現実とは真逆の結論が出てしまいます。
あるいは、人は「自らが信じたいもの」を信じるように、その論理を補強する事象を無自覚に集めてしまうとも言えます。特に近年のSNS時代、自分が興味があったり自分と近い思想の動画や投稿ばかりがAIで自動的に表示されるように仕向けられています。
喫煙と肺がんの関係は1950年に報告され(Doll & Hill, 1950)、その後、英国の男性医師約3万4千人を50年間追跡した研究(Doll et al., 2004)などで、喫煙による死亡の増加が主に心血管疾患・がん・呼吸器疾患によることが繰り返し示されてきました。現代医学で最も確固たるエビデンスの一つです。「タバコで長生きした人がいる」という一事例は、このエビデンスを覆しません。
こうした「一事例から全体を語る」思考パターンは、タバコに限らず広く見られます。「降圧薬を飲んだら却って具合が悪くなったという人がいる。血圧はある程度高い方がいいらしい」「ワクチンを打った知人が体調を崩した」——これらはすべて、確率とリスクを個人の体験談に置き換えてしまう思考の歪みです。
この歪みが大きい人は、エビデンスより体験談を信じやすく、科学的に根拠のない情報や陰謀論に取り込まれやすい。予防医療の現場にいると、そのことを痛切に感じます。医師の中にもそのような思考に陥ってしまう人がいることを、私は残念ながら知っています。立場や名がある医師の中にも、少なくありません。
これには実は、医師になるのにも、専門医になるのにも、部長になるのにも、教授になるのにも、このような「科学的な基本的素養」が必ずしも必須スキルとして問われていないという今の医学界の根本的な問題が関係しています。
最新の治療法や検査法は魅力的に映るものです。
しかし案外、大昔から使い古された、禁煙、禁酒、運動。そんな「つまらない」行動が一番予防効果の高い方法だったりもするのです。
参考:
Doll R, Peto R, Boreham J, Sutherland I. "Mortality in relation to smoking: 50 years' observations on male British doctors."
BMJ. 2004;328(7455):1519. doi:10.1136/bmj.38142.554479.AE. PMID: 15213107.
*noteの記事の内容は筆者の個人としての見解です。筆者所属の医療機関の見解とは一切関係ありません。内容の正確性には細心の注意を払っておりますが、万が一不適切な内容がございましたらご指摘いただけましたら幸いです。
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