
【小説・ヴィーナス症候群】(888)もう外立ちしたくない
カツカツと、ヒールの音だけが静かなオフィスに響くはずだった。
しかし、その音の主が両腕のない身体を緑色のステージドレスに包んだ試着モデル・檜皮谷奈緒であり、かつ文字通りの「直談判」に乗り込んできたとなれば、営業部門の事務室が凍りつくのも無理はなかった。
デスクを挟んで対峙する営業担当の女性社員は、あからさまに困惑の表情を浮かべている。
「最近のあのグヂャラートの番組の、小枝恵のおっぱい発言! あれのせいでトルソーがみんな外立ちしたくないって言ってるんです。どうにかなりませんか」(番外編50話)
腕のない美しい肩を怒らせ、奈緒は開口一番に言い放った。
事務室内の他の社員たちが、一斉にキーボードを叩く手を止める。
営業担当は、なだめるように両手を広げた。
「どうして? あの天才ピアニストの小枝恵ちゃんがグヂャラートの番組で、うちのドレスのフィットの良さを大々的に宣伝してくれたのよ? おかげさまで今、問い合わせが引きも切らない状態なんだから。最高のビジネスチャンスじゃない」

「だーかーらー!」
奈緒は声を荒らげ、デスクに一歩詰め寄った。
その鋭い眼光に、営業担当がわずかに身を引く。
「私のあの『発達障害事件』、もう忘れたんですかね!?」
「奈緒ちゃん、その話はもう……」
「忘れるわけないでしょ! デパートで酔っ払いに絡まれて、こっちが発達障害のフリしてビビらせようとしたら、向こうがガチで発達障害に迷惑かけられてるタイプの人だったらしくて大暴れして、それをバッチリYouTubeに晒されたあの事件ですよ! まあ、私はそのおかげで、今は外立ちしなくて良くなりましたけどね!」(本編793話)
自虐とも脅しとも取れる奈緒の剣幕に、営業担当は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
「……そうは言うけどさ、うちにとっては千載一遇の営業チャンスなんだよ? 奈緒ちゃんたちの給料だって、そこから出てるんだからね?」
「だからって、じゃあ私たちの安全はどうでもいいんですか!?」
奈緒のトーンが一段と上がる。
ドレスの胸元が、彼女の激しい呼吸に合わせて上下した。
「ネット見てくださいよ! 今『Felice』で検索したら、サジェストのトップに何て出てくるか知ってます? 『おっぱい』ですよ!? そんな下世話な視線が集まってる中で、他の子たちをまたデパートの展示場に立たせる気ですか!?」
「いや、それは……もちろん各店舗にはね、安全対策を徹底させるから……」
営業担当の言葉が濁る。具体性のない、その場しのぎの返答であることは明白だった。
「どうやって?」
奈緒は逃げ道を塞ぐように、冷徹な声で問い詰めた。
「もし展示中に何かされたら、現場のスタッフは具体的にどういう対応を取るんですか? マニュアルはあるんですか?」
「それは……」
営業担当は書類に目を落としたまま、二の句が継げなくなった。
事務室を支配するのは、エアコンの微かな稼働音と、営業部門の完全な「敗北」を示す沈黙だけだった。
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