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【小説・ヴィーナス症候群】(668)天竜川の遺体

    春の嵐が去った東京は、まるで世界が洗われたように澄んだ空だった。
    朝は暴風で電車が止まり、街路樹が折れ、
    ニュースアプリには警戒情報が並んでいたが、
    夕方には雲の切れ間から青い光が差し込んでいた。

    呼続芽衣は、都心のスタジオでのトルソー仕事を終え、
    地下鉄を乗り継いで帰宅したところだった。

    “腕のない身体が布を邪魔しない”と評価される仕事。
    百貨店展示やブランド撮影に呼ばれることも増えたが、
    長時間の立ち姿は体幹が消耗する。
    肩義手を外すと、ほっとする重さが胸の奥に落ち着いた。

    夕食をテーブルに置き、テレビをつけた。
    嵐のニュースが続いている。

    〈東海〜関東 各地で暴風被害〉
    〈天竜川上流で増水〉

    画面は、河川の映像に切り替わり、
    気象予報士がスタジオのボードを指していた。

    「今回の春の嵐は、いわゆる“メイストーム”です。
     急速に発達した低気圧が日本列島を通過し、
     台風並みの暴風をもたらしました」

    芽衣は、コップの水を飲みながら画面を眺めた。

    「気象庁も以前から“春の嵐”として注意喚起していますが、
     メイストームは特に、山間部での河川増水が急激なのが特徴です。
     晴れたように見えても、上流は危険なんですね」

    ――上流。
    天竜川のような、山の谷間を流れる川。

    芽衣は何となく聞き流しながら、ソファに体を沈めた。
    その時、画面が別のニュースに切り替わる。

    〈天竜川流域で行方不明者 静岡・磐田市〉

    芽衣は、目を細めて画面を見つめた。
    見覚えのある地名が出た気がした。
    〈愛知県三鼎村の小学校長、遺体で発見〉

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    心臓が跳ねた。

    「行方不明になっていた三鼎村立三鼎小中学校の校長、
     白井多江子さん(59)の遺体が、
     静岡県磐田市内の天竜川の河川敷で発見されました」

    ――白井、多江子。

    呼続芽衣は、姿勢を正したまま固まった。

    画面には、
    古びた白い校舎、
    ほこりを被った無人の教室、
    色あせたランドセル。
    “4月6日”と書かれた黒板の文字。

    アナウンサーが続ける。

    「三鼎村には現在、学齢期の児童はおらず、
     学校は事実上の休校状態が続いています」

    「村の関係者によりますと、白井校長は
     “溺れた子どもを助ける”と言って
     増水した天竜川に飛び込んだということですが、
     その日に川で遊んでいた子どもの存在は確認されていません」

    芽衣は思わず、手のない肩口を抱いた。

    “子どもを助ける”――
    子どもはいないのに?

    ニュースのテロップが切り替わる。

    〈“仕事で悩んでいるようだった”〉
    〈“気弱な人だった”〉
    〈“指導力不足と見られ、低学年ばかり担当していた”〉

    芽衣は、喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。

    十年前の教室が、胸の奥でふっと灯る。(第420話)

    拍手をしろ、と言われた歌。
    金属義手の音を響かせた自分。
    笑い声。
    泣きたかった自分。
    そして――
    何を言うこともできなかった、白井先生。

    アナウンサーが最後の原稿を読み上げた。

    「白井校長の最期について、専門家は
     “過疎地での単独勤務の負担による心身の不調の可能性”を指摘しています。
     村では明日にも記者会見が開かれる見通しです」

    芽衣は、テレビを見つめたまま、動けなかった。

    春の嵐はもう過ぎ去った。
    空は澄み渡っている。
    でも――
    胸の奥には、
    十年前から晴れない雲が、
    またゆっくりと戻ってきていた。

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    #呼続芽衣 #白井多江子

     
     
     
    小説を書いたり、よしなし事を書いたり。

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