
【小説・ヴィーナス症候群】(19)あの夏の記憶
原因不明の第2サリドマイド事件の被害児やその家族の当事者団体「コルチカムの会」で働くヴィーナス児の階上つばさは、この日も一人、オフィスの照明の下に残っていた。
「講師交通費 支払確認済」
「福祉振興財団・交付実績報告書」
「次号会報原稿・修正案」
机の上には、フォントの違う書類が五種類以上、並んでいた。PDF化が済んでいない紙の原本も混じっていて、足元には未処理の資料が入った段ボール箱。スキャンしてまとめるだけでも数時間はかかる。
そのうえ、助成金報告のフォーマットは市と県で微妙に異なる。金額の記載単位も「円単位」と「千円単位」が混在していて、会計担当から「これ直せます?」と、軽い口調で押しつけられたものだった。
(やれるけど……なんでいつも私なんだろ)
心のなかでつぶやいて、足でトラックパッドを操作する。慣れた動きではあるけれど、少しだけ疲労感がまさってきていた。プリンターから吐き出されたばかりの印刷物のインクの匂いが、夜の空気に残っている。
冷めかけたスープとコンビニのおにぎりが、デスクの隅に置かれたまま。
時計を見ると、もう21時を過ぎている。
「……もう、食べながらやろ」
つばさは、椅子の背にかけていた義手を外し、脛と足の指だけで器用にスープの蓋をはがした。湯気が少しだけ上がる。
(せめて、音くらいあったほうが気がまぎれる)
スマホを取り出し、YouTubeを開く。とくに何を見たいわけでもなかった。ただ、何か映像と音が流れていれば、それだけで気が楽になる、そんな夜だった。

そこで、目に留まった。
――《足だけで1日過ごしてみた!朝から晩まで完全ノー義手生活》
彼女だった。麻帆。
“Venus diary”というチャンネル名の、ヴィーナス児のYouTuber。フォロワー数は数十万を超え、義手を使わず足で暮らす日々を明るく発信している――その姿を、私は知っていた。
でも、最初に出会ったのは、そんな華やかな彼女じゃなかった。
(……サマーキャンプ、だったよね)
当時、私は高校生で、麻帆はたしか中学三年。キャンプ初日の自己紹介の場で、周囲が緊張して黙りこくるなか、ひとりだけ「好きな食べ物はカニクリームコロッケです!」と元気に言って、みんなを少し笑わせた。
足の指だけでスニーカーの紐を結び直し、虫よけスプレーを振る仕草まで、無駄に器用で。
あのときから、両腕がないということを、彼女自身があまり“気にしていない”ように見えた。
私は話しかけられなかった。
少しだけ、羨ましいと思ったのを覚えている。
同じ身体を持ちながら、彼女のようにはなれなかったから。
(覚えてるわけ、ないよね)
そっとスマホを伏せた。
あの子は今、カメラの前で生きている。
私はこの机の上で、誰にも読まれない会報の編集後記を書いている。
でも――それでも。
記憶のなかの麻帆は、今でも夕暮れの芝生の上で笑っていた。
両腕のない身体で、足を伸ばして、空を仰いでいた。
風に髪をなびかせながら、「この足で何でもできるんだよー」って言っていた。
私はそっとスープをすすりながら、もう一度スマホを手に取り、動画の再生ボタンをタップした。
忙しない現実の中に、ほんの少しだけ、あの夏の記憶が戻ってきた気がした。